第6話 境遇【10年前④】

「(何……この傷………)」


 エルヴィンの身体中に走る傷跡は小さいものから大きいものまで、そして刃物などで切られたような綺麗なものから、どうして出来たか分からないような乱れたものまで様々だった。


 エルヴィンの身体中に傷跡があることはゲーム通りではあった。

 しかし、その傷跡を目の当たりにするととても「ゲーム通り」の一言で済ませることは出来ない。


 何より、まだ幼いエルヴィンの身体に既にこれだけの傷跡があるという事実がアンの心を打ちのめした。


「…………?」


 手が止まったアンを不安そうに見上げるエルヴィンと目が合い、アンは慌てて笑顔を貼り付ける。


「ごめんごめん、ちょっと貧血なのかも。ぼーっとしちゃった」


 笑って誤魔化しながら、アンは1番柔らかいボディタオルで丁寧に泡を作った。

 片手では時間がかかったが、しっかりと泡を立て、エルヴィンの肌を傷つけないように優しく洗っていく。


「これ、いい香りでしょ? 私はお風呂タイムが1番癒されるんだよね」


 ナイフが1箇所に刺さっただけでもアンにとっては一大事だった。しかし、エルヴィンの身体に残る傷跡はどれもアンの傷とは比べ物にならないものばかりなのだ。

 それに、エルヴィンは半魔であるがゆえ傷の回復力は高い。それなのに、これほどまでに傷跡が残っている。それは一つ一つの傷が「大怪我」だったことを表している。

 涙が込み上げてくるのを押し戻しながら、ゆっくり、ゆっくり、少しでもキズの記憶が無くなればいいと願いながらアンは丁寧にその体を洗った。


 エルヴィンは大人しくアンに身を委ね、心地よさそうに目を細めている。


「(エルヴィンがこんな過酷な環境にいたなんて……)」


 アンはぎゅっと唇を噛み締めると、泡だらけになったエルヴィンの上半身に優しくシャワーをあてていく。


 身体についた泡を全て洗い流した後、アンはボディタオルをエルヴィンの手に握らせた。


「流石に下半身は洗えないから、自分で洗ってね。優しくだよ」

「………」


 無言のままエルヴィンがこくりと頷いたのを見て、アンは空の湯船にお湯を注ぐ。


「夕飯作るのも時間がかかるから、洗い終わったらこの湯船の中にしばらく浸かってから出てね。体を洗い終わったら、ここのレバーを切り替えたらシャワーになるから、洗い流して。お湯を止める時はここね」

「……わかった」


 小さな返事に微笑みで返し、アンは浴室を後にする。


 後ろ手に扉を閉めると、何とも言えぬ悔しさがアンの身体を駆け巡った。


「(なんで、まだ小さい子があんな目に……!)」


 アンはエルヴィンの境遇を知っている。

 本人もまだ知らないが、エルヴィンは魔王と恋に落ちた人間との間に生まれた、魔王の血を引く唯一の子なのだ。


 魔族と人間の結婚など許されるはずもないこの世界で、魔王が人間と結婚出来るはずもない。

 二人は周囲によって引き裂かれ、既に身篭っていた母親は魔王に妊娠を告げることも出来ず一人でエルヴィンを産んだ。

 そして、エルヴィンの魔力に耐えきれずに出産と同時に命を落としてしまったのだ。


 魔人の特徴を持つエルヴィンを受け入れてくれる人間はおらず、エルヴィンの唯一の居場所は荒くれ者の集う傭兵団だった。エルヴィンは幼い頃から傭兵として暴走する魔獣達との最前線に送られ続けた。


 そして実戦の中で実力を付け、ゲームの主人公でありこの世界の救世主であるタツミが召喚される頃には「最強の戦士」となり救世主の眷属に選ばれる。


 それがゲーム内で明かされたエルヴィンの境遇である。


「(でも、だからって……)」


 自分よりずっと小さい体は肋も浮き出ており、食事が満足にとれていないことは明らかだった。


 それに、エルヴィンは自らナイフを胸に刺していた。それがどれだけ痛いかなんて、アンには想像もできない。

 それを、何度も、何度も、アンが止めるまで続けたのだ。


 どんな心境でそんなことをしたのか。

 そもそも、崖からも「落ちた」のでは無く「飛び降りた」のではないか。


 あまりの現実に、アンは暫く立ちすくんでいた。


 ◇


 血で汚れ、風呂場で濡れた服を着替えた後アンは夕飯の準備に取り掛かった。


 どれだけ考えたところで過去は変わらない。

 変わらない過去を悩むよりも、変えられる未来を考える。

 これは前世から自分に言い聞かせてきたことだった。


 アンの前世も、決して報われたとは言い難い。

 両親の死後は大学進学も諦め、大黒柱となるべく身を粉にして働いた。

 その中でもどうしようもなく悔しかったこと、悲しかったこと、落ち込むことは山ほどあった。

 自分のした選択を恨んだこともあった。


 でも、過去は変えられない。


 何度そう自分に言い聞かせ、頬を叩いてきたか分からない。


 そうした経験があって良かったと、アンは心から思う。おかげで自分の抱える感情に蓋をする術を身につけることが出来た。

 こんな感情を抱えていても、エルヴィンの前では笑顔を向けることが出来る。


 風呂場の扉が開く音がした。

 アンが目を向ければ、アンの様子をうかがうように、恐る恐るエルヴィンが顔を出したところだった。

 アンはそれに、にっこりと笑顔で返す。


「綺麗になったね! もう少しでご飯できるから、髪を乾かして待ってて欲しいな」

「………」


 返事はないものの、エルヴィンからは当初あった警戒感が薄れていた。

 アンは努めて明るく、普段自分が使っているヘアドライヤーを差し出して使い方をエルヴィンに伝える。

 操作した瞬間の大きな音にエルヴィンは驚いたようだったが、アンに言われた通り大人しく椅子に腰掛けると不慣れな手つきで髪を乾かしていく。


 その様子を微笑ましく眺めながら、アンは夕飯の仕上げに取り掛かる。


「(……どうしてあげることが1番いいんだろう)」


 エルヴィンのために自分が出来ることは何なのか。


 答えの出ない問題に小さく溜息をつき、アンはスープの仕上げに卵を鍋に溶き入れた。





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