6 英雄
ローリーが復帰して一か月以上が経った。退院した彼は以前よりも調子が良く、順調な滑り出しで担当区域に舞い戻った。はじめのうちはフィリリアたち仲間も彼のことを気にかけていたが、どうやらその心配もなさそうだった。久しぶりの仕事に時間がかかることもあったが、彼はすぐに感覚を取り戻した。彼の仕事を終える時間が安定してから更に二か月が過ぎた頃、フィリリアもまた変わりない生活を取り戻していた。
六時から七時区域の霧の檻を守るため、彼女は今日も無言で聖水を撒く。
周りの環境要因全てを遮断し作業に集中しているからか、彼女の手際はますます磨かれていった。作業をするとき、耳に入ってくるのは木々が触れ合う音だけ。静かなのは前からだ。恐ろしいほどに何も聞こえてはこない。
前もそうだったはず。知っていたはずの静けさ。しかしフィリリアには以前よりも静寂さが増しているように聞こえた。彼女の技術が更に向上したのは、そういった理由もあった。
今や彼女が担当する場所は他の区域よりも強固で悍ましい霧で覆われていくようになっていた。雲海を思わせるほど美しいのに、身体に纏わりついて決して離れない。
この霧に囲まれたら、ほどなくして陰鬱な気分に陥り絶望に包まれることだ。
黒の大木にかかるギリギリのところまで聖水が落ちていく様を見つめ、フィリリアは顔を霧へと向ける。
何の影も見えず、この先に果てしない空間があることすら認識できない。
フィリリアはしばらくの間、ぼうっとした眼差しで向こう側を眺め続けた。
仕事を終えたフィリリアはバケツを部屋に置き食堂へ向かった。
少しの間頭の中が留守になっていたフィリリアは、他の守り人よりも館に戻る時間が遅くなってしまっていた。もう食堂は満席かもしれない。若干の焦りが表情に滲む。
館の食堂には守り人をはじめとした監獄で働く人間たちが集う。魔術師も同じ空間で食事をともにする。多くの人間が一堂に会するが、来る時間もバラバラのためそこまで騒がしいわけでもない。だから各自が黙々と食事に集中するのがいつもの光景。
しかし今日は少し様子が違った。
フィリリアは空いている席を探すために会場を見回した。一人の青年の後ろ姿に目が留まる。輝くブラウンの髪の彼は、熱々のスープを掬って口に運んでいるところだった。よっぽどお腹が空いているのか、上半身は机に前のめりだ。
「ローリー。ここ座ってもいい?」
フィリリアが声をかけると、彼はスープを飲み込みながら頷いた。
「復帰後、体調はどう?」
ざわざわとあちこちから聞こえてくる声に落ち着きなく目を向け、フィリリアはローリーに尋ねる。
「問題ないよ! すっかり調子がいい。フィリーが代理をしてくれたおかげで助かった。本当にありがとう」
ローリーはぱぁっと表情を輝かせて笑う。
「それに、僕も随分と適応力が上がってきたみたいだ。前みたいに何か月も休むことにならなくてよかったよ。あの時はまだ担当がなかったけど、もし今みたいに担当を持っていたら絶対に外されてた。せっかくここまで来たのに、また振出しに戻るのは辛いなぁと思ってたし、自分の能力向上が知れて嬉しいよ。これでしばらくは悩む必要なさそうだ」
「そう。それはよかった。役に立てたのならわたしも嬉しい」
フィリリアはみるみるうちに減っていくローリーのスープを見つめて頬を緩めた。
二人がささやかに会話をしている間にも、周りの興奮は止みそうにない。
魔術師も普通の人間も関係なく、食事もそっちのけにした人々は口を開いて何かを話題にしている。
肝心の内容は聞こえてこなかった。フィリリアはよく分からないざわめきに不安を覚えて眉をひそめる。
「ローリー。一体何の騒ぎか知ってる?」
「ん? 騒ぎ……?」
フィリリアの問いにローリーが首を傾げた瞬間、ガレがフィリリアの隣の席に飛び込むように座った。
「聞いた? 今日、霧の中で問題が起きたらしいよ!」
にこにこと楽しそうに二人の前に首を突っ込んできたガレは、声を顰めることもなく二人の顔を交互に見やる。
「ううん。知らない」
「僕は知ってるよ。騒ぎって、それのこと? フィリー」
「……たぶん」
こんなにも食堂が浮ついているのはいつ以来か。
フィリリアは不気味に思って肩をすくめた。
「問題って何か知ってるの? ガレ」
「うん!」
しかし妙なざわめきの正体を知っている友が隣にいることは頼もしかった。
フィリリアはガレを崇めるように見る。
「霧の中が妙に騒がしくて、囚人たちの間で酷い喧嘩でも起きたのかって看守が見に行ったの」
ガレの話にフィリリアは驚く。
