カメレオンの憂鬱
転々
第1話 カメレオンの憂鬱
雨の音で目が覚めた。目の前にはプッシーのけつの穴がある。こいつはいつもけつを俺の方に向けて眠る習性があるから、それは別にどうでもいい。それよりも、雨の音で偶発的に目が覚めてしまったことの方が酷く気障りだった。
二度寝できる気配もなさそうだったので、シーツを剥ぎ取り、プッシーをベッドの上に転がす。そのままベッドから降りて洗面所へ向かう。
シャワーの雨を浴びながら、思う。
昨日は一人殺した。薬は二袋捌いて、最近は調子がいいと思った。
この小さな島では犯罪は珍しくない。本島から忘れられたような扱いであり、いっその事自治領として独立してほしいと本島の殆どの人間から思われているこの島では、その中で何が行われていようが、どんな経済形態を為していようが、外の偉い方を含めた人間たちには本当にどうでもいいことなのだ。
俺はシャワーの水を止めて、昨日使って干してある灰色のバスタオルを羽織る。くぐもった匂い、酸性の味。舌の中で流れる自堕落の気配。
洗面所を出るとプッシーが起きてこちらを向いてにゃんと言った。時計を見ると七時で、丁度餌の時間だった。
今日は特にやる用事がない。もう今月分の仕事は昨日のうちに済ませてしまった。
プッシーの餌を出してやり、ヤギのミルクを盆に入れて横に置いてやる。マグマグ言いながら食べている横で、今日の予定を考える。
とりあえず腹ごしらえをしてから考えることに決める。革ジャンパーを羽織って外に出る。
霧の濃い日だった。
外に出ると、自分に向けて世界から幾つもの矢印が向けられ、自分の中に突き刺さり、食い込んでいるような錯覚を覚える。錯覚に違いないと思いながら、自分はその感覚を心の大部分で笑い飛ばすことが出来ないでいる。
階段を降りて、いつも朝と昼食を食べているダイナーに向かって歩き始める。
通り過ぎる人間を、頭を低くしながら薄目で観察する。この街の人間は殆どが帽子を被って、一目では判別がつきにくいようにしている。今通り過ぎた人間も、帽子に濃い頬髭、大きな黒縁の眼鏡と殆ど完璧なこの島の市民を演じている。
歩いて数分と経たない場所に『ゴミ溜め』の愛称で知られるダイナーがある。『フレンチ・マン』という名の書かれていた庇は、時間の経過によって掠れてしまっていて、名前ももう判読することはできなくなっている。
扉を潜って入ると、店主の顔が目に入る。軽く目を合わせて、いつもの席に向かう。
新聞を持ってこなかったのを悔やんだ。どうしたんだろうな。こんなことは滅多にないのに。
窓から見える帽子を被った憂鬱そうな人影の流れを目で追っていると、テーブルに何かが置かれた音がしたので、目を向ける。
店主が親指を立てて、スクランブルエッグとウィンナーと野菜が乗ったプレートを置いていた。
悪いんだけど、と俺は店主に声をかける。
「新聞は置いてないかな。今日、忘れちまって」
「珍しいな、メルシャが朝食に新聞を忘れるなんて。おい皆、メルシャが新聞を置いてきたんだとよ」
くぐもった低い冷笑がカウンターの周りから聞こえてくる。
新聞があるのかどうなのか、と俺が再度問うと、店主は奥に引っ込んで、新聞を放り投げてきた。
「昨日のだ。今朝のは女房が食っちまったんでな」
店主に妻はいない。日付を見ると、きっかり今日の日付だった。
昨日の殺人の報せはどこにも載っていなかった。代わりにでかでかと紙面を占領していたのは、市街地のストリップ劇場で発生した爆破事件だった。死傷者は十三人。テロとしてはそれほど大きな規模ではない。現在警察が指定組織との関連を調査中。
それ程面白い事件じゃないな。新聞を置いて、机の上のプレートを処理しにかかる。美味くも不味くもない、『ゴミ溜め』の相性に相応しい朝食だ。これで500円なのだから笑える安さだ。
食後にコーヒーを嗜みながら、残りの新聞を読む。最後まで捲ったが、自分が撃ったグロックの結果記事はどこにも載っていなかった。奴も撃たれ損という訳か。
