あなたに甘い劇薬を

ノミン

第1話 サービスエース(1)


 まとわりつくな春の風

 水色の空の下を

 温かい春の日の下を歩くのが

 陽気な学生だけだと 思ったのか

 僕は貴方のその押しつけがましい

 春日和というのが好きじゃない

 ぽかぽか きらきら

 そうしなければ いけないような

 そうできない自分が おかしいような

 そんな気持ちになって来る

 春の風よ もっと強く吹け

 撫でる様な浅風じゃなく

 体温を吹き飛ばすように

 背中を丸めないと進めないように

 そんな風に吹いてくれるなら

 僕は貴方に感謝して

 一歩ごとに感謝して

 学校までを歩けるのに

 

 

 ふうっ、と幸谷こうや正孝まさたかは息をつき、メモ帳とペンをブレザーのポケットしまった。ベンチから立ち上がり、立ち眩みに目を瞑って耐え、その後、日差しの眩しさに顔をしかめる。


 一羽のセキレイがぴょんぴょん、地面を跳ねているのを見てから、「よし」と心の中で気合を入れて歩き出す。


 駅から学校までの真っすぐな道。二車線道路を挟む歩道はガードレールが敷かれ、その道幅は、学生が三人並んで歩いても、まだ自転車が通れるだけ空間ができるほど、ゆったりと広い。


 一人で歩くと少し、寂しさがある、そんな道。


 校章の入ったスクールバックの他にもう一つ、正孝は大きな手提げを、肩にかけている。手提げの中には絆創膏や虫刺されの薬、靴紐、筆記用具の予備一式、飴、粉末飲料数種類、雑巾、タオル、その他もろもろが入っている。


 手提げの中にはサングラスも入っていたが、しかしそれだけはどうしてもつける勇気がなく、いつも結局正孝は、日差しに耐えて道を歩くのだった。



 高校の二年生に上がり、新しいクラスでの最初のホームルーム。


 座席は出席番号順。全員が着席すると、ちょっとした自己紹介の時間が始まる。


 その後このクラス――二年七組では、学級長もこの時間のうちに決めることになっていた。


 級長決めになると、騒がしかった生徒たちも急におとなしくなる。最初に目配せが飛び、そして次に、特別親しいわけでもない隣席の生徒と私語をし始める。担任の話など、あえてそっちのけ、という態度を取る。


 こういう時、真面目に教員の話を聞いている生徒に限って、面倒事は押し付けられる。そのことを皆、義務教育の間に学んできたのだ。担任が決めるにしても、クラス運営上、教師も不真面目な生徒を級長に抜擢することはできない。


 しかしここ――武蔵黒目高校は、しっかり勉強しないと入れないくらいには入試難易度の高い私立高校である。つまり皆、根っから話の聞けない生徒たちではない。しかし教師は高校生を子ども扱いするのに慣れてしまったせいか、あるいは、高校生の前に立ちはだかる壁役の苦労をしょいこんだり、今時高校生に本音をぶつける大人げなさの不毛さを思ってか、わざわざ級長決めごときで、大人の本気を振るったりはしない。


「誰かいないか?」


 三十代、数学の教師。女子ハンドボール部の顧問。


 尾瀬教諭は、クラス全体に、いかにも体育会系を誇示するような乱暴な大声で問う。


 自薦他薦は問わない、というのがこの級長決めの趣旨であるから、そろそろ他薦が始まる頃間である。

 この新しいクラスはまだ今週始まったばかりであるが、こういう時に、誰を生贄にすれば良いかということについては、高校生でも大人のように、目鼻が利くものである。強い者は強いなりに、弱い者は弱いなりに。


 ちょうど幸谷正孝は、たまたま見たイギリスの教育番組で、コメディアンが言っていたブラックジョークを思い出した。『熊より早く走る必要はないんだ。ただ隣の子より少し早く走れば充分さ』。


 ブラックジョークも本場は違うなと、正孝は思ったものだった。


 しかし今、あれはジョークではなかったと、正孝は思い直していた。思いやり、優しさなんて、熊から逃げた後でしか発揮されないのだろう。熊に食われた友人か隣人を憐れんで、墓を造り、手を合わせる時に。そして彼らは都合よく、自分たちが生贄を作り出し、それによって生き延びたという罪悪感を、罪の意識の外に放り出す。


 正孝は、このクラスに、うってつけの生贄が自分の他にもう一人いるのを見て取っていた。運動部の気の弱そうないじられ役。好きでいじられているのではなく、いじられて芯から困っているタイプの男子。


「坂田がいいと思いまーす」


 ついに誰かが、いかにも無責任な声を張り上げて指名した。坂田というのは、その、いじられて困っている、男子である。


 坂田の困る様子を見て、ケラケラと笑いが起こる。


 だけど僕は、笑えない。


 こんな時、腹の底から笑えるような人間を、僕は心の半分では、心底羨ましいと思っている。


 だけど僕はどうしても笑えない。いつもなんでも真に受けてしまう。真に受けるどころか、彼の困っている心の様子や、笑っている生徒たちの、残酷な心の動きまでをも、どういうわけか、感じ取ってしまう。どうしてか僕は、いつもそうだ。


