第32話 太原雪斎

天文18年(1549年) 8月 岡崎城

 太原 雪斎(崇孚)


 「織田方は三郎五郎殿を連れ、控えの間へ移動致しました。また、竹千代殿については松平家の酒井小五郎(忠次)殿が城下の館に案内しました。後ほど雪斎様が行くと伝えております」

 「うむ。それで良いぞ。下がってよし」

 「失礼致します」


 小間使いの者が襖を閉めると、部屋にはむわっとした熱気が籠り始めた。春先の安祥攻めと異なり、此度の戦は短期でかたを付けた故にこの暑い中、陣を張る必要がなかったのが救いだ。


 儂も老いたとは思いたくはないが、この頃、身体の調子も万全な日の方が少ないくらい。治部大輔様の期待に応えるべく、袈裟の上から鎧を着け、常に陣頭に立ち采配を振ってきたがそれも辛くなってきた。


 愛弟子・治部大輔も今川当主として立派に役目を果たすようになり、儂もそろそろ宰相としての職を辞す頃合いかもしれぬ。


 「和尚。これにて三河は手中に収めたな。松平の小倅はどうするつもりか」


 暑さで少し意識が上の空となっていた儂に、同世代の備中守が鋭い視線で儂を睨んで問うてきた。三河攻めの副将であり、ここしばらくは常に行動を共にしておる仲だ。


 そして、今川家中にて、治部大輔様の家督相続から仕える儂にこのような態度を取れるのは、今川三代に渡って仕える宿老、この朝比奈備中守泰能くらいである。


 此奴は武人なだけあって、この暑さでも凛とした表情を崩さず、今川一門筆頭として相応しい振る舞いを若武者・鵜殿長門守に見せておる。さすがは今川三代に渡って仕える重臣よな。


 「備中守朝比奈泰能もあの子の目を覗いただろう。彼奴はただの坊主ではない。あれは儂らを見極めようとするような……良い目じゃったぞ」

 「ふん……生意気な。だが、使えそうではある」

 「松平家の者達は主家に対して忠誠心が高い。竹千代は今川にて養育し、松平は今川城代が差配する」

 「松平は潰さず、駿河に送った後は、和尚の元で教育か。……弟弟子が出来たな」


 そう言うと、不機嫌そうに備中守は儂の隣に居る長門守に目を移した。


 鵜殿当主とはいえ、親と子ほども離れた歳の差がある備中守と長門守。治部大輔様の甥御として常に家中で注目されるのは辛かろう。


 本当であればもう少し手元で育てたかったが、東三河の上之郷城と所領もある故、そうはいかなかった。


 「もはや某が共に学ぶ機会はないとは思いますが……。龍王丸(今川氏真)様にとっては良いこと。年頃は、龍王丸今川氏真様の方が少し上。弟弟子が出来れば、良き手本となるため更に精進する事でしょう」

 「ほぉ……臨済寺で学ぶとは、そういうものか」


 老獪と呼べる備中守の圧にも屈さず、涼しげな微笑みでそう返した弟子の振る舞いに、次代を担う者の成長を実感する。


 龍王丸様を引き合いに出されてはさすがの備中守も文句は言えまい。長門には此度の戦で自信を付けさせようと要所を任せたが、正解だったようだ。


 特に三河領内の織田案内役から戻った時から、此奴の目つきが変わったように思う。会談中も織田の交渉供廻役の武士に視線がよく向いていたようだったが、何か弟子にとって良い出会いでもあったのかもしれぬな。


 「ふふふっ、臨済寺はそういう場でございます」

 「……なるほど。和尚よ、良い弟子を持ったな。これなら倅の弥太郎(朝比奈泰朝)も預けるべきだったかな」


 長門守に向けた圧を緩め、儂にちらりと視線を向けるとそう言って、立ち上がった備中守。僅かだが、その口角が緩んでおるように儂には見えた。


 「先に行かれますか」

 「うむ。此度、兵を出した遠江の諸将も労わねばならぬでな。和尚とは駿府で会おうぞ」

 「道中、お気をつけて」


 なにも今川の次代を憂うのは儂だけではない。儂が臨済寺で教えを説くように、一門筆頭の朝比奈備中守泰能は実戦の場で若人を鍛えるのだ。


 「備中守の御見送りに行って参ります」

 「よろしく頼む。あぁ、その襖は開け放ったままで良いぞ。ちと汗を乾かしたい故な」

 「はっ」


 遠ざかる老将の足音を追うように、儂に一礼をした長門守が機敏な所作で、開け放たれた襖を抜けて消えてゆく。


 数年前であれば儂もあのように身軽に動けたのだがなぁ。


 弟子も去り、開け放たれた襖から部屋に入る風にあたる儂は、額の汗を拭いながら、弟子の成長と自らの老いを実感するのだった。



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