2 不思議な囚人



 翌日になってもローリーは良くならなかった。彼はダズワルド領域外にある病院に運ばれ、数日入院することとなった。館の救護室を出ていく彼の姿を見つめ、フィリリアは白に消えていく彼を見送る。

 ローリーの代理はやはりフィリリアが務めることになった。隣の区域だというのが一番の理由だが、看守長の考えはそれだけではない。

 フィリリアは守り人の中でも特に信頼されている存在だからだ。彼女は守り人に任命されてから一度も休んだことはなく、体調を崩すこともなかった。

 彼女のような勤勉な働き者は滅多にいない。フィリリアは看守長の期待に応えるままにローリーの代理を受け入れた。

 ガレには憐れまれたがフィリリアとしても満更ではなかった。

 七時の区域に行けばもしかしたらまた彼に会えるかもしれない。

 期待とは呼べない密かな胸騒ぎに、フィリリアは苦い唾をのみ込む。


「あ。また来てくれた」


 いつもより早いペースで仕事をこなし、フィリリアは七時の区域の終わりで手を止める。名を聞かれ、鬱積を避けたい彼女は感情のない声で答えた。彼は相変わらず飄々としている。得体の知れない罪人。ただ、彼の声が昨日よりも柔らかに聞こえたのは気のせいだろうか。


「ここの守り人、体調でも悪いの?」


 酸素が薄くなる直前の場所で、彼は折れた木の幹に腰をかけて頬杖をついていた。顔は見えない。それはお互い様だ。


「少し、風邪が長引いているのです。ダズワルドは寒い場所ですから」

「霧の外も寒いの? 確かに、この中は常に雪が降っているようだよ」

「それは、雪ではなく霧です」

「はははっ。雪の方が他の奴らと遊べるからよかったのに。ねぇ、フィリー。どうせ寒いならこれを雪にすること、考えてみてくれない?」


 ネーベルは霧を掴むふりをして悪戯な声で笑う。フィリリアは名前を教えたばかりの彼に愛称で呼ばれることに戸惑いながらも首を横に振る。


「いいえ。わたしにはそんな力はありません。それに、雪になればわたしたちも困ります。境界の外も、内側にかけた魔法の威力が及ぶのですから」

「そうなの? じゃあ、もしかしてそっちにも霧が?」

「はい。もちろん、そちらほど濃くはないですが……。だから、こちらに来てもきっと寒いですよ」

「それは残念なことを聞いた。知らない方がよかったかも?」

「何故ですか?」

「希望が失われちゃうじゃないか」


 フィリリアの問いにネーベルは立ち上がって答える。


「俺の故郷はここよりも遥か南にあるんだ。だから寒さには慣れていない。最初のうちは新鮮だったけど、もうなんの感動もないな」

「──感動?」


 収監されているというのに心を動かされるとは。この人はおかしなことを言う。フィリリアはバケツから聖水を掬いながら首を捻った。

 その動作がネーベルに見えていたのだろう。フィリリアが聖水を撒くと、彼の笑い声が微かに霧に混ざって届く。


「俺、世界を旅するのが夢だったんだ」

「夢……?」

「ああ。故郷も好きだが、もっと広い世界を見てみたくて。見たことのない景色を見れば、自然と心が揺さぶられるだろ? なにも変な話じゃない」


 先ほどの自分の疑問のことを言っているのだろうか。

 フィリリアはネーベルの見解に少し興味を持った。一歩進み、また聖水を撒く。


「夢は叶いそうですか?」


 囚人に訊くには残酷な質問。しかしネーベルは爽やかな声で笑う。


「もう叶ったよ。ここに来る前に。旅をして、たくさんの世界を見てきた」

「その終着点が、ここですか?」

「ははっ。意地悪なことを言うなぁ。まぁでも、そう言われてもしょうがないか」


 そう言いながらもネーベルの声は楽しそうだ。フィリリアは境界線の端まで聖水を撒き、空になったバケツを抱える。


「そんなにたくさんの世界を見てきて、夢を叶えて。それなのに、あなたは罪を犯したのですね。わたしには分かりません。世界を知るあなたがダズワルド監獄のことを知らないはずがないのに。もしかして、甘く見てました?」


