第3話、吸血鬼 下

「さーて……」


 笛を聞いた獣の動きがぴたりと止まった。アオの様子をうかがいつつ身体を起こす。ぱらぱらとついた街灯の光が金色の毛の一本一本を浮き上がらせる。ただの犬やオオカミではないことは一目でわかった。


「食人鬼どころか吸血鬼本人とはなあ……」


 アオを無視するつもりはないようだと、そっと距離を測る。金の毛に明るい青い眼。二足で立ちあがり曲がった背中を伸ばしたとしても、子供の身長がやっとだ。犬と言うには大きいが、恐ろしい化け物と言うにはあまりに小さかった。


 その後ろからユエンが吸血鬼を見ている。両手を組んで、その隙間から覗くと「ふむ」とつぶやいた。吸血鬼は長い耳を伏せて威嚇するようにうなり、グオゥと吠える。青い目がぎゅっとひきつり、鼻にシワがよった。


「よう。はじめまして、こんばんは。いい夜かな?」


 言い終わる前に、吸血鬼が手をついて逃げる。ユエンは何も言わず自分の影に潜り、倒れた少年のそばの影から現れた。そういうことなら、あっちはユエンにまかせればいい。


 先手有利とばかりに、アオは走って飛びこむと吸血鬼の背中に一撃を入れる。斜めに切り下ろすと矛は肩にあたって肉を割いた。思ったより軽い手ごたえだ。赤い血が吹き出し、地面に落ちて塵に変わる。吸血鬼は驚いたように飛びあがり、ぐるりと体をひねって着地した。


「逃すか」


 獣がアオに向き直る。一足で距離を詰めてそこから勢いよく腕を伸ばした。太い爪がアオにせまる。それを石突でそらし矛先をのど元に突く。ひるんだ胸元にもう一撃を鋭く飛ばした。それでも爪を伸ばしてくる手を柄でぐるりと巻き上げて脇腹に突きを入れた。


 獣が体をねじるように逃れてとびずさる。吸血鬼の動きはひどく単純だ。人間にしてみれば鬼のような怪力でも、先の食人鬼と比べて強くない。シガンがケガですんだのはこのためだろうか。

 もしやここで倒せるかと踏み込んだとき、ぐわんと青い眼が揺れた。そして虹色に光ったように見えた。


「……うん?」


 再度突き込んだ矛が届かない。おかしい、手元が狂ったか? 引いたところに獣が飛びかかる。このくらいの距離なら避けられる。その瞬間、まぎわに獣の爪があった。街灯がつくったアオの影が鋭くとがって爪を撃ち落とす。


 吸血鬼が虹の目を向ける。あれは魔眼だ。邪視ともいう。どうも距離感がつかめない。アオがにらみかえし、ぺっと唾を吐く。獣が嫌がるように青い目を細めた。その隙に矛を握り直して吸血鬼に向かう。


「くっそ……」


 深く突き入れたつもりだ。しかし当たらない。一時的に魔眼を避けても、獣がこちらをみている限り矛先がずらされる。吸血鬼は大ぶりに手を上げて振り下ろした。避けようとするが、それは突然目の前に現れたように迫った。早い。そこからは防ぐのが大変になって反撃できない。矛が折れないようにいなすので精一杯だ。


 爪がアオを捉えようとしたところに、その影から黒い塊が伸びて獣の腹を撃ち上げる。ユエンだ。ギャンと吸血鬼が鳴いて後ずさった。

 組合も鬼害対も来るのは時間がかかる。ここは少年の保護を確実にするべきだ。ユエンが少年の前に立っている。影を使うことができても彼を抱えて逃げるだけの力はないのだろう。


「ユエンさん!」

「道は作る!」


 ユエンが叫んだ。アオは獣の伸びきった腕を矛で押さえた。その矛を外し、腰を落として獣の後ろ脚を外から払った。仰向けに獣が転がり、ぐるりと一回転して四足で立とうとしたところに、陰から放たれた鈍い灰色の鏃が飛ぶ。吸血鬼はグエッとうめいて跳ねる。そして一目散に路地にかけていった。そこは深い暗がりで、金の毛さえ見えなくなる。


 そのときにはアオは建物の側面にできた影を踏んで駆け上がっているところだった。少年を抱えて。登り切ってユエンの腕をつかんで引き上げる。屋根に足をかけ見下ろすが、獣の姿はもうなかった。




 アオはすぐにスマホで組合に連絡を入れた。警察が出動し、近くに人が寄らないようにするだろう。鬼害対の人間もそのうちに来るから捜索することになる。


 アオは気絶している少年の腕の傷を見る。よかった、ひきちぎられずにすんでいた。出血が少ないところから見て、吸血されてはいない。吸血の際、唾液を流し込むことで血液の凝固を止めるといわれる。しばらく用心していたが、吸血鬼はどこかへ逃げたらしい。


