現実

二号館太陽グループ、初勤務の日。

橋田拓哉はしだたくやリーダーは、まだ二十代後半で、リーダーの中では最年少だった。

「ようこそ、魔窟へ。これからよろしくお願いします」

丁寧にお辞儀をして、ズレた眼鏡を指で押し上げると爽やかな笑顔を見せた。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

挨拶を済ませると、寮母室の中に四畳半程度の和室があった。職員の休憩室として使用されていた。光風には、休憩室がなかったのでありがたかった。荷物を置くと、いきなりご利用者様の介助をすることになった。

名前も病状も何一つわからない。適当に、こんな感じでと言われるままに介助を行う。

ホールには、約四十名のご利用者様がいた。

昼食時、皿がピカピカになるまで舐めるご利用者様がいた。完食されて、食器も唾液で光っていたので、お膳を下げようとすると、がっしりとお膳を掴んで放さなかった。

「ウチがきれいに洗うたのに、なにするがで。やめてや。早う、ここに食い物持ってきいや」

なるほど。本人的には、舐めることが洗うことになっていたのだろう。

「あの方、お膳を放さないんですけど」

「あぁ、そういう方です」

「どうすれば、いいんですか?」

リーダーは笑顔で、ご利用者様に近づく。

「お下げしますね」

「やめてちや」

「はいはい。新しいの持ってきますからね」

その言葉を聞くと、スッと手を放した。

「そういうことは、もっと早く言って下さいよ」

「あぁ、そうですね」

暢気にもほどがある。


よく食後や排泄後、入浴後に失神される方もいた。

車椅子に乗ってもらうなんて悠長なことはなく、二人で担いでベッドに移動する。数秒で、意識を取り戻される。

他のご利用者様の介助にあたっているときに、後頭部をのけぞって失神されていることもあり、恐怖しかなかった。


大きなテーブルに数名のご利用者様がいらっしゃる中、一人掛けのテーブルに座られている男性のご利用者様がいた。半開きの口から唾液を垂れ流していて、服やテーブルを伝い、床に水たまりができていた。

私は、職員が放置しているのが理解できず、声掛けしてティッシュで拭く。言葉は発しないが、頭を下げられた。

「その方の唾液、MRSAなんで気を付けてください。そのティッシュ、専用のごみ箱があるんで、そこに捨ててください」

リーダーは朗らかに言った。

てめぇ、マジふざけんなっ。

MRSA感染症。黄色ブドウ球菌は、健康な人なら無害だが、免疫力の弱っている高齢者には、重症感染症の原因になる。

手袋、殺菌、消毒が必須。

「そんな大事なこと、最初に言ってくださいよ」

「あぁ、すいません」

あぁ、じゃねぇよ。


一人の女性ご利用者様に手招きされた。

「あぁ、ちょっと、身体が痛いんやけど」

「どこが痛いですか?」

「えっと、背中かな」

「背中の、どこらへんですか?」

私は触診しながら尋ねた。

「うぅん。そこらへんかな」

ざっくりしていた。

「あぁ、それから足も腰も腕も痛い」

いきなり増えた。

「この方の言うことは、間に受けないでください。ただの、不定愁訴なんで。かまうと、甘えて何もしなくなるんで」


別のご利用者様は、認知症が進んで、会話すらままならない方が多かった。

経管栄養の方も、五名いた。


太陽グループは、地下一階にあるので陽が差さず、昼間でも薄暗かった。どんよりとした重たい空気に、私は、すでに辞めたくなっていた。



同期入社で、説明会のときにしか会ったことがなかった笹川ゆらは、たった一年間で介護士として成長していた。笹川も私のことを覚えていたようだ。利用者の特徴は、ほとんど彼女から聞いた。


私より一週間遅れで、國分早紀こくぶんさきが出勤してきた。

仕事は順調で、教えられたことはすぐに吸収した。

あるとき、休憩室で二人きりになったことがある。私は、いつもの軽い感じで話しかけたが、反応はいまいちだった。とにかく、テレビを見ながら生返事ばかりする。

あれ? こんなに会話弾まなかったっけ?

