第10話、殺人鬼 上
男の子がいくつかの角を曲がったところに、男がいた。
そこらへんを歩いていそうな姿で、年は三十ほどだろうか。何もなかったかのように突っ立っていたが、ふっと男の子を見た。「……やあ」。男の子は立ちすくむ。違う、この男は悲鳴の主ではない。
そこに走ってきたコウが追いついた。追いかけている時から変な匂いが強くなった。しょっぱいような苦いような匂い。その匂いを吸うと胸に消えない染みのように張りつき、くらくらとする。
そして男を見つけた時、その匂いがずっと強くなった。男に深く染み付いている匂い。はっと目を見開いたコウに、男は笑ったように見えた。乾いた笑いだった。
その手には先が赤黒く変わった刃物が握られていた。わずかな光に虹色に光っている。その不思議な色からコウは目が離せなかった。胸がざわざわする。
「逃げて!」
男の子がかすれた声をあげた。逃げる? 逃げるって……なんだっけ。あの男はダメだ。あれはきっと痛い。体がぴくりとも動かなかった。コウはぬいぐるみを押しつぶすほどに抱きしめて固まっていた。
そのとき目の前が塞がった。男の子がコウの前に立っていた。彼の足はひどく震えていた。腰はみっともなくひけているし、バットを持つ手だってこわばっている。
男の手が動いた。刃物が近づいてくる。
その瞬間、斧が降ってきた。男のそばの地面を打って嫌な音が響いた。トモエだ。男はさすがに驚いたように、手を止めた。
「クナドくん、その子連れて走って! 急げ!」
男の子は、クナドと呼ばれた子はコウの手をしっかりとつかまえ走り出した。コウは走るのが苦手だ。でも、手が引っ張ってくれた。だから足が動いた。ふわふわとして地面を蹴っている感覚さえなかったけれど、手の感触だけははっきりとしていた。
「どうした」
クナドとコウは路地を曲がって大通りに出た。どちらに逃げようかと迷ったとき、そこの陰から抜けるようにユエンが姿を現した。黒い髪と目は陰と見分けがつかなかった。クナドがぎょっとする。
「あ……ユエン、ユエン……」
コウがとりすがった。クナドが慌てて説明しようとする。
「あ、あの、助けてください……!」
「わかっている。助けを求めるのはいいことだ」
「え、あ……その……」
「よく逃げた。よい子だ」
ユエンはクナドを落ち着かせるように微笑む。なぜかその言葉は安心できた。クナドはその場にへなへなと崩れ落ちた。
「お、ゲンちゃんどうしたの?」
日は落ちたばかり、アオはいつもの見回りにでていた。ゲンが首をあげ、ウォウと鳴いた。ある方向をにらんで肩をいからせ再度ウウ……とうなる。
「出たか?」
ゲンは乗れ、とアオに背中を差し出す。アオが首をつかむとゲンはかけだした。あっというまにスピードにのる。陰を踏んで大きく跳び、あちらの影におりる。振り落とされないのが不思議だ。
また影から陰に跳んだかと思えば、陰に沈むように深く潜った。中は暗く、まるで水に潜っているようだ。ぞわっとした感覚が背中に生まれる。じっとりとしてるのか乾いているのかもわからない。ただ、とても静かでひんやりとしていて、呼吸すら忘れそうになる。
陰の中を泳いで出たところは、細い路地裏だった。すぐ近くで警戒笛が聞こえた。ゲンから手を離し、組合に現在地の位置情報を伝える。
笛の鳴った方向に向かうとそこにトモエがいた。トモエは振り下された食人鬼の爪を避けて、距離を取るように跳んで下がる。トモエのほうもアオに気づいた。食人鬼に気をつけながら、あごでそこに倒れている男を指す。ときおり動くのでまだ生きているのだろう。
「あいつが人間のほうの犯人だ。食人鬼は血に寄って来たらしい」
トモエがぼそりと不満を口にする。
「……あれを助けるの嫌だな」
「そう言わないで。人食ってこれ以上、強くなられても困るし」
ツノが二本見えた。つまり東京駅の食人鬼とは別物だ。トモエが斧をかつぎ、建物の壁を蹴って上を取る。同時にアオは食人鬼の足元に矛を繰りだした。ぐさりと深く刺さった手ごたえ。
しかし食人鬼はそのまま切らせず、アオを蹴り上げる。アオはすばやく矛をたぐり、後ろに跳んだ。降り落とした斧がガツンと食人鬼の背中にあたってえぐれた。塵が舞ってすぐに傷が塞がる。
「くっそ……」
着地したトモエに足払いがせまり、縄跳びを跳ぶように避けた。転げるようにして地面におり、すぐに体勢を整えて向き直る。アオが足をいなして間合いに入っている。伸ばされた手を受け流しながら矛を振り上げると、まっすぐ腕に切りこんだ。
