第2話 蜂蜜入り小豆粥

 彼女が風呂から上がりドライヤーを使い終わって脱衣場から出ると、廊下の端からこの家の主はひょいと顔を出した。小鉢と匙と湯呑を載せた小さな盆を持って、軋む細い階段の上へ案内した。そこには小さな和室があり、真新しいカバーのかかった布団が敷かれていた。

 濡れた衣類の入ったビニールを抱え、ずり落ちないようにスウェットとパンツを押さえつつ彼女は彼を睨み上げた。その蔑みの眼差しに、やっと彼ははっとした。デリカシーというものを思い出したようだ。慌てて小さな文机ふづくえに盆を置いて弁解を始める。



「ごめんなさい、他意はないんです。 お時間があるなら、薬が効くまで休んでもらおうと思って……一階は僕の居住スペースですごく散らかってるので、使ってないこの部屋ならお客さんをお通ししても大丈夫だと思ったんです」


 自分より頭一つ背の高い大男をじろじろと無遠慮に見つめて信頼に足るか値踏みした後、彼女はぽつりと言った。


「……あんた、変な人だね」

「変かもしれないけど、犯罪には手を染めない自信があります。どうぞご安心を」


 彼が生真面目に答えると、彼女は苦笑いを浮かべた。厭味ったらしい笑い方ではなく、体が温まって気持ちがほぐれたのか、表情も柔らかくなっていた。


「ありがとう、お言葉に甘えるよ」


 さっそく布団に足を滑り込ませ横になろうとする彼女に、彼は盆を差し出す。


「あ、寝ちゃう前にこれどうぞ」

「何これ」

「小豆粥です。こっちはあったかい麦茶」


 茶碗に入った薄い蘇芳色の粥に、彼女は幾分難しい顔をした。


「悪いけど、ものを食べる体調じゃないよ」

「あ、もしかして食物アレルギーとかですか」

「アレルギーはないけど、まだ気分悪くて吐き気がするから」

「吐いても大丈夫です。騙されたと思って召し上がってください。生理痛って空腹時に吐き気が悪化するって言いますし」

「何で知ってんの」

「ははは、気持ち悪いですよね」

「まあね」

「妻が生理痛持ちで、いろいろ教え込まれたんで……小豆も、体を温める作用があるからすごくいいそうですよ」

「奥さん?」

「一昨年、離婚しましたけどね。おかげでちょっと人間不信です」


 そう言うと彼は寂しげに、畳のへりに視線を落とした。


「人間不信なら、何で私を助けたわけ?」

「目の前に困ってる人がいたら普通助けるでしょう?」

「え、助けるのが普通だと思ってるって、いい人じゃん」

「っていうかですね、……店の前で倒れられたりなんかしたら困りますしね。情けは人の為ならずだと思ってください」


 この男はいたって穏やかに自分が善人だということをやんわり否定した。

 彼女は考え込むように目を細め、竹の匙を手に取って小豆粥を口へ運んだ。


「あれ? 甘い?」

「蜂蜜が少し入ってます。日本ではお粥は塩気で食べますけど、中国では甘いお粥は一般的なんですよ」

「へえ……結構いけるかも」

「冷凍ご飯とレトルトのゆで小豆で急いで作ったんですけど、米と豆から炊いて作るともっとおいしいですよ」


 薄甘い、とろっとした米粒と柔らかく煮えた小豆。

 粥をほんの少し田舎汁粉に近づけたような味わいだ。

 蜂蜜はあっさりした風味のものが使われていて、小豆の香りを殺さずに互いのくせを消している。急ごしらえとは思えない、するすると入る口当たりの優しさだった。

 空になった器を受け取って、彼は尋ねた。



「あの、つかぬことを伺いますが、さっきタクシー呼ぼうとしてたでしょう? どこかに行く途中だったんじゃないですか?」

「ああ、医療センターんとこの駅前のホテル取ってたんだよね」

「……お仕事でこっちにいらしたんですか?」

「仕事っていうか、……転勤でこっちに来ることになったから、職員寮の下見に来たんだよ。そしたらさあ、ほんと最悪。職員寮、新しくて綺麗だって聞いてきたのにさ、なんか役職付きのご家庭で埋まってんの。だから移転前の旧職員寮を使えってんで見に行ったら、もうね、前に立っただけでくっせーの。ゴミ捨てのルール守ってない奴がゴミ山積みにしててさ。どっかの部屋で犬とか猫とか鳴いてたし、こんなとこに住めるかって入居断ったんだけど」