コンビニのバイト時代。まだ、二十代後半だった私は、高校生の子達とも楽しく会話できていた。

だから、そのノリでいたのだが、よく考えてみれば、年齢も一回り以上違う。仕事なら話に困ることはないが、今はプライベート。

楽しく話せていたと思っていたのは、私だけだったようだ。

かなり、気まずかったので、早々に喫煙所に逃げた。

光風から二階月グループに異動した藤田明宏ふじたあきひろと、廊下ですれ違ったり、入浴介助で一緒になるとテンションが爆上がりしていた。


國分と同期で月グループに配属された伊藤暁人いとうあきとは、唯一、私を受け入れてくれた。彼も、入社してから、二号館の雰囲気に圧倒されていた。

彼とは食事に行ったこともあった。

そこでは、國分は藤田のことが好きだと聞かされ、やっぱりそうなんだって話で盛り上がった。

彼自身は、付き合っていた彼女を、就職先の職員に寝取られたと聞かされた。

「俺には、もったいないくらい美人だったんで。一瞬でも、俺を選んでくれたことに感謝したいです」

卑屈なのか、究極にいい子なのか。

結局、わからなかった。



太陽グループは、職員間の仲が悪かった。

溝渕愛みそぶちあいを筆頭に、桑田朱里くわたあかり井上文香いのうえふみかは、橋田リーダーや他の職員の悪口に華を咲かせていた。


昔から私は籤運が悪い。

溝渕と組まされることがほとんどだった。早出、遅出、夜勤。すべて、彼女と一緒だった。

彼女は私より年齢は少し上で、結婚して一人娘がいた。本人が言うには、旦那は出稼ぎで大阪に行っていて、家に帰っても義母と一緒では息が詰まる。だから、家に帰りたくない。

その結果、彼女はなにかと仕事で揚げ足を取って、私に居残りを強要した。

「日誌の書き方が、全然ダメ。テンプレ書いてるだけだもん。毎日、何か違うことあるでしょ」

「わかりにくい。もっと詳しく書かないと」

そうは言うが、具体的に何がダメなのかは言ってくれない。

「トイレ掃除、まだでしょ」

彼女は指示はするが、仕事はしない。暇があれば、もっともらしく仕事にかこつけて誰かと話していた。

排泄、服薬、日誌作成、洗濯物。

気付けば、一人で仕事していた。こちらも早く帰りたい。

休憩時間も潰して仕事をした。

「うわうわ、休憩中に仕事しゆう。あの掃除バカと同類やぁ」

嗤いながら、井上と一緒になって揶揄してきた。

「こうでもしなきゃ、帰れないだろ」

「それは、自分が仕事できないからでしょ」

はぁ? おめぇが動かねぇからだろうが。

言葉を呑み込むと、内臓が燃えるように熱くなった。


諸岡俊夫もろおかとしおは、『自分の家族にしても恥ずかしくない介護をご利用者様に提供する』をモットーにしていた。

聞こえはいいが、あまりにも独善的すぎた。

入浴後、顔が真っ赤になっているご利用者様がいた。本人が語るには、入浴介助中、ご利用者の洗顔をしていると、いくら洗っても顔の垢が取れなかった。タオルで顔を擦るたびに、消しゴムのカスのようなものが浮いてくる。

「もう、痛い。やめてや」

利用者が訴えても、

「こんなに汚れが溜まっちゅうがで。汚いやろ」

そう言って、やめなかった。

本人はあくまでも善意のつもりなのが、質が悪い。

誰がどう見ても、垢ではなく皮膚の薄皮が剝がれているだけだった。

「あんた、バカなが。これ、事故報告だよ」

「だったら、汚いままで良かったのかよっ」

溝渕がキレると、諸岡は怒りを隠そうともせずにテーブルを蹴飛ばし、仕事を放棄してどこかへ行った。


介護では、排便が困難なご利用者様に対して、腹圧をかけることがある。腹筋に力が入るように前傾姿勢にしたり、手のひらで軽く押して反射的に腹筋に力を入れてもらって排便を促す。

