第9話 フルーツミックス(2)

「幸谷君、具合悪い?」


「ううん……」


 大丈夫、と正孝は愛美に答えようとした。


 しかし、できなかった。ぎゅうっと、心臓を締め付けられるような動悸と汗。


 とはいえ、それは、正孝には初めての事では無い。またこれだ、と内心悪態をつけるくらいには落ち着いていられる。考えすぎた時には程度の差こそあれ、こういう状態になるのだ。


 しかし慣れているとはいえ、辛いものは辛い。学校なんかに来ないで、一人で部屋にいれば、こんな辛いことにならないのに――。正孝はいつも、苦しくなるとそんなことを、恨みのように思うのだった。


 心臓と汗はまだ良いが、涙まで出てくるのが、厄介だ。他人に涙を見られるのは、それがどんな種類の涙でも、地獄だ。恥部を曝け出しているような気分になるし、皆だって、そういう目で見る。それが男ならなおさらだ。そうしてまた異物扱いされる、その繰り返し。


 正孝はパイプ椅子にかけておいたタオルを取って、汗を拭きながらこっそり、涙も拭いた。水筒の水を飲み、ゆっくり息を吐く。そうすると少し、心臓の苦しさも、汗も、収まる。


 今は級長で、この教室を離れるわけにもいかない。それに、派手な動きをせずに、あと十数分をやり過ごせれば、それに越したことはない。


 ところが愛美は、すでに正孝を保健室に連れて行くために動いていた。


 愛美は、尾瀬教諭にはこっそり、正孝の具合が悪そうなことを伝え、自分が保健室に連れて行きますと言った。


「用紙は、私が代わりに最後回収して、幸谷君に渡します。まだこの感じだと、決まらなさそうですよね?」


「そうだな」


「じゃあ、私も、授業が終わるまでには戻って来るので、それでいいですか?」


「あぁ、頼んだ」


 愛美は、尾瀬教諭と軽くそんなやり取りをすると、すでに行動班分けを終えた女子生徒に、自分が保健室に行く旨を伝えた。


「じゃあ幸谷君、保健室行こう。抜けて大丈夫だって」


 愛美は正孝にそう言った。


 正孝は、そんな申し出は断りたかった。


 別に、保健室になんか行きたいわけでは無い。ここであと十数分、耐えればいいだけだ。心臓も汗も、落ち着いてきている。それにタオルがあれば、涙だって隠せる。


 しかし正孝は結局、愛美に促されるままに教室を出ることにした。行く、行かないの問答自体をする元気が正孝になかったことと、教室を出るのならこっそり、誰にも気づかれずに出て行きたいと思ったのだ。


 正孝は詩を書いたメモ帳の一枚と、その清書がされた用紙を摘まみ取ると速やかに席を立ち、数メートルを歩いて教室を出た。


 このまま帰ろうかなと、正孝はそんな思いに駆られたが、予想外だったのは、愛美の付き添いである。まさか愛美が、一緒に付いてくるとは思っていなかった。


「いいよ、一人で」


 正孝はぽつりと言った。


 しかし愛美は、「一人じゃ寂しいじゃん」と、笑顔で答えた。


「それに、途中で倒れちゃったら大変だし」


「もう、大丈夫だよ」


「でも、念のため休んだ方がいいよ。朝ごはん食べた?」


「食べてない」


「え、そうなの!? いつもは?」


「いつも、食べないよ」


「えぇ!」


 愛美の大袈裟な驚き声が、静かな廊下に響く。


 正孝は思わず、きょろきょろと周囲を見渡してしまう。愛美の声に反応して、誰か、咎めに来やしないかと思ったのだ。しかし正孝の不安は全く杞憂で、誰も、わざわざ廊下に出て来はしなかった。


「そんなに驚くことかな……」


 正孝が言うと、愛美は、正孝の顔を微かに見上げながら言った。


「ごめんごめん。驚きすぎだよね、私」


 正孝は、愛美が自分の表情を覗っているという状況に、強い違和感を覚えた。自分の表情――感情の動向なんて、どうでもいいだろうに、と思ったのだ。それなのにどうして佐藤さんは、わざわざ僕に、そういう仕草を見せるのか。


「――だけど、食べた方がいいよ。果物が良いんだって。幸谷君、果物好き?」


「うん、まぁ……でも、買って食べるほどじゃないけど」


「今度朝、買ってきてあげよっか?」


「え……」


 なんで、と正孝は思った。


 愛美がどういう趣向で、自分にそういう事を言うのか、いよいよ正孝には理解できなくなり、頭の歯車が煙を上げ始めた。


「何が好き? 苺? 柑橘系? あ、ブドウとかリンゴ系もあるね」


「えーと……」


「フルーツミックスがいいかな?」


「……」


 会話慣れしてない正孝には、愛美の会話速度は速すぎた。プスプスと、正孝の頭はメモリ不足におちいって、その結果、〈沈黙〉によってその場をやり過ごすことになる。


 愛美は、次の言葉をと口を開きかけたが、正孝の悩んでいる様子を見て止めた。


 それから、話題を変えようと、改めて愛美は口を開いた。


「幸谷君、行動班、決まった?」


「ううん、決まってない」


「そうなんだ。誰か誘ったりしないの?」


「話せる友達も、まだいないから……」


 正孝は答えた。本当は「まだいない」ではなく、「まだ」なんて副詞を抜いたほうが真実に近いのだが、そういう言い方をしたら、愛美に気を使わせてしまうと思ったので、あえて正孝は「まだ」という言葉を挟んだのだ。


「前同じクラスだった人は?」


「特に、仲良くはないよ」


「そっか。運動部系苦手?」


「運動部だからってわけじゃないけど――でも、たぶん僕の事を苦手な人の方が多いと思う」


「そうかな?」


「そりゃあ、そうだよ」


「私は全然、そんなこと思ってないよ?」


 そう言う気休めはいらないのにと、正孝は思って俯いた。


 保健室に着いたところで、正孝は愛美に言った。


「もういいよ。佐藤さんは、教室に戻ってよ」


 正孝の言葉に、愛美は一瞬、驚かされた。正孝の、明確な意思のこもった言葉を聞いたのは、これが初めてだった。声は穏やかだが、その声の中に宿る拒絶の匂いを、愛美は逃さなかった。


「そう? 大丈夫?」


 愛美は、しかし、鈍感な女の振りをして、正孝に訊ねた。


 正孝は、居心地が悪そうに愛美から目を反らせ、「うん」と頷くと、保健室のスライド扉を開いた。その時ひらりと、正孝の摘まんでいたメモ帳が一枚床に落ちた。しかし正孝は、それには気づかずに保健室に入って行った。


「ちゃんと休みなよ」


 愛美は、保健室の閉まる扉の隙間からそんな声を正孝に投げかけた。そうして、床に落ちたメモ帳を拾い上げ、保健室の扉を背にして立ち上がった。メモ帳に書かれた正孝の走り書きの詩を読み、愛美はそれを二つ折りにして、スカートのポケットにしまい込んだ。


 そうして、教室に歩き出した愛美の口元には、笑みが浮かんでいた。


 その日のホームルーム後、愛美から行動班の書類を受け取った正孝は、そこで初めて、自分の班を知ることになった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る