【2章突入!】新米家庭教師の俺、初めての生徒は人気子役の彼女。
手鞠凌成
1章 初めての家庭教師
第1話 わたしが、選びました
日曜の夜二一時。
読まなくなった小説や漫画をひもで結ぶ。これで本の山は二つになった。
陸目はその中で残った、青いレザリックカバーの一冊を手に取る。これをどうしようか逡巡して――本棚の奥にしまった。
ふーと疲労のため息が出る。陸目はそのまま床に腰を落とす。
ちょうどテレビでは、人気子役の瀬ノ杏奈が映画の番宣をしている最中であった。
瀬ノ杏奈。現役の高校二年生だ。物心がつく時期からテレビやドラマ、映画で活躍をしており、歳を重ねるごとにその演技力に磨きがかかっている。
そんな睦目は、彼女に尊敬の念を抱いていた。
ぼーっと眺めていると、テーブルに置かれたスマホから着信音が奏でられる。
普段からあまり電話をすることがない睦目は、少し反応に遅れてしまった。
つい最近母親から安否確認の電話があったくらいで、それ以外は何もない。
だから、疑ってしまう。
セールスからの電話だったら嫌だな、と思いながらスマホを手に取った。
「えっ、」
しかし画面には『塾長』の文字が表示されていて。
一瞬、陸目は困惑する。
睦目は一ヶ月前に家庭教師のバイトに応募をし、受かった。だが未だに生徒は目の前に現れていない。
塾長とはそのバイト先の社長だ。
びっくりして滑り落ちそうになったスマホを何とか掴み直して、恐る恐る電話に出る。
「はい。もしもし……」
『夜分遅くに申しわけございません……陸目くん、ですよね』
塾長の穏やかな声にいくらかの真剣さが含まれている。
「はい……」
『あの明日予定空いてますかね? 大事なお話があるので本社に来て頂けるとありがたいのですが……』
滅多にかかることのない塾長からの大事な電話。
嫌なことを想像をしてしまって、携帯を握る手に力が籠る。
「ええっとはい。明日は大丈夫です」
『では、来られる時間帯がわかりましたらご連絡ください』
そうして通話が終わる。七畳の狭い部屋にテレビの賑やかな音だけが静かに鳴り響いていた。
「明日からどうなるのかな……」
ふっと出た魂が抜けたような独り言は、虚空へと吸い込まれていく……。
結局陸目は、朝まで悩む羽目になってしまった。
* * * *
翌日。大学が終わり放課後。横浜駅に降り立った陸目は、ある雑居ビルの前で立ち止まる。
睦目はスーツ姿だった。大事な話なら普段着は不味いと思い、わざわざクローゼットから引っ張り出したのだ。
だす足が躊躇われる。枷を付けられたみたいに重い。けれど、ここでずっと立ち往生しているわけにもいかない。
覚悟を決め、手汗をスボンで拭うと。睦目は足を前へ、動かした。
エレベーターで五階まで上った陸目は、『国木田塾』とシールが大きく貼られた自動ドアを抜ける。すれ違った親子に会釈をした。中へ入ると、
「――あの、うちの子を……」
「社会の成績が上がらないんですが――」
「……テストでいい点とりたくて……」
そこは喧噪で満ち溢れていた。
沢山の人が相談できるようコの字型をしたカウンターでは、やはり多くの人たちが集まっている。スーツを着たスタッフがそれぞれの対応に当たっていた。
『国木田塾』は二年前にできたばかりの、いわゆる家庭教派遣会社だ。
その実績はすさまじく、多くの生徒を難関大学合格へ導いている。
この塾では生徒が担当教師を選ぶ体制をとっていた。
そのため、自然とベテラン教師や高学歴の教師が注目を浴びた。
睦目も一応、それなりに偏差値がある国立大学の教育学部に通ってはいる。けれど他県からの難関大学卒業生が割と占めており、埋もれてしまった。
ここまで生徒ができないなると、流石に胸に来るものがある。
ふと視界に入り込む掲示板。国木田塾に登録されている教師たちの画像やプロフィールが印刷された紙が、一面を覆っている。
トップには『人気NO1』とポップが書かれたイケメンが、爽やかな笑顔を浮かべていた。
自分のはどこかな、と上から下まで満遍なく視線を動かしていたら、やっと見つけた。
でも、一番下の右端にあってもはや誰もわからない。
パッとしない容姿に作ったような笑み。人気差の所以はこの笑顔にあるのだろうか。
そう思ったが、「ハーバード大学卒」とあって陸目は諦める他なかった。