諸岡は前傾どころか、ほとんど折り畳み携帯のように、足先に頭がくるように無理やり倒す。極めつけは、握り拳で腹部を背中に貫くくらい押し込む。

「うぅ、んぅ」

利用者からも苦しそうな声が出る。

「あの、ちょっと、諸岡さん」

彼は、私の声を無視する。

腹圧は過度にかけすぎると、膀胱破裂の危険性がある。彼のやり方は、利用者を殺しかねなかった。

「利用者、殺す気かえ」

溝渕がキレると、諸岡は職務放棄してどこかへ行く。だが、溝渕の声は彼に届く。

「あたしと諸岡、特別仲がいいから」

溝渕は嬉しそうに言っていた。

あぁ、コイツら不倫してんだな。

お互いに、隠そうともしない。公然の秘密。


私は、真面目に仕事をしていても、「遅い」「早くしろ」「ノロマ」「まともに介護もできねぇのか」と、毎日言われた。

「もう、これやから、一号館は。光風なんて、アホみたいに子供産みまくって、みんな忙しいのに、自分一人休んだとこだしね。新人教育すらまともにできないのかね」

さすがに、これには我慢ならなかった。

「いい加減にしろよ。お前なんかより、よほど立派な人だよ。くだらないこと言ってないで、仕事しろっ」

「マジでキレてる。バッカじゃねぇの」

腹を抱えて、嗤っていた。

年齢はもう立派な大人。結婚もして、子供もいる。

中身が子供の大人は介護では珍しくない。


たまに入浴介助で、同期の三上恵子みかみけいこと一緒になった。

「もう、辞めたい」

「そんなこと言わないの」

「溝渕とか、なんなんだよ」

「あぁ、彼女ね。ここを辞めたところで、あぁいう人は、どこにでもいるから。ねっ、がんばろ」

ありきたりな言葉ではなく、この苦痛から解放される方法を教えてほしかった。


私は、一号館光風に久しぶりに顔を出した。

「元気?」

懐かしい明神リーダーの笑顔に、癒された。

「元気どころか、もう辞めたいですよ。もう、嫌だ。もう、これがあと何年何十年も続くのかと思うと、もう死にたい」

本気でそう思っていた。

「辛いことばかりだね。橋田リーダーは、聞いてくれない?」

「あの人、ダメですよ。介護士としてはいいかもしれませんけど、リーダーの素質ないですって」

優しさはあるが、決断力はない。

「彼は、まだ若いからね。あの連中を抑えるのはムリだよね」

「真面目に働いてるこっちが、馬鹿みたいですよ。毎日毎日、罵詈雑言ぶつけられて、頭おかしくなるって」

「キミは、大丈夫。私が保証するから。おかしいのは、あいつらだから」

その言葉が、少し元気をくれた。

「もう、大丈夫です。顔を見れてよかった」

「橋田リーダーに相談してみて。彼も、私と同じ。心の風邪仲間だから。かなり苦労してるから、きっと力になってくれるよ」

優しいだけではリーダーは務まらない。

「家庭菜園、嫌じゃなかったら、一緒にやろう」

嘘でも、その言葉が嬉しかった。



太陽グループに見知らぬ男性が、橋田リーダーと談笑していた。

一八〇cmはあるだろう高身長に、かなりのイケメン。

橋田リーダーに尋ねると、前任の太陽グループのリーダーだと言われた。

