元平民の底力

(うーん……重い……)


 ぎゅうっと眉を寄せて目を開けたセレアは、息がかかりそうなほど近くにあるハムの塊みたいな顔に、ひゅっと息を呑んだ。


「ぎゃああああああああ‼」


 間髪入れずに大声で叫んで、のしかかっている中年男の股間へ容赦なく膝蹴りを食らわせる。


「ぐっ」

 低くうめいて口から泡を吹いて気絶した男を押しのけて、セレアはまず自分の体を確かめた。


(服着てる! おかしなところはなし! よし!)


 そして改めて部屋の中を見渡す。

 ここはどこかの宿のようだった。内装が豪華なのでグレードの高い宿だろう。


(っていうか、わたしはなんでこんなところにいるの?)


 どうやらセレアはベッドに寝かされていて、このハムみたいな顔の男に襲われそうになっていたらしい。

 危なかったーっと胸をなでおろして、セレアはベッドからそーっと降りると、ベッドの上で泡を吹いて気を失っている男の顔を改めて確かめた。


(あれ?)


 そして気づく。


(この顔、どこかで……)


 どこでだっただろうかと考えて、セレアはポンと手を打った。

 そうだ。ゴーチェに連れていかれたナントカという侯爵家のパーティーで紹介された――ええっと確か、エドメ・ボラン侯爵だ。


(わたしの記憶力もまあまあね)


 一度しか会ったことのない男の顔と名前を憶えているなんてやるじゃんわたし、と感心したところで、セレアは首をひねる。


「でもなんでデブ二号がここにいるの?」


 セレアはベッドから極力距離を取って、万が一の時に武器になりそうなランタンを掴んだあとでうーんと唸る。

 セレアが覚えているのは、レマディエ公爵家でニナとともに庭の四阿でお茶をして、そして――


「そうよ、ニナ!」


 思い出した!

 のんびりお茶をしているときに近づいてきた数名の兵士に、近くに魔物が出たから助けてほしいと言われたのだ。

 ニナは止めたが、騎士や兵士が助けを求めるほど強力な魔物なら危険だと思って、ニナを説得して兵士について行った。すると突然兵士に襲い掛かられて、何か刺激臭のする薬品を嗅がされたのだ。そのあとは覚えていない。


(どうしよ、ニナは大丈夫かしら……?)


 セレアがここにいると言うことは、一緒にいたニナも何かしらの危害が加えられている可能性が高い。

 状況から判断するに、セレアはこのデブ二号に攫われたのだと思うけれど、ニナもここにいるのだろうか。


「……探しに行く前に、念のために潰しておこうかしら」


 セレアは手に持ったランタンと、それから泡を食って気絶しているボラン侯爵の股間を見て考える。二度と襲われないように使え失くしておけば安全ではなかろうかと物騒なことを考えたが、下手に危害を加えて目を覚ますとそれはそれで厄介だ。あと、どのくらいの力を加えたら潰れるのかがわからないので、今の状況で下手なことをするのは危険だと思われた。


「じゃあ、とりあえず……」


 セレアは部屋の中を探してローテーブルの上にかかっているテーブルクロスを見つけると、それを細く引き裂いた。ボラン侯爵のようなデブを縛り上げるには長さが足りないので、セレアはそーっと気絶している彼に近づいて、首にクロスの端を巻き付けると、反対の端をベッドの支柱に括り付ける。さらにテーブルクロスを引き裂いてもう一つ紐を作ると、両手首をぎゅうっと縛り上げた。


「よし。これで目を覚ましてもひとまず安全ね」


 テーブルクロスを引き裂いたので宿の人が見れば怒る気がするが、怒りはセレアを拉致して襲い掛かって来たボラン侯爵に向けてほしい。

 万が一目を覚ましても安全なようにボラン侯爵の動きを封じ終えると、セレアは窓の外を確かめた。


「三階……四階くらいの高さね。さすがにこれじゃあ飛び降りるのは無理だわ」


 二階くらいなら怪我を覚悟で頑張ろうと思ったが、さすがにここから飛び降りたら死ぬ。

 かといって、いつぞやレマディエ公爵家のタウンハウスでしたようにカーテンをつなぎ合わせて作ったロープで逃げようとすれば、昼の今ならすごく目立つだろう。ボラン侯爵の仲間に気づかれると非常に面倒くさいことになる。


(この宿の人が味方になってくれれば嬉しいけど、貴族相手に立ち向かえるはずないし、買収されてるかもしれないし……)