床にこぼしたため息を、踏み潰し。陸目は、カウンター裏にあるバックヤードへ向かう。その間、誰も陸目に視線を送る者はいなかった。
カウンターとバックヤードは分厚い木の壁で隔たれており、一枚の扉によって繋がれていた。
睦目はクーラーで冷えたそのドアノブを捻る。
大きい室内では業務用コピー機が大きな唸り声を上げ、事務員が忙しなく作業をしていた。
左手には背の高いパーテンションで一部区切られた空間がある。そこは家庭教師の人達の控室らしい。塾長曰く、交流や情報共有の場として設けたようだ。
塾長室があるのは奥の孤立した部屋。睦目は働くスタッフたちを尻目に、耳に群がる雑音を振り払いながら、さらに歩みを進める。
白いドアをノックする。「失礼します」
「どうぞ。お入りください」向こう側から許可の言葉が降り、陸目はその扉を開けた。
「ようこそいらっしゃいました。陸目さん」
正面の席に座る塾長――国木田塾創設者であり社長の国木田和彦が、くしゃっと目尻に皺を寄せ歓迎する。塾長と会うのは研修ぶりだ。
高齢とは思えないほどに背筋がピンと伸び、佇む姿も凛々しくどこか威厳すら感じる。首元に巻かれた金のロケットが目に入った。
塾長室に入るのは初めてだ。思ったよりもシンプルで、額縁に収まる賞状が両側の壁に何枚か飾られているのみ。白を基調とした狭い部屋は無機質でもあった。
そしてふと気づく。塾長室に呼ばれたのはどうやら自分だけではなかったようだ。
塾長の斜向かいに、二つの人影が椅子に座っていた。
手前側にはショートの黒髪をした女性。
そして左隣には―黒い帽子を深く被り、そこからはみ出る黒の長髪が、水墨画で描いた川のように流れている。
背格好からして大人ではないことがわかる。まだ若い。中学生かそこらだろうか。
顔半分は白いマスクで覆われ、目もサングラスが掛かり表情が窺えない。
しかも服装も白のUネックシャツに黒のジャケットを合わせ、ボトムスはブラックのスキニーとまるで不審者。しかしスタイルがいいからなのか、どうにも似合っているように見えてしまう。
「陸目さん、とりあえずおかけください」
塾長の温厚な声に促され、陸目は横に並ぶ二人を気にしつつ、目の前に用意された椅子に腰を下ろした。
大事な話とはなんだろうか。そしてこの謎の二人は誰なのか。疑問が深まるばかり。
綺麗に片づけられた机の上で、塾長は指を絡める。
「……さて、陸目さんをここに呼んだわけなんですが……。まぁまずは、見てもらう方が早いでしょう」
見てもらう? 塾長の不可思議な発言に首を傾げていたら、ふいに、不審者のような見た目をした少女がその変装を解く。
「――っ⁉」
帽子とマスク、サングラスを脱いだ彼女の姿を瞳で認めて――驚きのあまり声を失う。
びっくりしすぎて心臓がバクバク胸の中で暴れ始めた。
「紹介します。今回呼んだのは他でもありません。瀬ノ杏奈さんの家庭教師になって貰いたいのです」
「初めまして。瀬ノ杏奈です……」
言って彼女は、陸目にちらりと目をやり遠慮気味にお辞儀をする。
目立たないようにしていたであろうそのモノトーンのコーデも。素顔を晒せば一瞬でファッションモデルの衣装に昇華する。ただの景色が撮影スタジオに早変わりしたみたいだった。
あり得ない光景に、頭が真っ白になる。考えていた言葉も消し飛んだ。
唖然とする睦目。そんな不自然に生まれた沈黙を、塾長が「ほら睦目くん。ご挨拶を」と声をかけてくれたおかげで我に返る。急いで「桜山睦目です」と自己紹介した。
「……陸目さん。驚かれるのもわかります。しかしながら、ここはどんな人でも、家庭教師と生徒という関係は従事してください。いいですね?」
含みのある言い方。塾長が釘を刺すように、語気を強めて言った。
陸目は動揺する感情をどうにか落ち着かせながら「はい……」と応える。
「あと、ここでのことは他言無用でお願いしますね?」
「も、もちろんです!」
この塾に人気子役、瀬ノ杏奈がいたとなったら騒ぎではすまないだろう。
報道陣や文春の記者が来るかもしれない。そうなったら塾を続けるどころじゃなくなる。
陸目の肩に巨大な重圧が落ちてきたような感覚を覚えた。
一瞬でも気を抜けば、たちまち潰されてしまう恐怖が身を引き締める。
「では、今後の授業について相談したいのですが――」
「ちょっと待ってくださいっ!」
