堕ちた聖女

 背後から、獣の咆哮が響く。

 レイは大丈夫だろうか。

 上級戦巫女だけでなく、上級巫女たちもフェリユの後に続く。

 レイだけを残し、獣の魔族を任せてしまった。

 レイが前戦で戦う姿など、フェリユは見たことがない。

 男性の神職のなかで、レイは事務方の所謂いわゆる「神官」に属する立場だ。

 たとえ槍を手にしていても、はたして戦えるのか。それも、上級魔族以上の可能性がある獣の魔族と。


 だが、フェリユは振り返らない。

 自分に与えられた使命。それは、マリアを追うこと。

 レイなら、きっと大丈夫。

 信じるのだ。

 兄のようにしたうレイならば、獣の魔族とも対等に戦える。

 そして自分はマリアを救う!


「なにが、聖女の清算だよ!」


 そんなものは、知らない!

 マリアはマリアだ!

 ミレーユの実姉であり、自分にとっても姉のような存在であり、人々に希望の道を示す清廉せいれんな巫女なのだ!

 くだらない言い伝えなど、マリアには通用しないんだからね!


 自分に言い聞かせるように叫び、地下の通路を直走ひたはしる。

 そうしながら、マリアの気配を読み解く。

 マリアは、この先にいる。

 でも、そのかたわらには……


 何ヶ所かの地下空間を通り過ぎ、何度も通路を走り抜けた先。

 フェリユたちの前には、半壊した階段が延びていた。

 階段の先を見上げると、空が見える。

 地下を走り抜けた最後に辿り着いた場所は、どうやら地上らしい。

 フェリユたちは瓦礫に半分埋まった階段を慎重に登り、地上へと出る。


 既に、太陽は南の空に高く昇っていた。

 秋に傾き始めた季節だが、まだまだ暑い。

 照りつける日差しを浴びて、フェリユは目を細める。


 ここはどこだろう?

 まぶしい風景を見渡すが、見覚えのない場所だ。

 しかし、振り返った先、西の方角に墓所の庭園が見えることを考えると、ここは旧神殿都市跡の東側になるのだろうか。

 遥か遠くに、山のように中心部分を盛り上げた神殿都市が見える。

 そして、荒れ果てた遺跡も。

 どうやら、旧神殿都市跡の東側には、まだ僅かに遺跡の残骸が残っていたらしい。

 ちた支柱の欠片や、何に使われていたのか判別できないような、人工的に削られた石や岩が散らばる風景を、ゆっくりと見渡すフェリユ。


 マリアの姿は見えない。

 だが、もう直ぐ側に感じる。

 あの、視界をさえぎる壁の残骸を超えた先。


 フェリユは息を整え、ゆっくりとした足取りで壁の残骸を迂回うかいすると、マリアの気配を感じる場所へ進む。


「……マリア」


 そして、フェリユは辿り着く。

 マリアのもとへ。


 しかし、現実はフェリユを置き去りにするかのように、残酷に広がる。


 レザノールホルンを手にたたずむマリア。その足もとには、長老巫女のミサレナが血を流して倒れていた。


「ミサレナ様!」


 フェリユに付き従って来た上級戦巫女が叫ぶ。

 だが、一歩も前へ踏み出せない。

 巫女として、目の前の惨事を見過ごす事などできない。そのはずなのに、誰もが動けない。


 わかっていた。

 誰もが気付いていた。

 もう、ミサレナは絶命している。

 そしてミサレナを手に掛けた者は、自分たちが「聖女」と慕うマリアだ。

 今、ミサレナのもとに踏み出せば。確かに、ミサレナをたという巫女としての責務を果たせ、自己満足は得られる。たとえ、ミサレナがすでに絶命していたとしても。

 だが、それは同時に、マリアの凶行を現実のものとして認識せざるを得ないということを意味する。

 だから。

 誰も動けなかった。

 フェリユでさえも。


 息を呑んで動きを止めたフェリユや上級戦巫女、そして上級巫女たちを、マリアは切れ長の瞳で見つめる。

 長い睫毛の奥の瞳は、いつもの優しいマリアの色だ。

 黒い瞳。慈愛に満ちた輝きを讃え、人々を優しく見守る。

 足もとでミサレナが絶命している凄惨な景色との差異に、フェリユは非現実的な空想の世界の出来事のように感じそうになる。

 だが、これが今の事実なのだ。

 ミサレナは絶命し、その命を絶ったのはマリアで間違いない。


 では、何故マリアはミサレナを殺害する必要があったのか。

 聞かなければならない。

 そう、覚悟して来たはずだ。

 フェリユは自分に言い聞かせ、マリアの柔らかい視線に真っ向から向き合う。


「マリア、説明して。何でミサレナ様を殺害したの? どうして、他の長老巫女様を?」


 フェリユの問いに、マリアは自分の足もとで絶命しているミサレナに視線を落とす。その瞬間、柔らかかったマリアの瞳の光が、険しいものになった。


「何故、か。それは、この者たちが神殿都市にとって邪魔な存在だったからだ」

「マリア!」


 なんてことを言うの!