 堂々と部屋の扉から逃げるのも難しそうだ。

 セレアは腕を組み、どうしたものかと考える。

 運よく宿の外に出られても、セレアには土地勘がない。どうすればレマディエ公爵家に帰れるかもわからなければ、ここがどこかも判断がつかない。

 名案が思い付かずに窓の外を睨んでいると、宿の玄関前に見知った男がいるのを見つけてセレアはチッと舌打ちした。


(なんだ、デブも一緒か。まあ、それもそうね。あのデブ二号にわたしを売り飛ばしたいのはデブの方なんでしょうし)


 玄関の前ではゴーチェが数名の兵士と話をしている。

 デブの近くにババアもいるので、異母兄のアルマンもどこかにいるのだろうか。非常に面倒くさい。


(これは逃げるのは夜を待った方がよさそうね。……でも問題は、夜までどうするかだわ)


 ベッドの上には気を失っているデブ二号。

 ベッドの下に隠れるのはありきたりだし、見つかったときに逃げにくい。

 出入り口がこの部屋に続く扉だけのバスルームも却下。

 クローゼットの中も見つかったときに逃げられないので危険だ。

 セレアは窓の近くから離れると、廊下に続く扉に耳をつけた。


(扉の近くに誰かいる気配はないけど、堂々と出ていくのは不用心すぎる)


 ならば、とセレアは気を失っているボラン侯爵の上に布団をかけてその姿を隠し、ベッドの天蓋も下すと、宿の従業員を呼ぶためのベルを鳴らし、そして天蓋の裏に隠れた。

 ややして扉を叩く音がしたので、扉を開けずに「ティーセットを」と頼む。

 そして足音が去っていくと、今度は扉の陰になる部分に隠れて従業員がティーセットを運んでくるのを待った。

 ややしてノックの音がして、許可を出すと扉が開く。

 入ってきたのは背格好が同じくらいの女性の従業員だった。他にはいない。


(ごめん!)


 セレアは心の中で謝罪をして、背後から素早く女性に近づくと、首の後ろに手刀を叩き込んだ。

 声もなく倒れこんだ従業員を床に寝かし、一応脈があるかどうかを確かめる。失敗したら危険なのでかなり力を込めたからうっかり殺していないか心配になったのだ。


(よかった生きてる! そして本当にごめんね!)


 セレアはホッとして、それから彼女のお仕着せをはぎ取ると、自分のドレスを脱いで素早くお仕着せに着替えた。

 ついでに時間稼ぎができるかもしれないと、彼女にドレスを着せて、わきの下に手を入れて何とか抱え上げるとソファに座らせた。髪の色で気づかれる可能性もあったが、宿の従業員のどれだけがセレアの特徴を知っているのかはわからないので、誤魔化されてくれる可能性も高い。


 セレアは彼女がかぶっていた頭巾の中に赤銅色の髪を押し込むと、彼女が運んで来たワゴンを押しながら慎重に廊下に出た。

 見張りはいない。おそらく廊下ではなく宿の出入り口を重点的に見張っているのだろう。

 ワゴンを押しながら、従業員が使っている階段へ向かう。

 そして階段の端にワゴンを置くと、そのまま壁伝いに慎重に階段を下りはじめた、そのときだった。


「誰か! 誰か来い‼」


 元いた部屋のあたりから野太い怒鳴り声がした。


(ちっ、もう目を覚ましたのね! 猿轡をかましておくんだったわ!)


 夜までどこかに潜伏していようかと思ったが作戦変更だ。このままでは見つかるとセレアは階段を駆け下りる。

 しかし階段の下からは宿の従業員たちが駆け上がってきて、セレアを見て叫んだ。


「誰だ!」

「新人のセリーヌです!」

「新人が入るなんて聞いてな……」

「そうですか!」


 セレアは階段の残り飛び降りざまに、踊り場にいる叫んだ従業員の一人に膝蹴りを食らわせて、そのまま走り出す。


「待て!」

「お客様が呼んでいますよー!」


 セレアを追いかけようとした従業員に向かって言えば、その声にかぶさるように「誰か!」とボラン侯爵の怒鳴り声が響く。

 従業員は逡巡したようだが、もちろん彼らが行動を決めるまで待ってあげるようなセレアではない。

 一階までの階段を素早く駆け下りて、セレアが従業員の通用口から逃げようとしたときだった。


「どこに行くんだ!」


 扉の前で仁王立ちになったアルマンに、セレアは内心舌打ちする。


「お使いを頼まれまして!」

「ふざけているのか、セレア」


 やっぱり髪を隠したくらいでアルマンの目を誤魔化せるはずがなかった。

 仕方なくセレアは扉の近くに立てかけてあった箒を掴んだ。


「そんなものでどうするつもりだ」


 アルマンが嘲るような笑みを浮かべる。


「元平民を舐めない方がいいわよ」


 箒を構えて、セレアはアルマンの背後を見た。

 アルマンの後ろにも数名の男がいる。


(箒であれ全部はきついわね……)