反撃しようと食人鬼の意識がアオに向かう。トモエがすべるように近づき、腹をばっさりと切り裂いた。胴が半分以上裂けたというのに、傷口がわずかに塵を吐いたきりですぐに再生してしまう。
「こんのやろぉ……」
「そこか!」
飛び込んできた男の声は六道ヤマ、鬼害対の隊長だ。剣を振り上げるように踏みこんで、食人鬼の背に切り下ろした。柄頭には輪になっており、そこに小さな輪が通されていてジャラと鳴る。そのまま引き切るように振りきった。すぐに胸を貫き、真横に切り払う。
「ヤマさん!」
背中から胸部に大きく切りこまれ、食人鬼がぐらついた。胸から下が塵となって消える。ところが食人鬼は腕を足のように伸ばして立ちあがった。切られたところからぼこぼこと足が生え、人の形に似て異なる何かになる。たまにいる異形の食人鬼は、人と戦って生き残ってきたものだ。
「……頭だな」
「はい」
頭は地面から二メートル以上、隙があればこちらが攻撃する前に振り払われるだろう。意識をそらして一気にかかるしかなさそうだ。しかし食人鬼や吸血鬼というものは、どうも「目」で見ているわけではないらしく、背後への反応も素早い。
「……落とすか」
ヤマの指示で足元に向かう。下のほうに意識を集中させ、また手足を切って再生する間に頭を狙おうというわけだ。まず飛び込んだのはアオ、握りつぶそうと伸びる腕を石突きでひねるように撃ち落とす。返した矛先で足に切りつける。その隙にトモエが深く踏みこんでいた。
トモエは気づいて向かってくる爪を斧で叩き落とし、下から振り上げてもう一撃を入れようとする。腕が暴れて逆に近づかれた。トモエは二歩三歩と下がって避ける。背後に回ったヤマが、踏み潰しにきた足を半身に避けた。アオがもう片方の足を攻撃して引きつけている。
「せい!」
ヤマが一度足を切り上げて、流れるように深く振り下ろした。ざっくりと切りとられた足が落ちて塵に変わった。トモエはせまる腕を受けきり、そのまま斧を振りぬいてまっすぐ打ち割った。
残るは手と足が一本ずつ。暴れる手をヤマが剣の腹でいなして切りこんだ。避けようとした食人鬼が一瞬、片足立ちになる。その足をアオが矛で突きあげた。固い肉の感触はすぐに細かい砂のように変わる。矛が抜けないよう、腰を入れてなぎ払う。
「おりゃあ!」
食人鬼は大きくバランスを崩した。落ちてくる食人鬼の頭にトモエが斧を打ちおろす。ところがそれが届く前、食人鬼は片腕だけで大きく飛び退いた。食人鬼は見る間に再生した足で建物の外壁を蹴り、頭上を跳んで向こう側におりるとそのまま逃げようとした。
「ヴゥーッ、ウァウ!」
犬が吠えた。満月に、白い犬が浮かび上がる。額に黒い毛が点のようにある犬だ。犬はもう一度鳴いた。食人鬼は犬に近寄りがたいように一歩後ずさりした。チャンスだとトモエがかけよろうとしたとき、声が飛ぶ。
「動くな!」
それは人間に対しての警告だった。トモエが足を止める。ドンッという音。もう一回。
一発目は腹、食人鬼はびくりと体を痙攣させて動きが止まる。二発目であごから下が塵に変わった。頭部の上半分だけが落ちてきて地面に跳ねる。そこからまた腕が生えようとしたところを、即座にヤマが剣で叩き潰した。かち割られた頭が塵に変わって、あとにはひしゃげた銀弾が二つ落ちているだけだった。
「ヤスコさん、もういいよ」
道の向こうからオレンジ色の狩猟ジャケットを着た中年女性が現れる。肩に猟銃。
「どうも。…… 寄弦イチコです。よろしく」
「なんで俺だけこんな目にあうんだ!」
喋るところをみると命に別状はない。ヤマは気絶から覚めた男の手当てに入る。痛いだろうにと思うのだが、それでも彼は叫んだ。パトカーと救急車のサイレンの音が聞こえる。
「みんなしあわせなのになんで俺だけ。ぜんぶあいつらのせいなのに」
ヤマが真面目な顔でうんうんと聞いている。ヤマは優しいわけではない。ただ、言わない自制心があるだけだ。そう思ってトモエは嫌な顔をした。ヤマの表情が優しく見えるのはヤマのせいではない。
防除組合は都環境課の依頼と警察の許可があって動く。できてそうたっていない鬼害対が昔からある組合とそれなりにうまくやっているのは、この文句を言いにくい顔のおかげでもある。