「魔眼持ちかー」

「人間は眉に唾を付けておくべきだ」

「そっかあ……」


 眉に唾を付けるのは魔眼を封じる簡易な方法の一つである。唾や糞便、性器のようなものは直視させず、魔眼の効果をうち消すことができる。


「ありがとさん。すごいな、それも妖精の能力?」

「ああ、すごいとも。これは神とされた力だからな。もっとも今となっては、たいしたこともできん」


 彼女にとって死とは闇の世界のことだ。小さな闇、つまり自分の影を使うことはできる。物の影や陰を使うこともできるが、その形を変えることは難しい。それは、影がそのものの一部だからだ。アオのように本体に許されたなら使えるのだが。


「ふーん……」

「まあ、吸血鬼にできることはだいたいできる。役に立ったなら何よりだ」


 パトカーのサイレンが近づいてくる。そろそろ鬼害対と組合からも誰かが来るに違いない。アオはバッグからタバコを取り出した。このタバコは支給されたもので、吸うためではなく吸血鬼よけとして煙をまとわせるのに使う。そして慌ててしまいなおした。彼の横にいる少女が嫌うかもしれなかった。


「……あいつ捕まるかね? あんな目立つの、すぐ分かると思うんだけど」

「あれは存在が曖昧だから、意識して見ようとしないと分からない。……人間はあれを捕まえたらどうする?」

「そうだなあ。食人鬼と同じく駆除かなあ……」


 戦後、日本で吸血鬼を駆除した例はない。吸血鬼の被害とは主に食人鬼によるものである。吸血鬼による事件と推定される場合でも、吸血鬼本体を捕えることは非常に難しい。


「駆除。殺すのだな」

「人を襲ったクマと同じだ。簡単に人を殺せることを知っているから放ってはおけん。麻酔も効かんし、捕まえてもなあ……。吸血鬼の側がどう思ってるかは知らんけど」

「吸血鬼はなんとも思ってないだろう」


 アオが目線だけで疑問を示す。人間は同族を殺されては黙っておれない。けれども吸血鬼は違うのか。確かに、食人鬼を駆除したからといって、吸血鬼がその報復にきたという話は聞かなかった。


「吸血鬼は人間のような権利なんか持ちたくないと思っている」

「そういうもんか」

「そういうものだ。本当は、吸血鬼は誰より強い力を持って弱いものを好きにしたい、そういう欲望を持っている。それなのに権利なんて手にしたら、弱いものの権利も守らなくてはならなくなる。彼らにとってはまったく都合が悪い」


 ユエンは黒い目で、黒い髪で、同じように黒い空を背景に語った。


「吸血鬼は吸血鬼のやりかたで人間を殺す。それは人間にとって困る。だから人間は人間のルールで吸血鬼を倒せばいい。吸血鬼にとって理不尽だとしても。残念ながら、それがわかり合えないもの同士のつき合いかただ」

「わかり合えない、ねえ……」

「そうだ。吸血鬼は人間が嫌いだから人間を襲うわけではない。欲しいから殺す。人間は自分たちに害があるから吸血鬼を殺す。私は人間を守るため吸血鬼を殺す。強いほうが勝つ、それだけだ」

「そうかあ……」


 アオには神のことも吸血鬼のこともわからない。人間同士だって言葉はわかっても思っていることはわからないのだ。わからなくても協力できるならそれでいい。


「ユエンさん、スマホ持ってる? 連絡取れたらいいんだけど」

「携帯電話? もっていない。呼べば行く」






「……おかえり」

「うん」


 玄関を開けると、シガンは無愛想だが声をかけてきた。組合での聴取後、アオのかわりにリョウアンが家まで送ったという。さぞ気まずかったに違いない。悪かった。


 時間は獣との交戦から一夜明けたところだ。鬼害対と組合が調べて回ったが見つからなかった。もうあの近辺にはいないようだとユエンは言っていた。地面に消えたのだろうかそれとも……。


「シガンさん、よく無事だったな。吸血鬼。なんだ、あれ」

「会ったのか。そうだ。あんなものが本当に存在するなんて。で、どうだった?」


 鼻息荒く吸血鬼のことを聞いてくるシガンを手で落ち着かせ、アオはあいまいに笑った。言えばまた想像を膨らませるのだろう。実際に戦ったアオにしてみればそれは妄想なのだが、世間一般の吸血鬼のイメージというのはそんなものなのかも知れない。


「そうだな。まあ、強いな。で、朝メシ食った?」

「……うん。つくっといてくれたネギ焼き」

「それならいいわ。じゃあ、俺は寝るから。夜、何か食いたいものある?」

「吸血鬼は」

「逃げられた。今後はあそこらへんを重点的に見回るつもり」

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