東海蠢動 編

第20話 岡崎騒動

天文18年(1549年) 2月

 本多 平八郎(忠高)


 どんどんっ……どんどんっ……。がらがらっ!!


 「おい、平八郎っ!! 殿のご容体はどうなのじゃ!!」

 

 廊下を踏み鳴らし、襖を吹き飛ばす勢いで駆け込んできた老年のお方は三河松平家譜代の大久保新八郎(忠俊)殿。城中に響いているのではないかという大音声だいおんじょうそれがしを呼びつける迫力ある様は家督を嫡男・大久保七郎左衛門(忠勝)に譲る必要があったのかと思うほどだ。


 「ち、父上。殿の事はまだ重臣以外に知られぬようにしておるのです。昂るお気持ちはわかりますが、ここは気をお静めください……」

 「七郎左衛門に平右衛門大久保忠俊の弟も居たのか……。すまぬ、殿が危篤状態と聞いて気が逸っておったわ……」

 「兄上の気持ちもわからなくはない。大久保平右衛門も動揺したからな。しかし兄上、落ち着いて聞いてほしいのだが、事態はより深刻なんだ……」


 弟の平右衛門大久保忠員の悲痛な面持ちをみる新八郎殿の顔がみるみる青ざめていった。


 「なんと、殿は亡くなっておるのか……」

 「我らがここへ着いた時にはもう既に……」


 父・新八郎殿の問いに、悲痛な顔でなんとか絞り出した声の七郎左衛門の答えに、我々が居る控えの間は、しばしの静寂に包まれた。


 今宵は既に、夜も深まってきているというのに我々松平譜代の者達が城に集まったのは、我らのあるじである松平広忠様が襲われ、危篤状態だという知らせがあったからだった。


 ここに居る皆が殿の身に何かが起こったことは知りつつ、無事でいることを願って馬を飛ばしてやってきたのだ。


 集まったのは、大久保一族と儂の他に酒井小五郎(忠次)といった一握りの重臣だけ。


 「殿は襲われたと聞いたが、下手人はどうした」

 「下手人は近侍の植村家政が討ち取ったと。単独か、それともどこかの刺客であったのかはわかりませぬ。治療師たちも最近弟子入りしてきた者で詳しくは知らないと……」


 新八郎殿の問いに答えたのは、一番最初に城へ着いた小五郎酒井忠次だ。


 殿は、昨年の織田との戦で傷ついた身体のために近ごろはよく鍼で治療を受けていた。今宵も見知った治療師らによってその治療を受けていたらしいのだが、その医師の弟子の一人であった八弥という者がいきなり背後から襲ってきたらしい。


 「おそらく織田か今川の手先であったのだろうが……。どちらにせよ松平家はまずいことになったな」

 「たしかに……」「世継ぎが人質に取られておるからな」「織田も今川も一層、圧力をかけてくるぞ……」


 儂の呟きに集まった皆が静かに肯定する。


 そう……。松平家は広忠様の世継ぎ・竹千代様が岡崎城に不在という困った状況に陥れられてしまったのだ。


 このように三河松平家が不安定な立場である理由は、亡くなった広忠様の先代松平清康先々代松平信忠の家督継承にまで遡らねばならない。


△△


 先代当主・清康様、そして嫡子・広忠様の継承に大きく関わったのは清康様の叔父にあたる櫻井松平家の松平信定公だ。


 当初、清康様が松平を継ぐ際、皆がそれを認めていたわけではなく、叔父の信定公を推す家臣が多かった。結果的に当主は清康様になったものの、後継争いをした上、家中に影響力を持つ信定公と若くて野心溢れる当主・清康様の関係が良いものなるはずもなかった。


 そして天文4年、清康様は尾張の守山城攻めの最中、家臣に斬られて亡くなられた。これが織田の策略か、信定公の謀略かはわからないが、松平家は後継を幼い広忠様ではなく、力のある信定様を当主とした。


