第9話  英雄は取引に乗った


「どうだね、英雄。取引をしよう」

 そう言ったのだ、魔王は。未来を視るという額の眼だけを見開き、次に過去を視る右眼だけを開き。最後に現在を視る、左眼を開いて。


 英雄は、偽英雄は答えられずにいた。先程は剣の切先を地につけ、どうにか両の脚で立っていたが。今はもう、地に突き立てた剣を杖と寄りかかり、地に膝をついていた。腹から流れ落ちる血は今や、傷口を押さえる手も古ぼけた手袋も、脚も地面をも赤く染めていた。


 風斬りは変わらず叫んでいた。いや、その声が今は濁っていた。自らの首を自らの手で絞めていた、その少年は。

 何やってる、早くあいつを止めてくれ。死んじまうぞ――呪腕にそう言おうとして。つい今しがた彼女が、破裂して死んだことを思い出した。


「取り引きをしよう、英雄。汝にはもう、それしかあるまい。乗るならば、あるいは死なずに済むぞ。汝も、そこの二人もな」


 何を言ってる。力無い体のまま、額に脂汗が垂れ続けるのを感じながら――ただし体はひどく冷えている、腹の傷は今も血を滴らせ、その傷から下にはもう感覚がない――、偽英雄はそう思った。


 それでも、魔王は言う。

「風の噂にも知らぬか、余の力。過去と現在、未来を見通し。さらには過去にすら干渉し、未来を変える。……それをやろうというのだ。汝と、その二人と、余のために」

 ゆっくりと歩き回りながら魔王は言う。

「視えたのだよ、余の眼には。未来が――いつもそれが映る、というわけではないがな――。百一年先のこの場所が。汝が死した後、地に突き立った剣は神気を放ち続け、魔物はおろか人間すらも触れることかなわず。そうしてどこからか現れた者が、その剣を抜き、余を討つ」

 魔王は足を止め、偽英雄の眼をのぞき込んだ。三つのその眼で。

「選ぶがよい、英雄よ。この場で死して、百一年先に余が討たれるのを待つか。それとも余と共に過去を変え、その聖剣をそもそも持たぬか」


 魔王は薄く、優しく微笑む。

「過去を変え、聖剣を持っておらなんだとすれば。汝らが魔王を討つ手段はない、故にこの場に来ることもない。……仲間が死に、あるいは壊れ、汝自身も死んでゆくという、この現在を変えられるのだ。無論、百一年先に英雄の剣を抜く者もない。この場に聖剣など無い、そう変わるのだから」

 ず、と魔王は身を寄せる。

「さ、どうする英雄よ? 百一年先の仇討ちにするか? 自身も、仲間も、そして余も、皆生きてゆくこととするか? さあ、英雄よ――」

 そこで魔王は眼を閉じ、過去を視る右眼だけを開けた。笑う。

「……いや。偽英雄か。英雄殺しの悪党か」




 ――さてもさても……よ。だから、俺は過去に来たのさ。腹の傷だけ魔王の魔力で塞いでもらって、こんな武器屋まがいの場所までしつらえてもらってな。売り物? 何、そこらに転がってた。魔王の手下が集めてくれたよ。持ち主のもういない、中古の武器を。あいつらの杖と野太刀と同様に。

 まあ、面白い体験ではあったよ。魔王は過去を視る力で、俺にも見せてくれた。あの二人の過去。武器に、あるいはそこに散った血に、染みついたあいつらの思いを。


 ……あるんだなあ、あいつらには心が。あんな奴らでも熱い心がよ。俺には、無い。

 いや、無ければよかったんだ。そんなもの無ければ良かった、そうすればあの時、英雄を殺そうなんて思わなかった。俺と違って、全て与えられたあの人を。真の英雄を。


 無ければよかった、無ければよかった、心など。無かったならこんなにも、その後も……苦しむことなどなかったのに。


 だから俺は、心の無い仲間を探した。俺より糞みてぇな事をしでかして、そのくせ平気な顔でいる、糞みてぇな奴らを。そんな奴がいたなら俺も、同じ顔をしていられる。そうでなくても、そいつらよりマシだと思える。

 ……そうじゃなかった。心があったよ、あいつらには。俺のような糞と違って。……あいつらには、生きていて欲しいんだ。


 ――さてさてお客様……偽英雄。そういう訳だ、お前はその剣、捨ててくれ。腰のじゃなくて、聖剣の方をな。

 お前がそれを奪う前の、もっと過去に戻れりゃよかったんだが。そしたら真の英雄が生きてる、魔王にとっちゃ都合が悪いか。うまくやりやがる。


 さ、捨てろ、それを。自分を殺すその剣を。忘れろ、全部。英雄も魔王も。

 忘れろ、滅ぼされた故郷の仇討ちも。

 忘れろ、焼け跡からかき集めた金、魔王を殺す旅の資金。先輩づらした冒険者どもに、騙され、かっさらわれたことも。

 忘れろ、どんなにどんなに剣を振るっても、強くなれなかったことも。旅の途中、魔物に襲われた村、救おうとして到底かなわず。逃げ帰ったことも、反吐を吐きながら泣いたことも。そんな自分を助けてくれた、真の英雄の……優しかったことも。

