第3話 サービスエース(3)

 ――バチイイイン!


 何の脈絡もなく体育棟の裏から出てきて、そして愛美のバレーボールにぶち当たったのは、他でもなく、幸谷正孝だった。


 正孝からすれば訳が分からない。


 ただ、アンパンマンよろしく顔が入れ替わったかと思うような凄まじい衝撃に、ぶわっと、体が宙に舞った。正孝の顔からは眼鏡が吹き飛び、手からは唐揚げ弁当が弾け飛んだ。


 次の瞬間――正孝は倒れ、弁当のから揚げと白飯は土の上に落下し、眼鏡はコンクリの地面に落ちた。


「ああっ!」


 全くの想定外の事態に、流石の愛美も焦った。


 正孝にぶつかったボールが跳ね返ってきて、着地した愛美の膝の横を通過する。


「ごめんなさい、大丈夫!?」


 さすがに慌てて、愛美は倒れた正孝に駆け寄った。


 正孝は、なんだかよくわからないが、「大丈夫?」と訊かれたので、条件反射的に「大丈夫」と応えて立ち上がろうとした。が、頭がぐらついて、立膝のまま、立ち上がれない。


 おまけに――。


「あ、血、出てる!」


 愛美が言った。


 正孝は、ボールのぶつかった顔の左側を押えていたが、その指の隙間から、真っ赤な血が溢れ出て来た。血は指の隙間だけでなく、見る見るうちに腕を伝って肘まで流れ、肘からぽたぽたと、赤い雫になって垂れ始める。


 うわぁ、本当だと、正孝は顔をしかめ、自分の流血を確認した。


 痛いよりも、血の生暖かさが気持ち悪い。


「ごめんなさい、大丈夫? 歩けますか? 水道行きましょう、水道」


 愛美は、流れる血のせいで前かがみになって歩く正孝に付き添って、体育館脇の水道までやってきた。正孝は、水道で顔を洗い、腕の血を洗い流した。その間に愛美は、正孝の眼鏡を拾って戻って来た。弁当の方は、もう蟻と鳥の餌になる運命が決まってしまっていたので、容器だけ回収して、ゴミ箱に捨てて来た。眼鏡の方はというと、フレームが曲がり、レンズにもひびが入っていた。


 やっちゃった、と愛美は思った。


 そして、自分がボールをぶつけてしまったこの男子が、幸谷正孝だと気が付いた。二年七組――同じクラスなのだ。二年生になってまだ間もないこの時期ではあったが、愛美は、人の顔を覚えたり、名前を覚えたりするのは、苦手ではない。


 幸谷正孝――鬱陶しい前髪に眼鏡をかけた、ひょろっと痩せている男子。そして今朝、七組の学級委員長になった男の子。


 わかりやすく、一言で彼の外面的な性質を示すならば〈陰キャ〉。スクールカーストという区分けで言うならば〈最下層〉。外見を表わすにしても〈オタク系〉といえば事足りる。そんな男子。


 別に愛美は、だからといって正孝を特別敬遠しているわけでは無かった。確かに外見――特に顔にかかった清潔感の無い前髪は全く好きにはなれそうになかったが、級長に名乗りを上げた意外性で、幸谷正孝という存在は、愛美の中に少しだけ、気泡のように浮かび上がってはいた。


「血すごい出てる」


 愛美は、水で薄まった水道の血溜まりを見て、流石にちょっとした恐怖を覚えていた。


 ――鼻、折れてない、よね?


「水で薄まってるだけだね。たぶん、大丈夫」


 正孝はそう言うと、愛美が女子トイレから失敬してきたトイレットペーパーで口や鼻の周りを拭いた。そうしてふと、愛美の腕にも、自分の血が付いているのを発見した。


 女の子らしい愛美の、細くて白い腕に、赤黒い血。


 正孝は、愛美を汚してしまったという、猛烈な自己嫌悪を感じ、水道の蛇口をひねった。そうして、トイレットペーパーをちぎって少し濡らすと、愛美の右腕の内側――その、血の付いた部分を拭いた。


「え? あ、あぁ……」


 愛美は、突然腕に濡れたトイレットペーパーを押し付けられたので驚いた。男の子の身体を突然触ることはあっても、その逆はあまりない愛美である。男子からのちょっとしたボディータッチも、無防備にそれを受けいれることは無い。


「あ、ごめん……その、血が――」


「あ、うん、ありがと、拭いてくれたんだね」


 愛美は礼を言いながら、思わず警戒心が表情に出て、笑顔が引きつった。


 どさくさに紛れて私の身体に触ろうとしたのだとしたら、ちょっとこの人は、気を付けないといけない、と愛美は思った。ところが、愛美が警戒の色を見せるや否や、まるで条件反射のように、正孝も愛美の腕から手を引っ込めた。


 あれ、と愛美は思った。


 警戒したのは私だったのに、私の方が警戒されてる?