何事もないように、淡々と説明に入ろうとする塾長の言葉を遮る。
まずこの状況に全く動じず、反応もしない塾長の精神力は見習うべきなのだろうが、陸目には確かめたいことが一つあった。
「あの、なんで俺なんですかね? もっと色んな先生がいたと思うのですが……」
国木田塾には自分以上に頭のいい教師陣が揃っている。それに、まだ入りたての自分に『芸能人』の担当をするという責務を負うにはどうにも不安が残る。
睦目にそれらを背負う覚悟も自信も、砂の一粒ほどにもなかった。
「ああそれなんですが――」
「わたしが、選びました」
「え?」
思わぬ発言に、陸目は目を見開く。
「わたしが、選んだんです」
杏奈は身体を傾けて睦目と向き合う。二つの視線が交差した。
澄み切った眼差しの底に嘘偽りの不純物はない。杏奈は至って真面目だった。
「――わたくしも他の教師は勧めてはみたんですが、杏奈さんが選んだんですよ。
なにより生徒さんの意見が最優先ですので。陸目さんも、家庭教師として自覚をもってくださいね」
そう言われてしまうと、言い返す言葉もない。
睦目は大人しく従うしかなかった。ただ、なぜ瀬ノ杏奈は自分を選んでくれたのか。
もやもやが胸にわだかまりを作る。しかし今ここで訊くのは流石に気が引けた。相手が選んでくれたものに、何度も問い質すのはそれこそ情けなかった。
*
塾長は大体の授業形態と内容について説明をしていく。
「――では、トライアル期間は今週と来週の火曜日と金曜日の、合わせて四回になりますが、お間違えないですか?」
受講者が初めての教師を選んだ場合、トライアル期間が設けられている。この期間によって、自分の担当にするかどうかが決まる。教師陣にとっては一番大事な時期だ。
「はい、合ってます」
「初日の時間は一八時から、金曜は一九時からになっておりますが、大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
杏奈がはっきりした口調で返した。
スケジュールアプリを開き記録する。真っ白だった火曜と金曜の枠が赤く染まった。
スケジュールが一つでも埋まるとこんなに嬉しいものなのか、と勝手ながらに感動を覚える。
「睦目さんは、なにか言いたいことがありますか?」
「いえ特には」
気になる事は山ほどあるが、ここは我慢して飲み込んだ。
「では杏奈さん。もしくは親御さんから伝えたいことはありますか?」
杏奈が首を横に振り、母親がぎろっと針のように鋭い視線で睨めつける。
「……いえ特にございません」
吐く言葉の端々にどこか棘を感じる。警戒されているのだろうか。
「ではお帰りは裏からお願いします。変装していても、表は危ないので」
杏奈は再度あの不審者の姿に戻る。杏奈と母親は塾長の案内の元、この部屋を去っていった。
一瞬訪れた静寂。途端に、ぴんと張っていた意識が緩んだ。緊張で固まっていた筋肉も解け、脱力する。背もたれに体重を預けた。
夢のような出来事に、胸が一杯になる。まさか、あの瀬ノ杏奈に会えるなんて。それも家庭教師として。
あの時の感情が血液に乗って、細胞の隅々にまで届く。
――やっと、恩返しができるかもしれない。
ほっと息を吐き、呆然と白い天井を見つめ余韻に浸っていたら。
ドアが開かれ塾長が帰ってきた。睦目は姿勢を正す。
塾長が自分の席に着くと、「さて、これからについてなんですが――」今後すべきことと、やること。そして留意すべきことを聞かされた睦目は、都度メモをとり確認する。
話が終わりビルを離れた頃にはすでに一九時を回っていた。六月の空は分厚い鉛色の雲で覆われ、より一層夜の闇が濃くなる。肌を撫でる風も生温く、湿気が全身に張り付いた。
街も明かりで色づき、昼間になかった活気が漲る。
近くの居酒屋も賑わい始めた。キャッチの元気のいい声が、雑踏に乱れる路地に響き渡る。
本当に疲れた。昨日の寝不足も手伝って、頭がうとうとする。
睦目は次の電車に乗り込むと、二駅先にある小さなアパートの一室へ入りシャワーを浴びた。
髭をそり、寝巻きに着替えてからご飯を食べる。少し、明日の授業の準備をしたら、歯を磨いて、電気を消し目を閉じた。
明日から、睦目にとっての初めての授業が始まる。
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