 マリアの口からこぼれた邪悪な言葉に、フェリユは叫んでしまう。


 言っては駄目だ。

 口にすることは禁忌きんきだ。


 たとえ対立する相手のことだとしても。

 自分の考えに沿わない者のことだとしても。


 聖職者として。巫女として。聖女として。

 それは決して口にしてはいけない、邪悪な言葉だ!


 だが、フェリユの叫びにも、マリアは平然としていた。


「フェリユ」


 マリアはミサレナから視線を戻す。すると、またいつもの優しい瞳に戻る。


 いったい、マリアの本当の瞳の輝きはどちらなのだろう、と何者よりもマリアのことを知っているはずのフェリユでさえも困惑してしまう。

 マリアはフェリユの困惑を知ってか知らずか、ついものような優しい声音こわねで問う。


「わたしは聖女だろうか?」

「それは……」

「こうして、邪魔だと思った者を殺害するような女が、はたして聖女だろうか?」


 聖女は必ず堕ちる。


 伝承通りであるならば、マリアは「聖女」であり、そして「堕ちた」のだろう。

 だが、フェリユは否定する。


 マリアは、女神の奇跡を起こした聖女ではない。だから、堕ちることもないんだ!


 では、神殿宗教に正式に「聖女」と認定されていないマリアは、やはりただの高貴な巫女でしかないのか?

 確かに、そうなのかもしれない。

 でも、とそこでまたフェリユは考えてしまう。

 マリアの行い。マリアの導き。マリアの佇まい。全てを見てきた自分や多くの者たちが、自然と感じるのだ。マリアこそは「聖女」なのだと。


 聖女だと認めれば、堕ちる、という伝承に繋がってしまう。かといって、マリアは聖女ではないと言い切ることができない。

 葛藤かっとうに苦しむフェリユ。


 だが、ひとつだけ言えることがあるとすれば……


「マリアは、意味もなく人に刃を向けるような犯罪者じゃないってことはわかっているよ? ねえ、だから教えて? なんで、ミサレナ様たちは神殿都市にとって邪魔だなんて言うの?」


 きっと、そこには重要な事実が隠れているはずだ。

 フェリユは、それをマリアの口から聞きたい。


 実は、フェリユも薄々とは気付いている。

 気付いていながら、気付かなかった振りをしている。

 世界の違和感を読み取った時の、あの感覚。咄嗟とっさに心の片隅に追いやった違和感。


「ねえ、マリア。もしかして、ミサレナ様たちは……?」


 困惑した表情を見せるフェリユに、マリアはこれまで以上にやさしい瞳を向ける。


「昨日の今日で、よく成長したな。世界の違和感を読み取れるようになった貴女なら、気付いたかもしれない」

「それじゃあ……!」


 とフェリユが続きを言いそうになった時。マリアは自分のくちびるの前に人差し指を立て、首を横に振る。

 マリアの黒絹のような長い髪が、ふわりと揺れた。


 そうだ。

 これは、言えないのだ。

 たとえ自分が信頼する部下の上級戦巫女や上級巫女たちでさえも、教えることはできない。

 だから、マリアはひとりで……?


「そんな!」


 息を呑むフェリユ。

 世界の違和感を読み取ることができず、マリアとフェリユの意味深な会話の内容を理解できない上級戦巫女や上級巫女たちの間には、困惑が広がる。


「どうして。どうして、マリアだけなの! なんで、あたしに相談してくれなかったの?」


 もしも、フェリユが感じていた違和感が正しいのだとしたら。

 フェリユも、マリアに手を貸していたかもしれない。

 いや、間違いなく協力していただろう。

 だというのに、マリアは独りで戦っていた。


「フェリユ。貴女が今感じたことを、わたしは問わない。これはもう、終わったことなのだから。だが、終わっていないものもある。ミサレナや他の長老巫女を殺害したのは、わたしだ。フェリユ、改めて聞く。わたしは聖女だろうか? 必要とあらば躊躇いなく長老巫女を殺すような者が?」