 愛美は、正孝の顔を覗いた。


 目を伏せて、唇を閉じている。


 恥ずかしがっている、というよりは、やっぱり怖がっている。


 ――ちょっと待ってよ、と愛美は思った。確かにボールはぶつけちゃったけど、なんでそんなに、怖がることないじゃない。大体どうしてあんなところにどうしていたの? よりにもよってあのタイミングで出てくるの――。


 しかし愛美は、正孝の血を見ると、今はそんなつまらないことを考えている場合じゃないと思い直した。鼻はもしかすると本当に折れているかもしれないし、そうでなくてもこの血の量。それだけでなく眼鏡だ。眼鏡を、完全にダメにしてしまった。加えて、たぶんほとんど食べていなかったであろう弁当も台無しにしてしまうというおまけつき。


 この甚大な加害に、正孝の間の悪さに腹を立てるのは、さすがに筋違いだと愛美も思ったのだ。


「本当にごめんね」


 愛美はそう言いながら、トイレットペーパーをぐるぐると手に巻いて、次の止血に備えた。


 どくどくと血は流れ、じんじんという痛みは、鼻を中心に顔を左側に広がっている。


「ちょっと、氷貰ってくるね」


 愛美はそう言うと、体育棟に入り、二階の体育教官室から氷を入れた氷嚢を持って正孝の元に戻って来た。痛みに慣れたのもあってか、出血がマシになったせいか、走って帰ってきて息を弾ませる愛美を見ると、正孝は不思議と、清々しい気持ちになった。今朝、登校の時からずっと燻っていた心の靄煙が、吹き飛んでしまったような気がした。


 愛美は、正孝の顔の左側に氷嚢を軽く押しあてた。


 その時に愛美の手が正孝の頬に触れ、愛美は気にしなかったが、正孝はそれだけで、空にも昇るような気持ちになった。


 ――あの佐藤愛美さんの手が、僕の頬に。


 学校を辞めようかと思っていたけれど、通っていればこういう良いこともあるものなんだなと、正孝は思った。


 佐藤愛美。


 彼女は学内でも、ちょっと知られた女の子である。


 左の目の下の泣き黒子がチャームポイント。黒髪の、真っすぐなミディアムヘア。小柄で、思わず抱きしめたくなるような、小動物のような可愛さがある。


 だから、というべきか、彼女には、可愛い女の子特有の下世話な噂が付きまとっている。よく陰で、〈ヤリマン〉だとか〈魔女〉だとか呼ばれている。


 噂によると佐藤愛美は、人の男でも平気で手を出す女、なのだという。愛美に関するそう言った噂は、噂を得る場に乏しい正孝も知っているくらいだった。


 しかし今、正孝には、そんなことは関係が無かった。


 隣にいて、鼻血を出した僕を心配してくれる女の子。少なくとも彼女は、そういう女の子なのだ。噂通りの〈魔女〉だったとしても、この瞬間の優しさは、本物だ。正孝は、そう思い込もうとした。魔女的な打算があるとは、思いたくない。


 しかし実際、打算で考えれば、僕に優しくする理由なんて見当たらないではないかと、正孝は思った。


 別に、トイレットペーパーだけ放ってよこして、保健室に連れて行くだけでも、良いはずなのだ。それなのに、僕の様子を見て、たぶん、保健室までは歩けないだろうと思ったのだろう、こうして、事故現場から歩いてすぐの水飲み場で、僕の鼻血が少しマシになるのを、待ってくれている。


 そんなの、待っていなくてもいいのに。


 だから、彼女は〈魔女〉かもしれないけれど、たぶん、本当は優しい〈魔女〉なのだ。


「冷たい?」


 氷嚢を押えながら、心配そうにそう問われ、正孝は顔を覗き込まれる。


 正孝はそんな風に優しくされて、愛美にすっかり緊張してしまった。

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