「あの人のときは、よかったですよ。グループも、まとまってたし」

己の不甲斐なさを恥じているようだった。


あるとき、園田主任が主導して臨時会議が開かれることになった。

二号館は鈴木真美すずきまみ主任が担当のはずだが、園田主任が兼任している様子があった。

森田裕也もりたゆうやは、溝渕から掃除バカと呼ばれていた。休憩時間中、食事も摂らず、洗面所やシンクの掃除をしていた。水分すら摂っているのを見たことがない。

「ほら、あいつ、また掃除してる」

陰口もまったく気にしていない。

入浴介助後、溝渕が「風呂場の掃除しといて」と、入浴とは関係のない勤務の森田に言っていた。

「はっ? なんで俺が?」

「だって、あんた、掃除好きじゃん」

「ふざけんな」

森田は、融通の利かないマニュアル人間だ。毎月開催されるグループ会でも、細かいことまでマニュアル化したがる。

そんなの気がついた人がやれば済むといった些細なことまで、早出がやるのか、遅出がやるのかと決めたがった。

曖昧なことが許せない性格なのだろう。

その性格ゆえか、誰かの業務を手伝うこともない。

それは、そっちの仕事だと割り切っていた。

リーダーに手伝うよう指示されても、

「なんで? 俺、遅出だし。それは、日勤の仕事だろ」

完全に年下のリーダーを舐め切っていた。

森田は掃除好きと揶揄されたが、本人も潔癖なのだろう。

私に「キミ、掃除が汚い」「ゴミの出し方が汚い」「洗い方が汚い」と注意してきた。

挙句、「そんなんじゃ、アイツみたいに仕事できないって言われるよ」と、一号館に異動した職員を引き合いに出してきた。

言われるよじゃなくて、おめぇがそう思ってんだろ。

森田は、溝渕達と対立していた。

橋田リーダーは園田主任に助けを求め、この場が設けられた。

対立している原因は何か?

歩み寄れるところはないのか?

お互いの不満を表面化して、解決しようということらしい。

誰も無表情で何も語らない。お互いに、どう出るかを見計らっている。國分は、いたたまれない様子だった。自分は関係ないから、早く終わってくれ。そんな声が聞こえそうだった。

何も解決しないまま、時間だけが過ぎ、お開きになった。

「みんな、余裕があるのよ。人の粗が見えるくらい。同じチームなんだから、仲良く

しないと」

笑い飛ばしていた。

当然、両サイドから橋田リーダーは睨まれ、誰も言うことを聞かなくなった。



「溝渕さんも、森田さんも悪いですけどね」

休憩室で桑田朱里が、弁当を二つ食べながら言う。ふくよかな身体ができあがるわけだ。

「はっ? 桑田は、溝渕の派閥じゃなかったの?」

「派閥に入ったつもりはありませんけど」

あっけらかんとしていた。

「だって、一緒になって悪口言ってたじゃん」

「私は、あなたに何か言ったことはないですよ。がんばってるのに、かわいそうだなって」

「そう思ってんなら、なんとかしろよ」

「できるわけないじゃないですか。私も、自分の立場守るのに必死なんですから」

お前の舌は何枚あるんだ?

