第5話 兄王子の消息

 極寒の季節、宮廷の朝は早い。宮廷を支える沢山の下働きの者達が、炭や火鉢を持って廊下を忙しなく行き来していた。花月は私室で、桐や牡丹、それに沢山の女官に取り囲まれて身支度をしている。今日は遂に、即位式だ。この日のために王都の絹織物職人から献上された最高の布地を、宮廷お抱えの服職人が総出で何日もかかって仕立て上げた豪華な衣装は、花月の滑らかな肌を引きたてる美しい紅色で、裾一面に金糸銀糸の花模様が描かれた見事なものだった。身支度の終わった花月を見て、桐がため息をついた。


「なんとお美しいのでしょうか、花月様! まさに天女の如くでございます!」


 牡丹が、顔を鼻水だらけにして泣き始めた。


「あたしたちの花月様は、今日で遂に女王様になるのですね。牡丹は、感激ですっ」


「ありがとう、桐、牡丹。これからも、宜しくね」


 花月が二人に微笑んだ時、女官が一人、廊下を足早にやってきた。


「花月様。護衛府長官のたちばな様より言伝ことづてです。御式おしきの前に急ぎ報告したいことがあるので、少しお時間を頂きたいとのこと。宮廷の奥の間へお出まし頂けますでしょうか」


「分かったわ。今から行くわ」


 一晩中降り続いた雪は既に止んでいたが、辺りはすっかり銀世界と化している。中庭は一面の雪景色で、淡い朝陽を受けてきらきらと輝いていた。花月は、桐と牡丹の二人を連れて、冷たい渡殿を宮廷へと急ぐ。牡丹が「べくしょい!」と盛大なくしゃみをして、花月と桐を笑わせた。


 宮廷の片隅にある奥の間には、既に橘が控えていた。彼が護衛府の長官に任命されて早11年。齢40を過ぎた橘の刈り込まれた頭髪には白いものが混じり始めていたが、その鍛え上げられた体は変わらずで、武骨で真面目な性質も全く変わっていなかった。


 御簾みすの下りた薄暗い室内に花月が姿を現わすと、橘は顔いっぱいに驚きの色を浮かべ、心からの驚嘆の声を上げた。


「花月様! なんとお麗しい! ああ、今のあなた様の御姿をご覧になったら、慈円陛下はどれほどお慶びになられたことか……!」


 そう言って目頭を押さえて顔を伏せる彼に、花月は苦笑した。


「もう、橘! そうやってすぐに涙ぐむところ、変わらないわね。父上がいつも言っていたでしょ? 『護衛府長官たる者、感情の機微をそう簡単に表に表してはならぬ!』って」


「は………それは確かに……いや、しかしですな! 王女様がお生まれになった時から宮廷にお仕えしておりますこの身。このようにご立派に成長生されたお姿を目の当たりにして、わたくしめと致しましては、もう、感無量でありまして……」


 と言って、ぐふっと嗚咽を漏らす。花月の背後に控えていた牡丹が、「橘長官、これをお使い下さい! 長官の鼻水が、畳に垂れそうですよお」と言って、懐から木綿の布を出して渡してやる。彼ら二人は、昔から親子のように仲がいい。花月は、彼らのやり取りを微笑ましく思いながら口を開いた。


「橘。それで、私に報告と言うのは?」


 彼は「はっ」と言って牡丹から受け取った布で顔じゅうを拭い、背筋を伸ばしてその四角四面な顔を引き締めた。


「花月王女のお耳に、どうしても入れておきたいことが。……兄君の、慈英じえい王子の消息でございます」


「兄上の……」


 花月は美しい眉を曇らせた。慈英。花月より7つ年上の兄は、4年前に父王の命で、密かにこの瑞を追放されていた。罪状は、『姦通』である。兄慈英は、よりにもよって、隣国・ほむらの第一王女と長い間肉体関係を持っていたのである。第一王女には、夫と幼い子供がいたにも関わらず、だ。橘は、太い一文字眉を不快そうに歪めて続けた。


「慈英王子は、4年前、陛下の命で密かに半島東の小島に流されました。当時、陛下は秘密裏に、焔の東仁とうじん国王に莫大な謝罪金をお支払いになっております。いえ……この言い方は癪に障りますな。正直なことを申せば、『奴に金を分捕られた』という方が正しいでしょう。東仁の抱える参謀、零玄れいげんの姑息な策に違いありません」


 憤慨して鼻息を荒くする橘に、花月は頷いた。当時、国王以下、瑞の高官の間では、『慈英は焔にはめられた』というのが定説だった。瑞は小国ながら、肥沃な土地と豊かな海に恵まれ、財政状態が非常にいい。その財に目を付けた東仁……厳密には橘の言う通り、零玄の策だろうが……は、実の娘を使って、慈英を誘惑させたに違いなかった。花月はため息をついた。


「……兄上は、若い頃から焔に出入りしていたもの。きっと簡単に騙されてしまったんだわ。我が兄ながら、情けないことね」


「焔の王都は、この穏やかな瑞の都と違って、享楽的な雰囲気があります。若い者達が引き付けられるのも無理はありませんが……私は好かんですな。第一、よりにもよって、第一王子と言う立場でありながら」


「それで? 消息と言うのは。兄上は島で息災にしているのでしょう?」


 慈悲深い慈円は、息子を島流しにしたものの、それでは親心が済まなかったのだろう。慈英の傍仕えをしていた者達を随伴させ、護衛府の官吏には、飢え死にせぬほどの食料を密かに小舟で運ばせていた。舟は渡さなかったから、慈英が島を出ることは不可能だったのだが。橘は、背筋を正し、深刻な声で言った。


「それが……大変申し上げにくいのですが。王子が、島を脱走した様なのです。昨夜、護衛府の……物資配達の官吏の様子がひどくおかしかったので少し手荒な方法で問い正したところ、賄賂と引き換えに王子を舟に乗せたことを自白しました。慈円国王陛下の国葬の日だったそうです」


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