看守が中に入ることは滅多にない。喧嘩が起こったとしても命に係わる怪我をしない限りは看過しないからだ。ということは、今回はよほどの被害があったのだろうか。フィリリアはゾッと身を震わせる。
「喧嘩だったの?」
「ううん。それが今回は違ったんだって。見に行った看守曰く、囚人たちが異様な盛り上がりを見せていたらしいよ。まるでお祭りみたいに熱狂してたみたい。発狂して叫び出す人はいくらでもいるけど、そういうのとは違ったって。興奮状態で看守を煽ってくる奴もいたから暴動になる前に鎮静化させたそうだよ」
ガレはあっさりと言う。しかしフィリリアもローリーも、もちろんガレも分かっている。鎮静化させたということは、興奮の対抗薬を撒いたということ。
高揚感とは真逆の、死を思わせるほどの無気力感に襲われる薬だ。
「どうしてそんなに興奮してたのかな?」
ローリーは残りのスープを一気に飲み干してからガレに尋ねる。
「それが分からないの。ただ久しぶりに対抗薬を使ったってことは、看守たち相当頭にきてると思う。だからこの話をするときは、彼らのことを英雄として称えていかないとね」
「それは勿論でしょ。囚人たちが暴れ出したらとんでもない。看守たちに敵うわけがなくとも、煩わしいことに違いない」
「ねぇー」
ローリーとガレは鏡合わせで互いに首を傾げた。二人の表情は騒動を鎮めた看守に対する恩が浮かんでいる。フィリリアは近くにいる看守にちらりと視線を向けた。
彼が実際に中の興奮を鎮めたわけではない。けれど彼は、さも自分の手柄のように周りの守り人たちに自慢している。
もちろん彼らがしたことは正しい。強引にねじ伏せなければどうにもならない場合だってあるのだ。
これが正義。
フィリリアは空腹だったはずのお腹を抑え、もはや何も受け付けようとしない喉に空気を流した。
*
霧の中で騒動が起きてから数日後。
対抗薬の影響か囚人たちの中にも脱落者が増えた。
看守たちはその処理に追われ、険しい表情をする者ばかり。フィリリアたち守り人はぴりぴりとした空気の中どうにかいつも通り過ごそうと努力する。
何故、囚人たちが異様な空気に包まれていたのか真相は分からぬまま。
ガレも流石にそこまでは知らないと、食堂での情報以上のことは話さなかった。
恐らく本当に知らないのだ。
フィリリアはどこか悶々とした心を抱え、霧の壁の前でしゃがみ込む。
霧を創り出す繊細な一粒一粒の欠片を見つめ、フィリリアは垂れてきた髪の毛を耳にかけた。粒に触れようと人差し指を伸ばせば、彼らは指先から逃げるようにふわふわと後退する。渇いた指先の腹を自分に向け、フィリリアはその肌を親指で撫でた。やはりそこには何もない。
数秒考え込んだフィリリアの瞳孔が次第に開いていく。
早く作業に戻って仕事を終わらせなければ。
頭ではそう思っていても、指先に気を取られたフィリリアの足は動かなかった。
止まってしまったフィリリアの時間。そんな彼女を呼び戻したのは聞こえるはずのない人間の足音だった。
落ち葉を踏みしめる軽快な音。しかしどこか慎重で、ゆっくりゆっくりと近づいてくる。
フィリリアは気を取り戻して立ち上がる。守り人や看守が何かを話しにこちらに来たのだろうか。最初、フィリリアは霧の外側を見回した。けれど何かが動く気配はない。
やがてフィリリアの視線は霧の中へと向けられる。
ドクンと心臓が衝撃で波打つ。
静寂に響く足音と耳の近くで聞こえる鼓動が共鳴し、フィリリアは身体が揺れる錯覚に陥った。
初めて聞く音ではない。
何度もこの音を聞き、その度にじんわりと胸の中央から広がる温かな緊張に身を包まれた。
「──……ネーベル?」
微かな声が霧の中へ入る。すると足音はぴたりと止まり、少しの笑い声が聞こえてくる。サラサラとした肌触りの良い声色。
「もしかして、足音で分かっちゃうの?」
中低音の朗らかな声が返事をする。
フィリリアは久しぶりに耳にした声に驚きのあまり心臓が捻じれるようだった。
「久しぶりだね。その声は、フィリーでしょ?」
続く声も幻ではなかった。
フィリリアは胸の奥が微かにさざめいていくことに気づく。
「どうしてここに──……?」
自分がいるのは六時から七時の区域のはず。毎日通っているのだから区域を誤るはずがない。フィリリアは遠くに見える黒の大木を確認する。
「ほら。霧の中って特に区切るものもないだろ? だから、別に不可能ってわけじゃない」
「でも……こんなこと……あまりにも過酷です」
「そう? 俺は楽しかったよ。旅をするのと同じだ」
「──なぜ?」
