8 独り言



 今日も黒の大木で彼を待つ。

 バケツの中身を見つめてから、フィリリアは何を考えるわけでもなく地面に置く。

 相変わらず霧の壁は濃い。しかしフィリリアは濃くなっているのは霧靄だけではないことに気がついていた。

 前に霧に手を伸ばした時に見た現象。あれは間違いなく霧払いだ。守り人で霧払いが出来るようになることは稀で、出来るようになる方が少ない。かといって不可能でもないのが厄介なところ。

 フィリリアは大木に身体を預けて虚ろな眼差しを手のひらに向ける。

 霧払いが出来たということは、自分の魔力を扱う力は増大しているということ。それは能力向上を意味するとともに、今後一切外の景色を拝む機会を得ることがないのも同然。


 小さく息を吐き、フィリリアは両手を背中に回した。

 自分の両親や祖父母も高齢になるまで外の世界に出ることはなかった。

 それでも霧払いが出来たという話を聞いたことはない。

 つまり、早いうちから霧払いの力を開花させたフィリリアは、いくら歳を重ねても引退の機会が回ってくることはないということだ。

 一定の頂を越えた後、通常であれば歳を重ねるとともに魔力への耐性が弱まり、守り人たちは引退していく。しかしもともとの素質が強い彼女。頂を越えるどころか、更なる段階へと進化を遂げようとしているとは。彼女の能力は、彼女自身の期待をも超えるようだ。例え年老いても次なる守り人のために指導を続ける。引退など遥か彼方。恐らくそんな未来が待っている。

 別にそれが嫌なわけではない。

 後進のために育成に尽力することも面白そうだと憧れたこともあった。世の平穏に力を貸せることは喜ばしい。守り人としては文句のない人生。かつてはフィリリアもそんな未来を描いていた。けれど同じような道筋を描いても、以前ほどフィリリアの心は弾まなかった。

 恐らくそのうちのどこかで外の世界を見る機会があると信じていたからだ。

 外の世界に行くことはそこまで難しいことではない。むしろ多くの守り人たちが通る道。理由が入院とはいえ、現役の間に一度もダズワルド監獄から出たことがない人間など滅多にいない。

 フィリリアもその点は楽観視していた。まさか霧払いが出来るようになるほど自分の特殊な器が強力だとは思ってもみなかったからだ。


「はぁ……」


 思わずため息が逃げていく。

 フィリリアが霧払いをできるようになったと知れば、ガレたち同僚はもちろん、看守たちは喜んでくれるだろう。でもまだ言いたくはない。フィリリアは複雑な心境に押しつぶされそうになっていた。


「ため息なんてついて、珍しいね」


 重たい心とは正反対の軽い声。

 フィリリアはネーベルの影を見つけてもう一度息を吐く。


「わたしにも、悩み事くらいあるの。驚いた?」

「ははは。まさか」


 ネーベルはフィリリアの浮かない声を聞いて申し訳なさそうに答えた。


「悩み事はあまり抱え込まない方がいい。俺でよければ相手になるよ」

「囚人に、悩みを話すの?」

「うーん。ちょっと危険かなぁ? 弱みになりかねない」

「じゃあ、やめておく……」

「うそうそ、冗談だから!」


 フィリリアがしゅんとして肩を落とすので、ネーベルは慌てて首を横に振る。慌てるあまり彼が前に出てきそうになれば、フィリリアははらはらして身を前に出した。フィリリアの反応を見たネーベルは、霧の途中から酸素が消えることを思い出してハッと足を止める。


「それで、どうしたの?」


 気を取り直し、ネーベルが大らかな声で尋ねる。


「やっぱり、わたしは外に出られないなって思って。少し寂しくなっていたの」


 フィリリアは大木にもたれたまま顔だけをネーベルに向けた。


「夢を描くのはとても楽しい。心を支えてくれるし、希望を教えてくれる。だけどとても頼りになる分、諸刃の剣でもあるわ。期待が大きいだけ簡単に絶望に落とされる。勝手に落ち込んでいるのは、わたしの責任なのだけど」

「フィリーは真面目に考えすぎだよ。夢なんていつ叶うのか分からないのに。計画通りに夢を叶える方が難しいよ。俺だって、旅する間ずっと順調だったわけでもないし。でも自分を裏切るのが嫌で、意地でも成し遂げるって意固地になれたからどうにかやってこれただけ」