「動物、嫌いですか?」

「嫌いじゃないよ。問題はそこじゃなくて、ペット禁止なのに動物飼うやつとかゴミ捨てルール守れないやつとかと同じとこに住むなんてマジで無理って話」

「はあ」

「んで、駅に行く途中で雨に降られて体調崩したんだよ。やっぱ足腰冷やすと一気に来るね」


 薬が効いてきたのか、まだ幾分血色の戻り切らない顔をしつつ彼女は饒舌だった。本調子でなくてもこれだけ喋るのだから、本当はよく喋る性質たちなのだろう。

 明日まで有休をとっているため、ネットで物件を探しつつ、この辺りの不動産屋を回ってみるつもりだという彼女に、彼は何気なく尋ねた。


「お仕事は、何をなさっているんですか」

「医者」


 おそらく水商売であろうというステレオタイプそのものの予想を裏切られ、彼は思わず聞き返した。


「はい?」

「来月一日付で、あの医療センターに赴任することになってる上部消化器外科医」



 彼の驚いている顔に彼女はにやっとした。



「何? 意外?」

「お医者さんって、もっと地味な感じだと思ってました……髪の色とか」

「よく言われるよ。この色、似合わない?」

「いえ、ものすごく似合ってます」 


彼女は顔にかかった灰色の髪を無造作にかき上げた。


「これねえ、白髪ぼかし。この色で濃淡入れて染めると白髪が目立たなくなるんだってさ」


 子どもの頃から若白髪で悩んでいて、今、半分以上白髪なんだと彼女は髪をざくっとかき上げた。

 普通に暗い色に染めると、何度も染め直さないと伸びてきた白髪の根元がくっきりと判別できる。何人も患者を担当していると忙しくてしょっちゅう染め足せない、だったらいっそアッシュカラーで濃淡のあるメッシュ風に白髪をぼかし、増えるに任せて最終的には自前のシルバーヘアにしてしまいたいという考えだ。巷でも流行っているという。


「僕はかっこいいと思いますよ、その色」

「でしょ? でも、派手すぎる、水商売じゃないんだぞって言われて、病院の院長と喧嘩になったんだよね。で、医局に苦情ねじ込まれて田舎の一点豪華主義の医療施設に飛ばされたってわけ」


 やはり彼女の上司や同僚もこの髪色と職業にそぐわなさを感じたと聞き、彼はさもありなんと思った。一方で、事情を知ると気の毒でもある。

 医者だって外見のコンプレックスはある。それをカバーするようなおしゃれもしたくて当然だ。医者は聖職者であり、がちがちにストイックな格好をしているべきだという先入観が自分にもあった。それが彼にとっては一つの発見だった。

 ともあれ、女性のいる部屋に長居は無用だ。彼は空の器ののった盆を引き寄せ、立ち上がった。


「僕は下で明日の仕込みとかやってますんで、体調が戻ったら下りてきてください。車でホテルまで送っていきましょう」

「迷惑かけてごめん」

「トイレ使うときは店の方じゃなくて、階段下りた突き当りのを使ってくださいね」

「ありがとう」


 彼は盆を手にのそっと出て行った。後ろ手に襖が閉まる。彼女は階段を下りていく足音を聞きながら、灯りのスイッチ紐に括りつけられた菓子折のリボンを引っ張って豆球だけ残し、目をつぶった。

 鎮痛剤はだいぶ効いてきていた。波があった痛みは時々揺り戻しのようにやってくるが、それも引き潮のように治まってくる。少しずつ強張っていた体がほぐれてくる。

  痛みが引くと、決まって眠くなる。それほどに痛みは心身を酷く疲れさせる。

 見ず知らずの男の部屋で寝ることにまだ引っかかるものはあった。 しかし、目をつぶってあれこれ考えているうちに、ふと、あの店主の顔と立ち居振る舞いに既視感があることに気づいた。

温和おとなしそうで親切で、かと言って要所要所ですっと引くような態度を取り、距離を必要以上縮めない。馴れ馴れしすぎず、自分なりの規範がありそれに沿ってくっきりと線引きするような物腰。

 それは懐かしい、親しみを覚える何かによく似ていた。そのことに気が付くと、不思議なくらいざわざわする気持ちが落ち着いていく。


――そうだ、クローカだ……アホみたいにでかかったな

――いつも大人しいだけで何考えてるかわからなかったけど、私が熱出して寝込んだりすると、ジャーキー分けてくれたな。食わなかったけど。


 子どもの頃飼っていた大きな黒い雑種犬のことを思い出しながら、彼女はすっかり寝入ってしまった。



 雀の声に目が覚めた。

 昨日は見る余裕のなかった部屋を眺めまわす。

 よく片付いた小さな和室。

 日陰の灰色と、明るい日向ひなたの色が半々に染めわけられた障子。

 古い婦人雑誌や料理の本が並ぶ本棚と、可愛くない陶器の人形が置かれた文机。昭和の香り漂うソーイングバスケットを載せたけやき時代箪笥じだいたんす

 畳も布団もわりに新しいようで、古い家に特有のかび臭さはほとんどない。

 彼女はおもむろに起き上がってシーツを確認し、スウェットのズボンを下ろして確認して安堵した。


――汚してない。



 昨日着ていた下着や服が入ったビニール袋も手元のボディバッグにも異常はなさそうだ。財布やカード類にも怪しむべき点はない。それだけわかれば充分だった。

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