第22話 逃亡の記憶

 あの追放の朝。花月を乗せた小船は、冷たい朝の海へと静かに漕ぎだした。慈英配下の体格のいい女は、無言で櫂を漕ぎ、沖合を進む。花月には、船がどこへ向かっているのか、全く知らされていなかった。花月は後ろ手に縛られたままなので、身動きが取れない。花月は平然とした顔をしながら、内心ひどく焦って考える。


(とにかく、まずはこの縄を解いてもらわねば。島に着いた時ならば、どうにか縄を解いてもらうことが出来るかもしれない。この女も、私一人になど、警戒もしないはず。そこを、後ろからナイフで襲い掛かれば、船を奪うことくらい……)


 花月は、風と波音しかしない静けさの中、背後で、無言で櫂を漕いでいる女に向けて言った。


「ねえ、あなた……名前は知らないけれど、私を島に残して去るのならば、その時にせめてこの手首の縄は切ってくれるかしら。私は一人で残されるのだもの、これでは、何も……」


 と訴えた瞬間。空気が動いた気配と、ざくり、という音が静けさの中に響く。気づけば、花月の両手は自由になっていた。花月は、両手を体の前に持ってきて動かす。驚いて後ろを振り向き、女に声を掛けた。


「あなた……」


 慈英の配下の女は、腰に剣を戻し、櫂を再び手にしながら、花月に言った。


「……ご安心を、女王陛下。私は、あなたを孤島に置き去りになどするつもりはございません」


 花月が驚いてその顔を見つめていると、彼女は軽く会釈をして言った。


「僭越ながら、自己紹介を。私の名は、れん。私の父は、瑞の貧しい百姓でした。けれど、私が幼い頃、半島を襲った大嵐で、畑を失ってしまったのです。貯えもなく、飢えて死にかけていた私達親子を救って下さったのは……他でもない、あなたの父上、慈円国王なのです」


「父上が?」


「はい。あの時の大嵐では、多数の百姓が家を追われ、死にかけていました。敬愛する国王陛下は、そんな百姓に、王家が所有する土地を惜しげもなく開放して下さったのです。私達はその土地に無償で住み、得た収穫をお金に変え、どうにか生き延びることが出来ました」


「では、あなたの父上は、まだ瑞に……」


 彼女は首を振った。


「いいえ。そのおかげで少ないながらも財を得た父は、自分のように困窮している民を集めて、見世物小屋を始めました。瑞にはそういう娯楽が少なかったものですから、父の興行はあっという間に大繁盛です。今では、各国を回って公演を行う楽団を持っていて、生活はかなり豊かです。けれど、父は、どんな時でも必ず言うのです、『慈円国王陛下に、どうにかして恩返しをしないと死んでも死にきれない』と」


 花月が黙って聞いていると、彼女は花月を見つめて言った。


「女王陛下。私はあなたを、父の元へ密かにお届けします。父の楽団を隠れ蓑にすれば、あなたはどこへでも逃げ延びることが出来る。瑞へ密かにお戻りになることだって、きっと」


「けれど、あなたは?! あの兄のことよ、あなたの身に危険が」


「大丈夫。私はそのまま、瑞へは戻りません。今は、暁の田舎に母と弟妹達が暮らしていますから、そこへ向かう予定です。私と小舟が戻らなくても、海流に巻き込まれて死んだとでも思われるのがオチでしょう。慈英王子は、私のことを露ほども疑ってはおりませんから。……念願叶って瑞の護衛府に所属していた私が、なんの巡り合わせかあの方の傍仕えになったのも、慈円国王の御導きなのかもしれません」


「蓮……」


「船はこのまま北上して、焔の王都に向かいます。そこで父と落ち合う予定になっていますから。海流はお任せ下さい、数日前に慈英王子と通った道です」


 そして花月は、彼女の水先案内で、焔の王都で楽団の座長に密かに引き合わされたのである。


「……それで私は、今ここに居るの。彼女達の助けが無かったら、私は今頃、海の孤島で死んでいたでしょうね。感謝してもしきれないわ。国が落ち着いたら、彼女の元へ礼を言いにいくつもりよ」


 花月の話を興味津々に聞いていた鬼羅は、鷹揚に足を組んで頷いた。


「なるほど、慈円国王を慕う協力者がいたわけか。それでやっと合点がいった。しかし、花月も悪運が強い女だな。慈英は、まさか妹が生きて、しかもこの暁の援軍を引き連れて戻るなど、考えてもいないと思うぞ」


 花月は苦笑する。


「それは本当に、貴方にも感謝しかないわ、鬼羅」


 夕暮れの冷たい風が吹き込む。花月は何気なく立って、窓を半分閉めた。部屋が薄暗くなる。二人の間に沈黙が落ちた。


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