 忘れろ、全部。さもなきゃ死ぬぜ。お前も、まだ見ぬ二人の仲間も。英雄を殺したその日から、奇しくも十年ぴったり後。それが、俺たちが魔王へ挑んだ日。つまり、お前の命日だ。


 嫌か? 何だ、包みを解いて……抜いたか、その聖剣。抜いたところで、俺は魔物でもねえしな。

 しかし、不思議なもんだな。俺やお前――要するに俺――、英雄の血なんて引かない者が、その剣を持てるんだからな。あるいはあの人を殺したときに、その血を浴びたからなのか。体が腕が、服も手袋も、ずぶずぶに濡れるほど。


 言っておくが、妙な気は起こすなよ。少々この先の情報を得たからって、魔王に勝てる目がどこにあるよ。

 もう一つ言っておくが、ここにある聖剣を盗もうなんて思うなよ。仮にも俺は、お前より十年生き延びた。仲間と聖剣があるとはいえ、来る日も来る日も魔物どもと戦いながらな。一呼吸のうちにてめえを真っ二つに――すると俺も死ぬが。足腰立たねえほどぶちのめしてやってもいいんだぜ。

 ……さ、どうする。選べよ、偽英雄。剣を捨てず、十年後に死ぬか。剣を捨てて自由に生きるか。

 言っとくが、どっちを選べどお前は偽者。英雄を刺した偽英雄か、聖剣を捨てた偽英雄か。

 さ、どっちだ。


 ……何? 「てめえは忘れられるのか」、だと? 

「忘れられるのか、家族を殺され、故郷を焼かれた日のことを」

「来る日も来る日も剣を振るい、それでも強くはなれず。それでも、剣を振るったことを」

「……それでも、強くはなれなかったことを」

「俺に無い、全てを持った英雄のことを。憧れずにはいられなかった。けれどまぶし過ぎた、近くで見てはいられなかった――だからきっと、刺した」

「それでも、俺は。英雄になりたかった。偽者でも構わない、英雄になりたかった」

「忘れたのか、それを」――


 ……忘れろ、と言ってるんだ。さもなきゃ死ぬ、と。刺し殺した英雄ばかりか、仲間までも巻き添えにな。

 そしてこっちは忘れるな。てめえは英雄を刺した。てめえなどより遥かに、生きるべきだったあの人をな。お前は、俺は……殺した。

 たとえ仮にだ、お前が魔王を殺せたとしたって。その事実は変わらない。英雄殺しの偽英雄、とんだ糞野郎だってことはな。……なあ? だったらもう捨てたらどうだ、そんな剣? 

 大体だ、分かるだろ? 魔王を殺す唯一の武器とはいえ、だ。それを持ってたところで勝てるかどうか。


 ……分かるだろ? 俺が今まで散々言って、勝ちの目なんぞがどこにあるか。いったいどこにそんなものがあるか。

 魔王を倒せる聖剣は一振りのみ。それを振るえるのは、英雄の血を持つ者だけ――だから魔王を殺せる者は、救世の手柄を得る者は一人。だから、魔王を殺そうとする仲間は集まらない。それで英雄は消耗し切って、だから、魔王は殺せない。

 忘れるな。忘れるなよこの理屈。その上でようく考え――って、おい! 

待てよ、逃げるな、俺の話を――





 ……。行っちまったか。まあ、あれだけ言っときゃ嫌でも分かるだろ。

 なあ、魔王。聞いてたか、あれで良かったか。思いつく限りの話はしておいたぜ。

 まあ、ぶちのめしてやる、ってのはハッタリだが。言ってたな、『過去の者を傷つけたり、物を与えたり奪ったり』『物理的な、直接の干渉は不可能』『言葉を以てそそのかすのみ』だって。


 なあ、俺はちゃんとできてたよな? なら、いいよな、な? もう元の時間に戻して、俺を――俺と仲間を、見逃してくれよ。

 いや、そうか。あいつがあの後、聖剣を手放したなら。そもそも俺たちはお前に挑んでないのか。見逃すも何も、俺たちはあそこにいないのか。魔王なんぞと、戦ってないのか。

 そして別々に生きて、あるいは出会うこともないか――俺はどうしてるか知らないが。呪腕はやっぱり、父親を殺して。それからどうするんだろう。風斬りは千人斬って……それからどうなる。放っておくかな? 国なり、斬られた者の遺族なりが、果たして奴を。

 ……まあ、まあ、いいさ、なるようになるさ。さ、いい加減戻してくれよ。


 ――おお、景色が歪んできた。武器屋の床も棚も天井も、あるいは空間ごと、歪んでく。

 この棚の武具はどうなるんだ? 元の時代から持ってきたやつだろ? ああ、その辺に、お前のいる辺りに散らばるって? ただ、聖剣と、予備に持ってた俺の剣。あいつらの太刀と杖は――あの場にはなくなる。そもそも俺らがあの場にいないことになる、か。


 さてもさても、と。

 なあ、魔王。ありがとう、本当にありがとう。わざわざ過去を変えて、俺らを生かしてくれて。そして、これだけは言わせてくれ。


 賭けてもいいぜ、てめえは死ぬ。百一年後でも何でもない、現在その場で直ちに、だ――。


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