第3話 「 ヨーガ 」

 今回は駅前でヨガ教室を開いているMさん(六十七歳)。まず私の気を引いたのは、彼女のその矍鑠(かくしゃく)とした容姿。それから五十代前半と言われてもあまり違和感がないほどの肌の瑞々しさと、柔らかいながらも凛とした光を放つ目。そして何より、ちょっと他では聞けないほど味わいのある、彼女のハスキーボイスだ。

「商売柄かしら、私はその手の話には一切興味がないんだけど、この件については別なの。第一、私自身の身に起きたことだし、出来事としてはまさにオカルティックそのものなんだけど、その、何て云うか、或る種の奥ゆかしさすら感じるの」

 そう言ってMさんは、美味しそうに自分で入れた紅茶を口に含んだ。

「私ぐらいの年になるとね、人生はもう引き算で考えるの。余計な事を考えている暇はないし、大体堪(こら)えるってことができなくなる。表面上は穏やかな振りしてるけど、内面ではヤキモキしっ放し。まるでガールフレンドとのデート途中の、十代の男の子みたいにね」

 私はその例えに頷き、一方でMさんの若かりし頃をしばし想像してみる。

「御免なさい、話が横道に逸れちゃった。結局当の本人は戻ってきて、それから二ヶ月は普通に私の教室に通ってたから、まあ特に事件ってわけでもないんだけど。でも、彼女時々私に言ったわ。『自分が今、ここに居ることに急に自信を持てなくなるんです』って。そして『先生に分かりますか』って顔で私の方を見るのよ。やっぱり藍札に憑かれた人ってそうなるんだなって思ったわね」

 話をまとめるとこうだ。Mさんの教室に五年ほど前から通っていたKさんと云う三十代後半の女性がいた。元々専業主婦で、普段の運動不足解消の為にヨガを始めたらしいが、或る時期からどうも様子がおかしくなった。それとなくMさんが理由(わけ)を訊いてみると、どうやら夫との離婚話が持ち上がっているとのこと。その詳細を聞くうちに今度はMさんの方がそのあまりの理不尽さに腹が立ってきた。つまりKさんの夫は職場で知り合った女性と浮気の末、なんと子どもまで拵えてしまった。そしてあろうことか、「責任を取る」と称して浮気相手と結婚の約束まで交わしてしまったのだ。

「そんな男、こっちからくれてやりなさい。その代わり慰謝料たんまり踏んだくって」

 MさんはそうKさんを激励したらしいが、彼女から返ってきた言葉に思わず椅子からずり落ちそうになった。「それでは、生まれてくる子どもが大変でしょうから」

 Mさんはその浮世離れしたお人好しさにしばらくは開いた口が閉じなかったが、そのうちKさん自身が教室に顔を出さなくなった。そしてMさんが心配になって彼女の携帯に電話してみると思わぬことが判明した。

 電話に出たのは例の夫だった。

「なんとも乾いた声で喋る男でね」

Mさんがそう言うと、私には本当に無機質な心しか持たない、乾いた人間が心に浮んだ。その夫はMさんに「妻(!)は姿を消した」と言った。Mさんが問い質すと、どうやら一週間程前に夫が仕事から帰宅するとすでに家はモヌケの殻だった。そして玄関横の靴箱の上には青い見慣れぬ紙片が残されていたと云う。Mさんは夫にその後の対応を一応訊いてみた。「警察には?」と。しかし夫は妻が失踪してからの一週間、警察どころかほとんど何の捜索もしていなかった。それどころかMさんに「多分、ただの家出ですよ」、そうのたもうたのだ。

「呆れちゃってね。男女と云うか、夫婦の仲ってここまでダメになるのかって思ったわよ」

 Mさんは自分にできることは全てやろうと即決した。そして教室生に手当たり次第電話を架け、Kさんについて知ってることは無いかと問い質した。すると或る一人がこう言った。「Kさん、最近とても楽しそうでした」と。その彼女が言うにはKさんは失踪する少し前、よく駅前で姿を見掛けたと云う。いつも何か買い物袋を提げ、そして一人でとても楽しそうだった。そしてそんなKさんに結局声を掛けることはしなかったと云う。離婚話のことはなんとなく知っていたし、目の前のKさんの姿は、何か明るいながらも異様なものを漂わせていたから。

「同じ頃、私は占い師の友人から藍札の噂を聞いていたの」

 その噂とは、藍札に魅入られた人間は遅かれ早かれ現(うつつ)の社会から消えていなくなると云うもの。

「藍札って何ですか?巷で云う『青いチケット』のことでしょうか?」

 私はMさんに質問した。Mさんの答えは「分からない」だった。「要点はね、Kさんがすっかり心を閉ざしてしまったってこと。おそらく夫とのことがきっかけでしょうけど、彼女は何か自分を別のものに移し替えてしまったのよ」

「別のもの?」

「私たちは生まれてから死ぬまで、この肉体と云う入れ物の中で暮らしている。そのせいでできることもあれば、逆に叶わないことも出てくる。良いか悪いかは別としてね。そしてやがては老いさらばえて、誰一人例外なく死ぬことになる」そしてMさんは傍らから煙草を取り出し吸い始める。私は敢えて何も言わない。「彼女はそれを止めてしまった気がするの。色んな痛みから自分を守るためにね」

 そんなKさんがまた突然姿を現したのは失踪から三月(みつき)以上が経った頃だった。彼女は教室の入り口に立ったまま、入るのを躊躇している様子だったと云う。MさんはそんなKさんを迷いなく中に引き入れた。そして小一時間、これまでの経緯(いきさつ)を尋ねた。しかしKさんの口からは「もう夫は出て行きました」と云う言葉のみ。あとは当たり障りのない世間話に終始したと云う。

「でもね、それでも私は嬉しかったの。彼女が帰ってきてくれたことに」Mさんは彼女にまた教室に通うようにと言った。しかしKさんは初め首を縦には振らなかった。彼女は教室を辞める気で来ていたのだ。それでもMさんはKさんを説得し続けた。最後はもう半分脅すように「お金は要らない。だから週一で必ず顔を見せなさい」とKさんに厳命、それを了承させた。

 私はMさんのその懐の広さに感動しながらも、一方で若干の拍子抜けを感じていた。これは「青いチケット」の一連の噂話とはちょっと違うのではないか、そう思ったからだ。言い方は悪いが、一人の主婦が夫に裏切られ傷心の余り一時(いっとき)姿を消した、と云う世間にありがちな話ではないのかと。その私の心証をおそらく敏感に感じ取ったのだろう、Mさんは私にこう言った。

「まあ、単純な話なんだけどね。一つ薄気味悪いのはそのKさんのダンナ、彼女が教室に顔を出す十日程前に自動車事故で死んじゃってたの。そしてその葬儀にはKさん自身ちゃんと出席してたってわけ」

「?」

 私が今一つ事情を呑み込めないでいると、Mさんはまた一本、新しい煙草を小箱の中から取り出した。

「それにね。警察関係の知人の情報(はなし)では、どうやらKさんもその車に乗っていたらしいの。時刻は真昼間。海沿いの国道を走っていた車はカーブを曲がり損ねて大破。彼女だけが無傷で助かった」

 Mさんは煙草に火を付け、そして肺の奥まで煙を吸い込む。私はその様子をただ黙って見つめていた。

「まあ…、いろんな意味で怖いわよね」

 Mさんは誰に言うでもなく、その渋い声で呟いた。青い煙がヨガ教室内にぼんやりと漂って、やがて紛れていった。

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