窓の外で、車が大きな音を立てて止まった。鈍い衝突音。群衆のざわざわした音。車から男が降りてきて、追突された男と口論になっている。何故か銭が投げられ、喧嘩をするように囃し立てられている。気まずそうにしながら、二人は影に逃れて、そこで唾を吐き掛け合っている。
ごちそうさま、と俺は言い、500円をカウンターに置き、店主に手を振った。
店主が最後に言った。
「サラが寂しがってたぞ」
店を出ると、霧は相変わらず濃かった。知らないうちに警察が来ていて、事故を整理し始めている。示談で済むのか。そうしたらあまり面白くはないな。
予定がない日の街の景色というのは、何とも言い難い空気を身に纏っている。裸になりたがっている人間に無理やり服を着せて直立姿勢を取らせられているみたいな、不自然な空気。
俺がその手の感覚の話を同僚にしたら、「女々しい奴だな」と言われたので、そいつとは口をきかなくなった。そういう所が女々しいんだ、と言われている気がするが、どうでもいい。
図書館にでも行こうと思い、タクシーを止めようとする。
サラというのは、クラブで知り合ったセフレの女のことだ。お互いそっちの感触の相性がいいんで、これまでに七、八回はやっている。女が構わない時はゴムなしだが、俺はあんまりそれが好きではない。サラは好んで脱がそうとするが、俺は頑なに一物に被せようとする。
「期待させないでよ。ゴムなしでいい気持ちになんてなれてないから」
満足させるつもりなんて更々ない。出さなければやってられないから、無理矢理ねじ込んでいるだけだ。まあ、毎度鼻息が荒くなっているのは否定しないが。
図書館に着いて、見張りに立っている馴染みの顔の警官に目顔で合図を送る。こいつにもドラッグを売っているから、まあ同僚みたいなものだ。
この島に図書館と呼べるものはここぐらいなものだろう。唯一市と本島が共同で管理している国立図書館、島の端々にある古本屋まがいのものとは比較にならない。
俺はここの常駐する警察官と銃で撃ち合ったこともあるし、本を渡しあったり、ドラッグを売ったりもしている、陰の仲良し同盟を組んでいる。だから国立図書館と言えども、入り口で市民番号を確認されようとも、安心して楽しむことができる。
最近はヒエラルキーについての物語をよく読んでいる。こいつを読んでいる時だけは、自分のクソッタレな人生や境遇を忘れることができる。女の穴の感触のことも。
「よう、カメレオン」
ヒエラルキーの本を机の上でヒエラルキーにして、頬杖を突いて読んでいると、肩に手を置かれ、そう言われる。声で誰かは分かる。リーダーだ。
「面白いのか? それ。そう言えば、昨日は来てなかったな。仕事か?」
俺は本から目を離さず、隣に座った男の気配に気を配りながら生返事で返す。
「ああ。でかい仕事を終わらせたんだ。今月は暇だ」
「そいつは良かったな。俺の方は毎日忙しい。ほら、こいつのこれ、見てみろよ」
こいつは用事もなしに声をかけてくる奴ではない。手短に話を促すように、俺は奴の顔を睨む。生粋の黒子フェチを自称する奴は、自慢げに黒子特集を組んでいるフェチ御用達のアダルト雑誌を広げてだらしなく口角を歪ませている。
「仕事の話か?」
「いや、今日のは違う。まあ、聞けよ。今度、本島から偉いさんが来るだろ? その護衛が不足してるってんで、この島の人間を当たってるんだよ。お前、そういうの得意だろう? なあ、頼むよ。腕の立つ奴を紹介してくれるだけでもいいんだ」
「そういうのを仕事の話と言うんだろう」
「嘘は良くないぜ、カメレオン。お前にできない仕事はない。他に生き方を知らないんだからな」
「今、俺は忙しい。本を読んでいる。暇になったら相手をしてやってもいい」
「お偉いさんは来月の頭に来る。金は後払いだが、滅多な遊び方をしなけりゃ、今年中は働かずに済む額だ。美味しい話じゃないか」
「お前は、いつ銀行で働いてるんだ?」
リーダーははぐらかすように笑うと、「この黒子はいいじゃないか」と呟いて、側を離れていった。
俺はヒエラルキーの本を読み終え、立ち上がった。午前が終わろうとしていた。
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