驚愕するフィリリアは唇を震わせ声をこぼす。
霧の中、確かにそこには黒い影が見えてくる。前に見た時と変わらない。霧の中は彼らの姿形の変化を許さない。現れたのはネーベル。間違いなかった。
「知らなかった? なんでも看守たちが色めき立った囚人たちを返り討ちにしたって聞いたのに」
「──え?」
固まっているフィリリアに対し、ネーベルは対照的な明るい調子で話す。
「ここ、六時の区域、だっけ? 区域を超えた囚人はこれまでも前例がないからって言って、それを成し遂げた俺の快挙にみんな盛り上がったって話だ。まさか看守が来るなんて。あいつらには悪いことをしたな」
ネーベルの影が首を傾げる。
「快挙って……自分で言わないでください……」
フィリリアは困り果て、眉尻を下げて弱弱しい声を出す。するとネーベルは楽しそうに笑い出した。
「悪かった。看守には余計な手間をかけさせちゃったよな。フィリーたちにしてみれば迷惑な話だ。そこまで考えられなかった。これじゃ英雄失格だ」
「どうして英雄になるんですか……」
フィリリアの呆れた声にネーベルは得意げな声で答える。
「霧の中じゃ、俺は英雄だよ。区域越えを実現してみせたんだから。思ったよりも厳しかったけど。でも、フィリーと話せてるってことは間違いない証拠だろ?」
フィリリアの脳裏には先日見た看守の姿が浮かぶ。彼らも自らを英雄のように誇っていた。彼らの笑顔と、見たことのないネーベルの笑顔が重なる。
「ふふふ……」
無謀な想像に、フィリリアは少しばからしくなって控えめに笑う。
「きっと、大変だったことでしょうね」
笑い声に混ぜてフィリリアはネーベルにほんの少しの労いの言葉を贈る。
「ああ。大変だった。でも価値はあった。はははっ、この時ばかりは、空腹を感じないことを感謝したよ」
「ようやくですか?」
「鈍感で悪いな」
ネーベルの声も柔らかかった。フィリリアの笑い声が彼の懸念を吹き飛ばしたようだ。
「なぜそんなことをわざわざしたのかは分かりません。前例もありませんから、たぶん、凄いこと、なのでしょう──……でも、やはり騒動を起こしてしまうのは感心できないですね。どうしてこんなことを?」
一時的に思考が固まってしまったフィリリアの頭もだいぶ解れた。彼女は改めて理由を問う。
「言わないと駄目?」
「問題を起こしたのも確かです。言ってください。でないと、騒動の原因を報告してしまいますよ?」
「ははは。それはご免だなぁ。またあの薬を撒かれたらたまったもんじゃない。分かった。ちゃんと正直に話すよ」
「本当ですか? 嘘は分かってしまいますからね?」
「フィリーに嘘はつかないよ」
くすくすと笑うネーベル。フィリリアもつられて笑う。彼の笑い声に胸の奥がくすぐられているようだった。
降参したネーベルは肩をすくめる。
「正直に言うね。俺の個人の勝手。ただフィリーに会いたかっただけ」
「──え? わたしに……?」
フィリリアは彼の答えに瞬きをする。
「フィリーが代理を終えて、もとの彼が戻ってきたけど……やっぱり寂しくて。心に穴が開いたようだった。だからこっちに来た。ここに来れば、君に会える。君の声が聞こえた時、どんな苦労も忘れてしまったよ。今こうやって会話してることが奇跡みたいだ……──霧は見飽きたし、苦手だけど、フィリーが守る霧のヴェールは何よりも美しいね。この霧になら囚われてもいいと思える」
ネーベルの言葉が耳に降り注ぎ、フィリリアの肌は途端に赤くのぼせていく。
「ほ、褒め言葉は……」
「それ、逆効果だよ?」
まるでフィリリアが目の前にいるかの如く、ネーベルは彼女の顔を覗き込むように身体を傾ける。前にも同じようなやり取りがあったと思い出し、フィリリアは赤くなった頬を隠そうと咄嗟に彼から顔を逸らす。濃い白の中、流石に見えてはいないはず。それでも見られていそうで不甲斐なかったからだ。
「また会いに来てもいい?」
ネーベルは彼女が仕事中であることを思い出したのか、一歩後ろに下がる。
フィリリアは黙ったまま、地面に置いていたバケツを拾い上げた。
「はい。わたしはいつも、ここに来ますから」
冷静を保とうと素っ気無く返事した後、一歩歩いたフィリリアは身体を捻って彼の影の方を向く。
「わたしも、ネーベルに会いたかったです。ここは少し、静かすぎます」
彼の反応を聞くつもりもなかった。
フィリリアは熱が指先まで広がる前に残りの聖水を撒き、逃げるように彼から離れていった。
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