「こんな職場、どうかしてるよ」

「どうかしてますよね。リーダーも頼りないし」

亀裂を修復する術はない。

「桑田も同罪じゃないか。同調してるわけだし。一緒になってリーダーの悪口言ってたじゃん」

「したくて、してるわけじゃないですよ。嫌ですよ」

まるで、踏み絵だ。

「とても、落ち込んでいる人間の食欲には見えないけど」

私は、食欲はとうに失せていた。

「嬉しかろうが、悲しかろうが、どんなことがあっても腹は減るもんです」

彼女は、完食してデザートのプリンまで食べていた。



私に対して溝渕の罵倒は常態化していた。

「こんなこともできないの?」

「早くしろよ」

ソファに踏ん反り返って、口だけ達者だった。



あるとき、入浴介助中に私は介護拒否をされた。

入浴介助をするのは初めての方で、左半身麻痺だった。

私の介助に「痛い」と訴えられた。

「もう、あの人にやらせないで」

溝渕に言うと、してやったりという顔で、

「あんたに介助してほしくないんだって。ウケる」

手を叩いて爆笑していた。

私は、ご利用者様が居なくなってから問うた。

「じゃあ、どうすればいいのか教えてくれよ」

「キレんなよ」

「キレてないから。介助法を教えてくれって」

「他人に身を預けるのって、怖いことだから。特に、関係性ができてないうちは。そんなこともわからないの?」

屈辱的だった。自分が忌み嫌っていた人間から、気付きを得ることになるとは。それは、自分の未熟さを知ることだから。

介護士としてのプライドは、粉々になっていた。



夏になった。

納涼祭の季節に、宅間は「今年はどうしよう?」と悩んでいた。


橋田リーダーから、私と森田に役割が与えられた。正確には覚えていないが、介護の調査報告書みたいなものを書いて提出するようにと言われた。これは会社命令で、全部署毎年やっていることらしい。