「だから俺は吸血鬼になったんだ。あいつらに思い知らせてやる、俺はここにいるんだってわからせてやった。吸血鬼の話になるたび、俺の事件が語られる。おまえらがジャマしなければ、俺はホンモノの吸血鬼になれた!」
「へえ。で、その吸血鬼サマと会ってどうだった? ああなりたかったんだろ?」
「トモエさん」
血につられた食人鬼のことを聞くと、男は口を閉ざした。
「命乞いをして、おまえはそれでも殺したんだろうに」
「……では、あとはお願いします」
ヤマは表情を変えず、やって来た警官に容疑者を引き渡した。救急車が入ってきて救急隊員が担架を持ってやってくる。救急車を見おくると、トモエが舌打ちをして背を向け去っていった。そういえば平坂サエの息子が発見者だそうだ。そちらの対応に行くんだろう。
ジャケットのオレンジが目立つイチコがホウキで塵を集めていた。イチコは淡々と対処しているようにみえる。ヤマが見たところいい腕をしている。猟銃はすでに袋にしまわれ背負われていた。
「これで何体目です?」
「三体目です。うち一体が捕まっていません」
イチコに聞かれ、ヤマが答えた。東京駅に出た一体のゆくえがまだわかっていない。
「そうですか。殺せるだけいい」
ヤスコはあっさりとそう口にする。殺せるなら人やクマと同じ、不思議な化け物ではないとでも言いたげだ。「ヤスコさん、そこ踏まないでね」。ヤスコさんと呼ばれた犬が、舌を出してイチコにまとわりついている。
都市で生まれ育ったヤマは自分の手で生き物を殺すという感覚が薄い。食人鬼だって「駆除」と呼称するが、イチコはそれを「殺す」と言った。
「殺す……ですか」
「そうですね。誰も彼も、何かを殺さずには自分が生きていけない」
「なるほど。しかし人が人を殺すというのは怖いものです。食人鬼とは違う怖さがある」
「クマやイノシシは怖い。火事や洪水、地震に台風も怖い。食人鬼だって怖いものですが、それはそういうものですよ」
イチコは静かに答えた。
「そういうものを恨んでもしかたがない。運が悪かったというだけです。できるだけ、こちらからそうならないようにするしかない。けれども人は自分と同じ姿をして同じ言葉を話すから、同じような感情、同じようなふるまいを求めてしまう。だから通り魔というのは怖くて、理不尽で不条理で、怒りを感じる」
「人間は人間をむやみに殺さないと信じているのに、それを一方的に破るから怖いと」
信じている。「戦争で人を殺すのはいいのか」「正当防衛はどこまで認められるか」「死刑は是か」「どのような理由であれば情状酌量されるべきか」。こんな議論が起こるのは、そもそも人々が「普通は人を殺してはいけない」という前提を持っているからだ。少なくともほとんどの人がそれを無意識に「信じて」いる。
人は何かを信じることで生活している。お金に価値があると「信じている」からこそ買い物ができる。いちいちその価値を疑うことはない。ルールだってきちんと守られているとき、その存在を疑われはしない。それは神を信じることと変わらないとイチコは思う。
「そうですねえ。吸血鬼が怖いのもそうですよ。食人鬼はあのとおりですが、吸血鬼は人の形をして人の言葉を話し人の中にまぎれて生活するといいます。言葉は通じるのに話が通じない隣人というのは、とても怖いのでは」
絶対にないはずのものがある、当たり前にあるべきものがない。ありえないものはどちらも怖い。自分が「普通」だと思っていたものが普通ではなくなることが怖い。
「なるほど。……昔、ありました。家族がいつのまにか宇宙人と入れ替わっていた映画が」
「ふはは。ありましたなあ、そういうの」
イチコが笑い声をたてた。路地裏のよどんだ空気がかき消されていく。
吸血鬼とは生きた都市伝説だ。実際に存在するものだが、そこに意味を見出すのは人間の勝手な思い込みにすぎない。きれいな鳥の縄張り争いをダンスと思うように、小動物のいかく行動をかわいいと思うように。
……人々が都市伝説を面白おかしく語るのは、恐怖からの回復のためだ。十分行き渡った恐怖は笑いにさえなる。
「ヤマさん、オレはまんじゅうが怖いよ」
「はは。今度、お茶を用意します」
ヤスコさんが「ワン」と嬉しそうに鳴いた。くるくるとイチコの足元を回る。犬用のおやつも必要だろうと。
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