 フィリリアの声は厳格だった。罪人を責める眼差しで、彼女は霧の中で揺れる彼をじっと睨みつける。


「甘く見ていたわけではないけどさ。思ったよりも、堪えるけど」

「当たり前です。罪を犯した人間には、やはり償ってもらわなければ。そうじゃないと、罪で生じた痛みを知ることはありませんから」

「正論だな」


 ネーベルは両手を上げてお手上げの仕草をとる。どこか諦めたような彼の声。少し責めすぎただろうか。彼は十分反省しているかもしれないのに。フィリリアは彼に対する罪悪感に胸がチクリと痛んだ。


「──でも、もし、寒すぎるということであれば……看守長に相談しましょうか?」


 フィリリアの精一杯の償いの言葉だった。囚人の彼に対し、できることなどこれくらいしかない。しかしネーベルは首を横に振る。


「いや。別に寒さや霧なんてどうでもいいんだ」

「──なら、何が堪えるのですか?」


 一寸先も見えない霧靄に身も心も崩壊していく人間の方が多い。それをどうでもいいと言い切るとは、フィリリアには想像もつかなかった。だから答えを知りたいと思ったのは必然だ。彼の考えに更なる好奇心が湧いてくる。


「希望がないことだよ」


 ネーベルは言葉に詰まることもなく答える。


「だから、霧の外にも霧があるって聞いて、本当に希望が奪われちゃった気分だ。君はやっぱり監獄を守る人間だね。的確に囚人の心を懲らしめる」


 特に怒ったような声ではない。むしろ凪のように静かで達観したその声色に、フィリリアはぐっと唇を噛み締める。


「もう仕事は終わったんだよね。引き留めちゃってごめん」


 次の瞬間には、ネーベルはあっけらかんとした様子で陽気に笑う。


「いえ……どうせ、戻っても寝るだけですから」

「ご飯も食べるでしょ?」

「そうですが……」

「じゃあ早く戻らなきゃ。こっちだと、食べ物がどこにあるのかも見つけられなくて、見つけた時には喧嘩になりかねない。フィリーも、食事の時間は大事にしなくちゃだめだよ」

「──わたしたちは、そんな喧嘩なんてしません」


 まさか囚人に助言をされるとは思ってもみなかった。拍子抜けしたフィリリアの肩の力が抜ける。

 彼と話していると調子が狂う。彼の言う通り早く戻るべきだ。そう考えたフィリリアは踵を返してため息を吐く。


「フィリー。最後に訊いてもいい?」

「なんでしょうか」


 不意に呼び止められ、フィリリアは呆れつつも振り返る。


「君の夢って何? 俺、守り人の知り合いはいないんだ。だから、君たちのような人がどんな夢を描くのか興味がある」

「そんなの聞いて楽しいですか?」

「ああ。もちろん楽しいに決まってる。人の夢は、その人を彩るんだから」


 ネーベルの足が一歩前に動く。これ以上近づいたら呼吸が危うい。その足を止めようと、フィリリアは少し大きめの声を出す。


「森を見ること──……!」

「──森? でも、ここ、森の中だけど」


 フィリリアの夢にネーベルはぽかんとした反応をした。恥ずかしくなったフィリリアは頬を赤らめて補足する。


「霧のない世界を見てみたいの。霧のない森を。きっと、いつも見ている景色とは違うはずだから」


 だんだん小さくなっていく声。言い終わる頃、フィリリアの顔は耳まで真っ赤になっていた。人に夢を語ったことなどない。どうせ馬鹿にされてしまう。言わなければよかった。彼女の脳裏には即座に反省の言葉が滲む。

 しかしネーベルは笑うこともからかうこともなく、感心したような声で頷く。


「へぇ! すごくいい夢じゃないか!」

「──そう思う?」


 フィリリアは半信半疑で顔を上げる。彼が本心でそう言っていると信じたい気持ちと、どうせ心では馬鹿にしていると思う気持ち。二つがせめぎ合い、表情にはまだ自信がない。


「ああ。この森も美しいが、少し、安らぎが足りないからな。仕事熱心な君にはそんな光景が必要だ」

「……そう、でしょうか」


 ネーベルの屈託のない言葉にフィリリアは上手く声を返せなかった。ネーベルは一歩後退し、彼女に見えるように大袈裟に手を振る。


「じゃあね、フィリー。また明日」


 もう明日の話をするネーベル。フィリリアが来ることはお見通しのようだ。

 そのことが少しだけ悔しくて、彼女は手も振り返さずに無言でその場を後にした。


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