「違う! でも、それは!」

「違わない。貴女が何を感じたのかを問わないと言った。他の者たちは、何も知らない。有るのは、わたしが長老巫女たちを殺害したという事実だけだ。それでは、巫女たちに問おう。わたしは罪人だろう?」


 マリアに視線を向けられた上級戦巫女や上級巫女たちが顔を強張らせる。

 いったい、戦巫女頭のフェリユは何に気付いたというのか。マリアは何を隠しているというのか。

 わからない。

 だが、はっきりとした事実だけは目の前に示されている。

 マリアはミサレナを殺害した。他の長老巫女たちを殺害したと自白した。

 であるのなら。


「マリア様……。どうか、自首をなさってくださいませ」


 言葉を発するだけで、胸が締め付けられる。

 敬愛する巫女長のマリアに、そう言葉を掛けなければならない苦しみに、巫女たちの心が悲鳴を上げる。

 それでも、神職に身を置く者として、人々に清く正しい道を示す者として、間違いは正し、罪を犯した者には正義を示さなければならない。


「どうか……。レザノールホルンを手放し、投降してくださいませ」


 悲痛に顔を歪めながら、上級巫女が口にする。

 しかし、マリアは静かに首を横に振った。


「それはできない。わたしの罪を問うのであれば、覚悟と実力を持って示しなさい」


 そして、レザノールホルンをフェリユや巫女たちに向けるマリア。


「聖女は必ず堕ちる。そして、貴女たちは云う。わたしを『聖女』だと。ならば、わたしは堕ちたのだ。今、貴女たちの前に立っているわたしは、堕ちた邪悪でしかない。そうだろう?」


 聖女であれば、殺人という大罪は犯さない。聖女であり、堕ちたからこそ、長老巫女たちを殺害するという行為に走ったのだ、とマリアは躊躇いなく自分の罪を口にする。

 マリアの言葉に、誰も言い返せない。


 マリアのことを「聖女」だと声高こわだかに讃え続けてきたのは自分たちなのだ。その末路を知っておきながら。

 これは、自分たちの招いた結果なのだと、ようやく全ての者たちがさとる。


「フェリユ。わたしは悪だ。目的のためなら躊躇いなく嘘を口にするし、必要であれば魔族とだって契約する。そんなわたしは、聖女ではない」


 わたしは悪なのだ。と言い切ったマリアはこれまでの柔らかい瞳の光を消し、冷たい月のような気配を纏う。


「フェリユ。それにこの場に来た貴女たちは、覚悟して来たのだろう? ならば、その覚悟をわたしに見せなさい。わたしは投降する気も自首する気もない。ならば、力づくでわたしを倒すしかない。そうだろう?」


 言ってマリアは、フェリユを見据えた。

 マリアの鋭い視線を受けて、フェリユは震える。


 はたして、自分はマリアと戦えるのか。

 姉と慕うマリアに、ユヴァリエールホルンの刃を向けることができるのか。


「あたしは……」

「フェリユ、ここまで来ておきながら躊躇っては駄目だ」


 マリアの叱責しっせきがフェリユの心に突き刺さる。


「貴女は、神殿都市に十二人しかいない巫女頭のひとりだろう。なら、見失ってはいけない。自分の成すべきこと、人々のためにしなければならないことから目を背けてはいけない」

「でも、それじゃあ!」


 マリアが悪であるのなら、戦巫女頭として、その悪を祓わなければならない。

 しかしそれは、マリアと対立するということを意味する。


「フェリユ。貴女は覚悟と決意を持ってここへ来たのだろ? だったら、立ち止まってはいけない。たとえ何者が立ちはだかろうとも。それがわたしであったとしても」


 対峙しているはずなのにマリアがフェリユに向ける言葉はどこまでも柔らかい。

 ただし、紡がれる言葉はどこまでも残酷だった。

 声音こわねは優しく。それでいて、逃げを許さない厳しさを併せ持つ。

 そう。それはまさしく、姉が妹を導く愛であるかのように。


「あたしは……あたしは……」


 大切な人。失いたくない人。ずっと側にいたいと願う人。

 その人に、刃を向けられるのか?


 真実の断片を知りった。

 だが、絶対に口には出せない秘密。

 その秘密を抱え、マリアと対峙できるのか。


「フェリユ、覚悟を決めなさい。ここへと来た以上は、後戻りはできない。それとも、わたしの事を他者に委ねるのか?」

「それは……!」


 できるわけがない!

 何も知らない者に、マリアをこれ以上は穢させるわけにはいかない。


「ぁぁぁああああぁっっ!!」


 フェリユは絶叫し、マリアに向かって跳躍した。

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