 せめて飛び道具が欲しかったが、残念ながら武器になりそうなものはほかにない。

 しかしもたもたしていると授業員たちが駆けつけてくるだろう。挟み撃ちにされればなお分が悪くなる。

 セレアは覚悟を決めて、箒でアルマンに殴り掛かった。


「くそっ」


 本気で殴り掛かってくるとは思わなかったのだろう、アルマンが顔色を変えて扉の外に逃げる。

 しかしアルマンが逃げても他の男たちがいて、しかも相手は兵士なのか武器を持っていた。


「多少傷つけるのは構わん! とにかく捕まえろ!」


 アルマンが叫ぶと、男たちが剣を鞘ごと抜いて構える。

 鞘ごととはいえ、剣と箒では武器としての性能が違いすぎた。

 一人が剣で殴り掛かって来たので何とか箒で止めるも、伝わってきた衝撃でジンと手がしびれる。

 その隙にもう一人の男が体当たりをしてきて、セレアは壁に吹き飛ばされた。


「いっ」


 背中を強く打って、セレアはきつく顔をしかめる。


「ったく、手間取らせやがって!」


 アルマンが唾を吐き捨ててセレアのそばまで歩いていくと、頭巾をはぎ取って、髪を掴んでぐいっと引っ張った。


「離して!」

「うるさい! お前のせいで我が家がどれだけ大変だったと思っているんだ‼ 今度は絶対に逃がさないからな‼ ボラン侯爵の前に突き出してやる‼」

(パーティーでわたしに襲い掛かっておきながらどの口が言うのよ‼)


 髪を掴まれたまま引きずられそうになって、セレアはやっぱりためらわずにボラン侯爵の股間を潰しておけばよかったと後悔した。

 あんな男に手籠めにされるなんて冗談じゃない!


(こんなことなら意地を張らずにジル様の求婚を受けておけばよかったわ!)


 正式にジルベールと結婚していたならばこんな目には合わなかっただろう。いくらボラン侯爵が大臣だろうと、相手は王家とつながりのある公爵様だ。圧倒的にジルベールの権力の方が大きい。

 過去の自分の行いを後悔するも遅かった。

 髪を掴んで引っ張られることの痛みと、それから悔しさに、セレアがぎゅっと唇を噛んで涙を我慢したときだった。


 不意に、反対の宿の玄関のあたりが騒がしくなった。

 玄関から泡を食ったような顔でデブとババアが走ってくる。


「セレア! お前!」


 セレアを見つけて怒りで顔を真っ赤に染めてセレアにつかみかかろうとしたババア――アマンダだったが、「それどころじゃない!」とゴーチェに怒鳴られて、手を引っ込めた。


「お前もだアルマン! 早く逃げろ!」


 いったい何があったのだろう。

 セレアの髪を掴んだままのアルマンが戸惑いを見せたが、戸惑ったのはセレアも同じだった。

 ゴーチェとアマンダがアルマンを押しのけるようにして通用口に向かう。

 しかし――


「そこまでだ」


 その声を聞いて、セレアの心臓がドクンと大きく鼓動を打った。

 顔を上げれば、数名の騎士を引きつれてやって来たジルベールが立っている。


「ジル様……」


 ジルベールは笑って、それから手に持っていた書類をゴーチェたちに向かって突きつけた。


「王族への拉致および暴行で捕縛する! 全員残さず捕まえろ‼」


 ジルベールの号令で騎士たちがゴーチェたちに襲い掛かる。

 アルマンが慌ててセレアの髪から手を放して逃げようとしたが、騎士の一人に蹴飛ばされて床の上を転がった。

 何が起こっているのかわからず目を白黒させるセレアの側にジルベールが膝をついて、乱れた髪を整えるように優しく頭が撫でられる。


「遅くなって悪かった。大丈夫だったか?」

「――――っ」


 わけがわからない。

 わけがわからなかったが、今はそんなことはどうだっていい。


 セレアは勢い余ってジルベールに抱き着くと、緊張の糸が切れたせいか、ボロボロと泣き出してしまった。



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