 立場を失った幼い広忠様はその後伊勢へ逃れた後、今川の庇護と信定ら櫻井松平家に反発する安祥松平家の家臣らの手引きによって再びこの岡崎へと戻ることとなる。


 しかし、すぐに櫻井松平と安祥松平家の内輪揉めで混乱する西三河に、あの織田弾正忠信秀は攻めてくると安祥城は落城、天文10年頃のことだった。


 それ以降、ここ三河は織田と今川の戦場と化し、我が松平家は両家からどちらに付くのかと脅されるような立場になってしまったのだ。


 時には織田側、次には今川方と蝙蝠のように両家の間を飛び回らねば松平家は生きてゆけぬ有様だ。


 ちょうどその頃だった。今は離縁されたが、知多方面の水野家の娘”於大の方”との間に嫡男・竹千代様が御生れになったのは……。


△△


 そして現在。


 両家に付かず離れず外交の代償として、嫡男・竹千代様は織田家に人質として取られている。


 だがしかし、広忠様が亡くなられたからには竹千代様に御家を継いでいただかねばならぬのだが……。


 「世継ぎである竹千代様が織田にいる以上、我ら松平家は織田に与する他ありますまい。今川寄りの家臣達も納得する他あるまいよ」

 「そうは言うが平右衛門。今川が……、特にあの黒衣の宰相がそう簡単に我等を手放すだろうか」


 平右衛門と新八郎殿のやり取りに皆が閉口してしまう。


 たしかにあの今川の宰相、雪斎和尚が簡単に三河を手放すとは思えぬ。三河は織田と今川の緩衝地帯、あわよくば今川の物としたいはずなのだ。


 「ですが……、何より殿に刺客を放った可能性のある御家に与するのは納得いきませぬ……」

 「確かに……。しかし竹千代様の御命と松平家の命運が掛かっておるのだ。そのような事は言っていられまい」


 口数少ない酒井小五郎が歯を食いしばってそう言うが、我らの恥辱を晴らす為に竹千代様や御家の命を犠牲にする事はできぬ。


 なんとしても御家を潰す事だけは避けねばならないのだ。


 「失礼致しますっ! 今川より先触れの者が来ております」

 「なにっ!? このような夜更けに使者だと……」

 「はっ! まもなく今川家宰相・太原雪斎様、掛川城主・朝比奈備中守(泰能)様がお越しになると……」


 何故このような時に雪斎和尚がやってくるのだ。それも先の戦で今川家副将であった遠江朝比奈惣領家の備中守もやってくるとは……。


 「まさか……。殿を襲った刺客は今川なのではないでしょうか」

 「七郎左衛門……斯様なことを軽々と口にしてはならん。それで間違いであれば首が飛ぶぞ」

 「す、すみませぬ父上……」


 しかし、あながち七郎左衛門の推察は誤りではないかもしれぬな。


 広忠様を亡き者にし、当主不在の松平を雪斎和尚と遠江の実力者である朝比奈殿で掌握。竹千代様を取り戻す為には織田とやり合い、和平交渉で取り戻すしかないと武力で脅し、我等を織田攻めの先鋒とするつもりやもしれん……。


 「平八郎、如何する。本来なら広忠様が出迎えるべきであるが……」

 「某が対応致しましょう。新八郎殿は譜代で年長者であるが隠居の身。補佐は弟の平右衛門殿が居れば納得で御座ろう」

 「して、殿の事は……」


 まだ若い七郎左衛門と小五郎は狼狽えた様子で儂と平右衛門を覗ってくる。経験不足の此奴らにはまだまだ松平家は任せられんな……。


 「まずは風邪を拗らせたとでも言って此度の要件を聞くつもりだ。あとは……、雪斎和尚の出方次第よ」


 明日以降の対応についてを話し合う新八郎殿達を部屋に残して、儂と平右衛門の2人で使者の間へと急いで移動した。


 やがて、遣いに案内されて現れた黒衣の宰相と呼ばれる太原雪斎和尚と儂より些か歳上の朝比奈備中守。他家にやってきたというのに2人とも表情をぴくりとも動かさぬのが不気味であった。

 

 「松平家譜代衆・本多平八郎でございます」「同じく大久保平右衛門でございます」

 「今川家家宰・雪斎でございます」「今川家一門・朝比奈備中守である」

 「このような夜更けに駿河・遠江から参られるとはどうされましたか。あ、いや、失礼。殿は昨日より風邪で寝込んでおりまして、代わりにご用件をお聞き致します」

 「ふんっ……。寝込んでおるだと? 見え透いた嘘を……」

 「備中守様……」

 「……すまぬ、和尚。儂は黙っておこう」


 儂の言い訳を鼻で笑った備中守殿を雪斎和尚が一言で黙らせた。


 この和尚の冷徹と言える無表情といい備中守殿の態度といい、とてつもなく嫌な予感がする。広忠様の死を知り、松平家を陥れようとしているかのような……。


 まるで拗ねた子供のような態度を取る備中守殿を一度見つめた後、法衣を整えながら儂に向き直った雪斎和尚。


 部屋に入ってきた時と少し変わり、その法衣を整え、高僧の如く清らかな雰囲気を纏った雪斎和尚の後ろに臨済寺の御本堂が見えたように思ったのも束の間。


 次の一言で、儂は此度の騒動の黒幕を悟ったのだった。


 「此度参ったのは、広忠様の……でございます」


 儂を見つめ静かに、そして穏やかにそう言い放った雪斎和尚の双眸は、とても暗く冷たい光を炯々と放っているように見えたのだった。

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