 ネーベルは当時を思い出して渇いた笑い声を出す。


「きっと滑稽だったと思う。傍から見たらね。だけど夢に必死にしがみついたことを後悔はしてない。俺の一番の原動力だから」

「そういうもの──?」

「ああ。フィリーも言っただろ? 夢は希望を教えてくれるって。希望を自らで捨てる必要なんてある?」

「……──ない、の……?」

「もっと自信もって、フィリー」


 ネーベルが自分に微笑みかけているような気がして、フィリリアは不意に頬を赤くする。


「希望は嫌でも他者に奪われていくものだ。それだけでも辛いんだから、自分を進んで拷問にかけなくていい」

「……うん」


 フィリリアはこくりと頷き、申し訳なさそうな声を続けた。


「わたし、前にネーベルの希望を奪ってしまったことがあると思うの……ごめんなさい」

「ははは。外にも霧があるって話だろ? 気にしてないよ。大丈夫」

「うん……ありがとうネーベル。あなたはとても優しいのね」

「これが褒められるってやつか、確かに、なんだか落ち着かないのは分かるな」


 ネーベルは照れくさそうに頭を掻いた。


「でも、本当に気にしなくていい。外にも霧が蔓延っていようと構わない。どうせ出られないんだ。それに、今はほかに希望も見つけたし」

「本当?」

「こればっかりは秘密。また奪われたら今度は立ち直れない」

「ふふ。そんなことしないのに」


 フィリリアは口元を抑えてくすくすと笑う。真剣な話なのに笑ってしまっては悪い。頭では分かっていても自然と笑みが零れてしまうのだ。


「ネーベル。どうすればその秘密を教えてもらえる? わたし、あなたの話が大好きなの」

「そうだなぁ……今は平気とはいえ、当時は結構落ち込んだしなぁ」

「もう、気にしなくていいって言ってくれたのに。楽しまないで、ネーベル」


 彼がわざと言葉を濁していることは彼女も承知だった。


「あなたの言葉が聞きたいの。ねぇ、代わりにわたしも一つ、あなたの質問に答えるから。そうだ。秘密を交換すれば納得してくれる?」


 フィリリアは名案を思い付いたと言わんばかりに手を叩く。

 嬉しそうな彼女の声に、ネーベルは一拍子置いた後で軽やかに笑う。


「ああ。それはいい提案だね。そうしよう」

「ふふ。まずはわたしがあなたの質問に答えるから、次にあなたの秘密を教えてくれる?」

「分かった」


 ネーベルが同意すると、フィリリアは身体ごと彼の方を向いて彼の質問を待つ。


「何を聞きたい? ネーベル」

「聞きたいことは前から決まってたんだ。きっと君は教えてくれないと思ってさ」


 二人の瞳は互いの影を離さない。


「俺の声に応えてくれた理由。前に少し教えてくれたけど、理由はそれだけじゃないってずっと考えてた。働き者で守り人として優秀な君が、ただの一囚人の声に耳を傾けてくれた本当の理由。それがずっと知りたかった」


 ネーベルは霧靄の外にいる彼女を見つめて淡々とした調子で話す。切なる瞳に溢れる感情は誰のもとにも届かない。フィリリアも例外ではなく、霧に隠れた彼の本意に触れることなど出来はしなかった。


「フィリー、教えてくれる……?」


 だからと言って彼女を責められる者などどこにもいない。

 彼もまた、彼女の表情に滲む心模様を読み取ることなど出来ていない。

 フィリリアはこくりと頷き、細い息を鼻に通した。


「霧を抜けて声が聞こえたって、あの時は答えた。そうだったよね? それは本音で、偽りなどなかった。でも、少し言葉が足りなかったのも確か」


 フィリリアは淡い声で彼に隠していた心を伝える。


「あの時、ネーベルの声が聞こえた時……──霧が晴れたような気がしたの。深くて、どこまでも続く霧靄に光が差し込んで道が見えたように思えたの。霧の向こうから何かが聞こえることなんてなかった。なのにネーベルの声は霧を割いてこちらに届いた。あなたの声が、まるで希望を教えてくれるみたいに。晴れることのない霧が去り、視界を遮る白靄のない世界に導く……靄に隠れてしまったわたしの夢を、諦めなくてもいいよと言われているようだった。わたしにとって、そんな希望に聞こえたの」


 頬を緩め、彼女の声は花のように優しく笑う。


「だからネーベルの声に応えたの。あなたと話していると、希望がすぐそこにあるように思えたから」


 秘密を打ち明けたフィリリア。素直になると自分のすべてを曝け出している気分になってくる。恥ずかしさに耐え切れなくなった彼女がネーベルに声をかけようと口を開く。

 次はあなたの番。

 そう言おうとした彼女。

 しかしその声は背後から聞こえてきた声によって掻き消される。


「フィリー。誰と話してるの?」


 予想もしない声に呼ばれ、心臓が飛び上がる。振り返ればローリーがいた。

 空になったバケツを手に、フィリリアのことを不思議そうな目で見ている。


「ろ、ローリー! びっくりした。もう仕事は終わったの?」


 フィリリアは咄嗟に身体を彼の方に向けて遠くに見えるネーベルの影を隠そうとする。ローリーはフィリリアの反応に首を傾げることもなくくすくすと笑いだした。


「当たり前だよ。もうすっかり遅いよ。君がなかなか帰ってこないから、どうしたのかなって様子を見に来たんだ」

「え……っ」


 フィリリアは頭上を見上げた。確かに、空には月のような輝きが見える。


「ほら。一緒に戻ろう。これ以上暗くなると館に着く前に道を見失いそうだ」

「うん……──そうね」


 ローリーは手を伸ばしてフィリリアを自分の方へと招く。

 フィリリアはちらりと霧の向こうを見やり、急いでバケツを手にした。

 ついさっきまであったネーベルの影はなくなっていた。


「で。誰かと話してた?」


 駆け寄ってきたフィリリアの手を繋ぎ、ローリーは霧靄の檻を訝しげに見る。


「ううん。ただの独り言。ここなら誰にも聞かれないでしょう?」

「フィリーも愚痴とか言うんだ?」

「そういう時もあるかもしれないわ」


 フィリリアはローリーの手に導かれて歩きなれた道を行く。途中、遠くなりゆく霧靄を振り返り、ローリーに怪しまれないようにすぐに目を離した。



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