私は初めてだったので、森田に聞くが、「うん、まぁ、適当に書いとけばいいから」とだけ言われた。

そもそも、どうしてこれをやらなければいけないのか? それすらも理解できていなかった。

私は、かなり喰い下がって聞いてみた。

「まぁ、俺が言ったように書けばいいから」

だから、それがわかんねぇんだって。


結局、提出期限が迫っても、書くことができなかった。

「森田をなんとかしてください。あんなよくわからない説明で書けと言われも、無理です」

私は、リーダーに訴えた。

「あぁ、それはそうですね。うぅん。でも、僕が言っても聞かないしなぁ」

「腐っても、リーダーでしょう。あなたも、私が毎日、どんな状況で仕事してるか見てましたよね。あなたなら、私の気持ちがわかるでしょう。お願いします」

橋田リーダーは俯いて、腕を組んでいた。

「わかりました。やってみます」

人を注意するのに慣れていないにも、程がある。

仕事中、ご利用者様もいる中で、森田を問い詰めていた。

「俺は教えたって」

「だから、説明が不十分なんです。これは、会社としての取り組みなんですから」

「おいっ、俺、お前に言ったよな。こう書けばいいって」

私に向かって、大声で叫んできた。

「だから、何度も言ってるでしょう。結果だけ言われもわかんないんですよ。なんで書かないといけないのかって、そこから知らないと書けないですよ」

「それは、お前が低能だからだろ。とにかく、俺は教えた。あとは、お前の仕事だ」

そう言うと、仕事に戻って行った。

橋田リーダーは、私を見て苦笑いした。



私は、完全に心が折れた。

もう、すべて、どうでもいいや。

無断欠勤をした。

心の靄は晴れないが、もう行かなくて済むという解放感はあった。

何人かからラインが届いた。見ないで、連絡先もろとも削除した。

桑田のラインを消そうとしたとき、『そこまで追い込んでしまった責任は』と文面が綴られていた。

読むのが辛いから、消した。



二日後。

園田主任と事務長が、家を訪ねてきた。

私はてっきり離職票が届くものだと思っていたので、かなり面喰らった。

施設の車に乗せられ、自宅近くの海が見える公園で停車した。

「なにが、あったのか、ちゃんと話してちょうだい」

園田主任は、優しい声音だった。

「キミは入社してから、評判良かったんだよ。勤務態度も真面目。理由もなく、無断欠勤するとは思えない」

事務長は、必死に訴えてくる。

てっきり、怒鳴られたり、怒られるものと思っていた。

どうして、優しいんだ。


私は、今までのことをすべて話した。

「ごめんね。嫌な思いをさせて。私が二号館に異動を勧めたから」

そもそも、あんな状態を放置しているのに問題がある。しかし、会社は個人の性格までコントロールすることはできない。

気持ちに折り合いが付けられない人間は、結局消えるしかない。

「ここは、はっきりと聞かせてくれないかな。キミは、どうしたい?」

事務長の問いかけに、

「……辞めます」

それだけ言った。

「じゃあ、ちゃんと、施設に退職をするって、自分で伝えなさい」

園田主任から、数日後に施設に来るように伝えられた。

それで、辞められるなら安い。

「わかりました」

私の退職が確定した。



久しぶりに引っ張り出したスーツは、埃を被っていた。

退職届を出しに行くだけだし、別にどう思われてもいいや。

ヨレヨレの埃まみれのスーツを着て、私は施設に向かった。

表玄関から入ると、園田主任が玄関脇にある施設長室の隣の応接室に案内した。

高そうな革張りのソファは座り心地が良く、深呼吸をするとミシミシと音を立てた。壁には、誰が描いたのかわからない絵が飾られていた。

扉をノックする音がして、施設長と岡田介護部長が私の向かいのソファに腰を下ろした。

園田主任が三人分のお茶を並べると、一礼して消えた。

「なんてことしてくれたのっ。社会人としてあるまじき行為ですよ。正直、懲戒解雇も考えました。ですが、ここは介護施設です。福祉の精神に則り、処分は諦めました。キミにも言い分はあるでしょうから。おおまかなことは聞いています。今も、気持ちに変わりはありませんね?」

施設長は、親から憩いの家を引き継いだ。いわゆる箱入り娘だ。上品な顔立ちが、今は歪んでいた。

「はい」

私は、退職届をテーブルに置いた。

「ご迷惑をおかけしました」

頭を下げた。

「辞めてから、どうするつもりだね」

岡田部長が大股を開いて、前のめりになる。

「特に、まだ決めてません」

「その間の生活費はどうするんだね」

「どうにでも、なります」

「本当に? キミは給料安いだろ。本当は、困っているんじゃないか?」

雲行きが怪しくなってきた。

「ここは、ひとつ相談なんだがね。今、春月荘に空きがあってね。そっちに、異動するってのはどうだい?」

ハメられた。

おそらく、ブレインは岡田部長だ。施設長も、この人の尻馬に乗っているだけで、運営を実行支配しているのは、こいつだ。

私は、何も言えなかった。

「どうせ、介護士なんて、ここを辞めたとしても、また同じ介護やるんだから」

岡田部長は、貧乏ゆすりをしながら見透かしたことを言う。

「次も決まっていないのに、大切な職員を路頭に迷わせるわけにはいきません」

施設長も追撃してくる。


どうしよう。

また、あの地獄に戻るのか。

求職活動をする手間が省ける。

しかし、介護はもう…。


突然、岡田部長がテーブルを蹴りつけた。誰も口を付けていない茶が、湯飲みから飛び散った。

「おいっ、いい加減にしろっ。こっちはここまで歩み寄ってやってんだぞ。なにが不満なんだ。あぁ? 懲戒解雇にしたってよかったんだぞ。それを施設長の温情で、次の仕事先まで斡旋してやってんだぞ。……どうだい? 悪い話ではないだろう? ここは、決断しないかね?」

