荒川先生の平和な世界

カビ

第1話 早く、早く帰りたい

18時52分の中央線に乗れれば、20時半までに家に帰れる。

そう計算した私は、疲れ切った身体に鞭を打ち、走り出した。

本当は全力ダッシュをしたかったが、大の大人がそんなことをしたら周りの人に危害が及ぶ。


学生時代、体育の時間に身につけた「必死に見えない程度のペース」で走って駅まで向かった。

現在29歳の私には、このペースでも息が乱れる。


この前気づいたのだけれど、『クレヨンしんちゃん』のみさえも29歳だ。

おいおい。しんちゃん、全然オバさんじゃないじゃないかと言ってやりたかった。しかし、かつてメスガキだった私も、29歳はオバさんだと断じていたことを思い出す。


「クソが」


国民的キャラクターと、過去の自分にそう吐き捨てた時には、駅構内のエスカレーターに到着していた。


最近は、エスカレーターを歩くことを公的に「ダメだよ!」と言われる世の中なので、ビビリな私は立ち止まってエスカレーターに身を任せる。


腕時計を確認すると、18時50分。あと2分、理想的なタイミングだ。

鼻歌を歌いたい気持ちを抑えて、優雅に読書をしながらホールで待つ。


「‥‥‥」


あれ?もう4分くらいは経ってない?


そう気づいてしまってからは、小説の内容が頭に入ってこなくなり、素敵な物語が文字が印刷されただけの無機質な紙の束に変わる。


キョロキョロするのも情けない。こういう時は、文学少女(29歳)を装って、文字の羅列を見続けるしかない。

人身事故だとしたら、そろそろアナウンスが入るはずだけど、雑多な声や音しか聞こえない。


結局、予定より7分遅れて電車が到着した。

7分くらい、なんてことはない。

そう思って、穏やかに帰りたい。

しかし、私の脳内はこの7分のズレによって、東上線に乗る時間が15〜20分遅れることに苛立っていた。


早く帰りたい。

それだけを、強く願う。

そんなに贅沢な願いじゃないはずだよ。

\



<18時32分に起こった人身事故の影響で、運転を見合わせております。お急ぎのところ、大変ご迷惑を‥‥‥>


このパターンかぁ。

中央線の遅れを乗り越えて、山手線に乗り換えての東上線。

この路線が動かないと、どうしようもない。


動かない電車の中でじっと立ち続けるのは、精神がやられる。

自分では何もできない、ただ駅員さん達が1秒でも速く運行状態を整えてくれることを祈るだけの時間をこれから過ごすと思うとゾッとする。


ほぼ無意識にスマホで『池袋からふじみ野 距離』と検索してみた。

24.2キロか。


ふむ。


歩けないこともないんじゃないか?

今、優先するべきは、体力の温存ではなく精神面の配慮だ。

日頃の運動不足の身体を叩き直す意味でも、丁度いいんじゃないだろうか?


「よし!」


木曜日の勤め人が、明日も仕事があるにも関わらず24キロ歩くことを決意した。


しかし、私とて乙女。(29歳)

履いているは、可愛さを重視したパンプスだ。これじゃあ私の相方にはなれない。ごめんな。

近くにABCマートがあったのを思い出して、スニーカーを購入した。

普段は選ばない黒を選んでしまった。クール系とは程遠いアホ面をしているのに恥ずかしい。けど、嬉しくもあった。


好きな色と似合う色が違うのって、気づいた時は中々ショックを受けたが、今は好きなものを身につけることにしている。誰も私なんか見てないし。


歩く、走ることに特化した靴は、当たり前だけど履き心地が良い。

職場の同僚が「どんなにオシャレを頑張ってても、靴がテキトーだと台無しだよねー」と言っていたことを思い出す。

あの子(28歳)の言うことも分かる。高級な服と汚い靴のアンバランスさが気に食わないと言いたいのだろう。


しかし、ちょっと待ってくれ。

私のように、これから24.2キロ歩く者も、それを気にしなくちゃいけないのかい?

少なくとも、私にはこの真っ黒のスニーカーが格好良く見える。


パンプスをレジ袋に入れてから、ズンズン歩き出す。

明日の疲労を度外視したウォーキングに、29歳のくせにワクワクしてしまう。






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