 だから、笑えない。


 イヤホンを付けていれば良かった。こういう時のために、イヤホンも耳栓も持ち歩いているというのに、結局僕は、見過ごすことができない。


 坂田君が可哀そうだからじゃない。


 坂田君に「キョドンんな、キョドんな」と言う男子や、その様子に笑い声を上げている生徒たちの残酷さ、醜さが、我慢できないだけなのだ。これは優しさでなく、哀れみだ。いつもそうだ。それ以上皆、醜い心を晒さないでくれ。堕落しないでくれ。


 僕は、手を上げてしまった。


 そういう時だけ目ざとい教師は、僕の挙手を見逃さない。


「おっ、ええっと……幸谷、やってくれるのか?」


 出席簿で僕の名前を確認しながら、尾瀬教諭が言った。


 誰、誰、という小さいざわざわと、新しい標的か玩具か、そんなものを見つけた子供っぽい、しかしやっぱり残酷な笑い声が教室のいたるところで起る。そしてまた、僕が名乗りを上げても、我関せずを決め込んで笑いもしない生徒もいる。


 そういう全部を、僕はいつも、見つけてしまう。


 目で、耳で、そして心で。


 こうして僕はまた、引き受けなくても良いものを引き受けてしまった。




 学級委員長になったその日、幸谷正孝は、購買で買った唐揚げ弁当を持って、校内をさ迷っていた。


 教室も食堂も、今日は避けたかった。


 イヤホンも耳栓も、今日は役に立たない気がしたのだ。


 とにかく今日は、人を避けたい。目線が、笑い声が、いろいろなトーンの話し声が、その表情が、全て鬱陶しい。とにかく、疲れて仕方がない。


 何とか一年間は頑張ったけど、もう、学校辞めようかなと、少し真剣に、正孝は春休みの間考えていた。


 この学校が嫌いなわけでは無い。


 ただ、毎日毎日、あの密閉された教室で、少なくとも自分以外の二十九人と、一緒にいなければならない。ただそれだけのことが、疲れる。休みたい。辞めたい。


 でも、結局辞められないんだろうなと、正孝は思っていた。


 どんなに「辞めたい」と真剣に考えたって、僕は結局、辞められない理由を振り払うだけの思いきりと言おうか、勇気と言おうか、力強さと言おうか――それが無い。私立に入学させてくれた両親の事が第一。そして第二に、今日引き受けてしまった七組の級長のことが第二に僕をこの学校に繋ぎ止める。


 級長なんて、誰かが引き継ぐだろうけど、でも、困るには違いない。そしてまた、坂田君あたりが、今日のホームルームの時と同じような目に遭う。それに、僕が辞めてしまったら、僕をそれに追い込んだ理由を考えて、人知れず自責の念に苛まれる生徒や教師が、もしかすると、一人や二人、いるかもしれない。


 そんなことを考えると、不安で辞められない。


 こういう不安は、誰に言っても理解はされないだろうけど。


 はぁ、とため息をつきながら、正孝は一人になれる場所を探して歩いた。


 本当は一緒に弁当を食べるくらいの友達が欲しいな、と思いながら。


 一年生の時には、そんな友達が正孝にもいた。しかしある時を境に、正孝は、彼らから離れた。幾人かで結成されたその、大人しい男子の揃ったそのグループからすら、正孝は抜け出したのだ。


 なぜか。


 その理由は、誰も知らない。


 たった一言、「キモい」と、からかい半分で、友達の一人に言われた、そのせいだとは、誰も考えていないだろう。そんな言葉、ここではありふれている。『キモい』、『死ね』、『ガイジ』(『障害児』から来ている)。どうしてそんなひどいことが言えるのか僕にはわからないけれど、ここでは皆がそれを笑いながら口にするし、言われた方も笑って受け流す。


 だけど僕にはできなかった。


 昼食を共にしていた友達の一言。僕の〈ある習慣〉を茶化して言われた「キモい」というたった一言。でもそれで僕は、もうここには、彼らとは一緒にいられないと思った。


 いつの間にか正孝は、体育棟の裏までやってきていた。


 何もない、誰もいない場所。


 少し寂しすぎるから、もう少し開けた場所――弓道場のあたりにしようと、正孝は仮の目的地を決めた。体育棟と弓道場に挟まれた小さな道には確か、アリーナ直通のシャトルドアがあって、そこには二、三段の階段がある。


 その階段を椅子にして、微かに見える校舎とテニスコートを眺めながら弁当を食べよう。


 そう決めて、正孝は弓道場の方へと、体育棟の裏を回り込んだ。

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