飴と鞭。まるで、ヤクザだ。

施設長も勢いに呑まれて、固まっていた。

私が承諾するまで、絶対に帰さない。

そんな空気に押し潰されそうだった。

結果、私は頷いた。

自分の意思は、どこへ行ったのか。

すぐさま、岡田部長は施設長に目配せすると「電話してくる」と退席。

園田主任が私を、会議室に連れていく。

そこで、泣きながら、私のスーツの埃を取ってくれた。

「もう、こんなんじゃ、採用されるものもされなくなるでしょ。これから面接なんだから」

つまり、まだ異動が決まったわけじゃない。形式的な面接の場を急遽セッティングするつもりだ。

「埃は払えば落ちる。……本当に、ごめんね。嫌な思いをさせちゃって」

泣きながら、上着の埃をタオルで拭き取ってくれた。

ただ、気持ち悪かった。

その後、園田主任の計らいで、明神リーダーが来てくれた。

「本当に、お疲れ様。よくがんばったね」

「ここで働いて、明神リーダーの下で働けて、幸せでした」

続けて、橋田リーダーが来た。

「すいませんでした」

深く頭を下げ、謝罪した。

「そうですか。わかりました」

ドライな反応。怒りも悲しみもない。

彼は、この後も、これからずっと、あの地獄にいるのだ。

私なんぞにかまっている暇はない。

勝手だが、どうにか彼の人生が報われてほしいと願った。



午後、久しぶりの春月荘に来た。

入社のときの説明会以来だから、一年ぶりか。

玄関を入って、すぐ右手にある事務室に訪問の意図を伝えた。

すぐに、一階会議室に通された。この会議室も懐かしい。あのときとは違い、長テーブルがロの字型にセッティングされていた。

奥の壁際に座って待っていると、ぞろぞろと役職者が到着した。

施設長、事務長、介護主任、介護課長。縦一列に横並びに座った。

すでに、私の履歴書は、ファックスで送られ共有されていた。

「本日は、お越し頂き、ありがとうございます。施設長の鈴本です」

高齢の男性が挨拶を述べた。

私は頭を下げた。

それから、一般的な面接と同様、各役職者から質問が出された。

ここで、悪い評価になれば、不採用になれば、辞められる。

俯いて、尋ねられた質問に「はい」「そうですね」「特にありません」と端的に答えた。

採用は岡田部長の指示で、決まっている。形だけの面接だが、役職者は引き攣った表情で、なにを聞いたものかと糸口を見失っていた。

「キミの最終学歴は、専門学校だけど、映画監督養成コースって書いてあるけど、映画好きなの?」

沈黙を打破したのは、枠井和真わくいかずま介護課長だった。私のことは、覚えていないようだ。

「えぇ、まぁ」

課長が見つけた細い蜘蛛の糸を頼りに、役職者が色めきだった。

「どんな映画が好きなの?」

「まぁ、いろいろっすね」

「うちにも、いろんな経歴の人がいるけど、これは初めてだ。私も、映画は見るほうなんだけどね。特に、洋画が好きでね」

「そうなんですね」

課長は両手を組み、前のめりになる。

「私は、映画は見るものだと思っていてね。とても、作り手になろうなんて発想は思いもつかない。キミは、どうして映画監督になりたかったの?」

「ただ、なりたかったから」

特に、理由なんてない。

作りたい、やってみたいと思ったから。

「どんな作品を作ったの?」

「学校のときは、コンペに落ちたんで、スタッフばっかりですよ」

当時の私は、バイトに明け暮れ、ほとんど学校に行っていなかった。自主映画でのし上ってやると野心はあった。だが、なにもしなかった。コンペが近くなると、学校に行き、映画を撮影しだすと参加する。そりゃ、周りの生徒からやっかみもある。

「じゃあ、監督したのは?」

「自主映画で二本だけ」

高校の文化祭で作ったのと、自主映画サークルで作った一本のみ。

「すごいじゃないの」

「へぇ」と課長に同調して、大袈裟に驚いた様子を見せる役職たち。

すごいなんて言われる方が、恐縮する。

「キミはさっき、介護は勧められてやってみたって言ってたね。働いてみてどう?」

「別に」

「そうかそうか。キミ、わざと不採用になろうとしてるね」

私はドキッとした。

「いや、あの、そんなことは」

内心、焦った。

「過去のことは不問だよ。だから、今ここにいる。いろいろ辛いこともあったんだろう。自棄を起こした気持ちも理解できる。でも、ここが踏ん張りどころだ。私は未来を大事にしたい。キミの人生の監督はキミ自身だ。これは、キミの物語なんだよ。バッドエンドにしたくないじゃないか。……なぁんて、ちょっとクサすぎましたかね?」

おどけて周りに同意を求め、笑いが起きた。

なんなんだ、この人は。

人の心に土足で入ってきて。


監督が私なら、どうして思惑通りに進まない。

いつも、これだ。

私は、採用になった。


























「なに、やらかしたの? キミ、ちょっとした有名人になってるよ」

つづく。

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