三、幼体

 これは、冒頭部分が残っているものである。純粋なページ数としては、焼け残りの中で最も長いのではないか。

 こちらもタイトルは「幼」の字がかろうじて識別できるくらいで、あとは私の記憶から引き出した。おそらく「幼体」のみでよかったと思うのだが、もしかしたら「幼体なんとか」のように後に続く言葉があったのかもしれないという疑念をいまいち拭いきれない。




「幼体」


 狭く味気ない部屋の中で、今日も呼吸を繰り返す。

 剥き出しの便座にシャワー。コンクリートの壁はひどく冷たく凍てついている。

 この四畳もない部屋に閉じ込められて、もうどれほど経っただろう。千日を超えたところから、数えるのを止めてしまった。

 神崎の手は、壁に彫り入れた無数の「正」の字を、一つ一つ確かめるようになぞっていく。

 仄暗い。安っぽい白熱灯が、時折ジジジと瞬きをする。

 訳もなく立ち上がると、薄汚れたベッドのスプリングが軋みを上げた。

 鉄の扉へと進み出る。この千日以上の間、一度も開いたことのない扉だ。その下部には、跳ね上げ式の小さな受け渡し口が備わっている。物資のやり取りは全てそこからだ。

 誰が、何の目的で、神崎をここに閉じ込めたのか。一切が明かされず、一切が語られず、心当たりすら彼には無かった。

 この壁の外に世界があることさえ疑わしく思える。世界はもう無に呑まれていて、この部屋だけが闇の中にぽっかりと浮かんでいるのではなかろうか。毎日差し出される食事や物資のことを忘れ、彼はそんな夢想にふける。

 そして、今日も呼吸を繰り返す。


 暇ほど毒なものはない、ということわざがある。神崎の一日はまさに、暇と戦うことに費やされる。

 天井の隅には一つだけはめ殺しのすりガラスが当て込んであり、そこから射す光の変化で彼は朝の到来を知る。

 朝昼夜の三回、鉄扉の受け渡し口から食事が差し出される。食事は濁った茶にコッペパン、具のないスープといった具体だ。ひび割れたプラスチックトレーに載せて無造作に入れ込むものだから、何度かに一回はコップが倒れて水浸しになる。そんなとき、次の食事まで神崎は喉の渇きに苦しむことになる。

 食事の時間は、毎日正確であるようにも、そうでないようにも思える。この部屋には時計など無いのだ。

 着替えは一週間に一回。よれた薄手の服と、ところどころ黄ばんだバスタオル一枚が渡される。服は白っぽい無地の上下で、囚人服を連想させた。服はまだしも、一週間にタオルが一枚だけというのには閉口した。次のタオルと交換できるまでの間、シャワーを浴びればそのタオルで水気を取り、汗をかけばそのタオルで拭い、寒い夜にはそのタオルにくるまった。

 服屋タオルと一緒に、小さな紙切れと、ちびた鉛筆が付いてくる。それは彼が最も楽しみにしている「注文票」だ。彼は、あらん限りの要望をそこへ書き連ねる。

 トイレットペーパーが切れそうだ。

 本が読みたい。図鑑がいい。

 昨晩から熱っぽい。

 日記を付けるノートが欲しい。

 そのリストを食器の返却時にでもトレーに載せておくと、いくつかを叶えてもらうことができる。トイレットペーパーの補充は、数日のうちに必ず。風邪薬などは、必要最低限の分量だけ。本やノートは、たまに。

 繰り返していくうちに、希望が通るもの、通らないものがなんとなく分かるようになってきた。トイレットペーパーや風邪薬などは、潤沢とは言わないまでも支給してもらえる。酒や煙草といった嗜好品の希望は通らない。刃物や紐など、自死に使えそうな物も通らない。当然、高価な物や希少な物といった入手困難な物も通らない。本やノートなど、娯楽用品について希望を聞いてもらえるのは、月に一回だけ。ただし、娯楽用品と言っても外部の情報を得られるテレビ、ラジオといったものは通らない。

 まさに囚人だ。それよりもひどいかもしれない。外で身体を動かす機会も、知人からの差し入れも与えられないのだから。

 目覚めるたびに、神崎は自問する。今日という日をどうやり過ごすのかを。毎日が暇との戦いなのだ。手垢のついた本をまた読み返すのか、壁の染みでも数えるのか、それとも魚を観察するのか。


 神崎は目を覚まし、光の加減から、まだ朝食には早いことを悟った。

 それまでどうするか。

 ――魚。

 彼はベッドの下に転がったノートと鉛筆を手に取り、水槽へと向かう。

 魚が心の拠り所といっても過言ではなかった。

 この無機質な部屋の中で唯一、鮮やかで生き生きとしたもの。

 ベッドとは反対側の壁際に水槽が設置されている。砂利が敷かれ、水草がいくらかと流木一つが沈めてある。水槽内にチューブがいくつか挿し込まれ、黒い二つの外部装置につながっていた。

 水槽の中には、体長五センチほどの魚が一匹だけ。観賞用と言うにはあまりにも寂しいものだったが、飽きずに眺めることができるという意味で、神崎にとって最重要な存在であることに間違いはなかった。魚はやや黒っぽく、よく見ると何本かの横縞が走っている。

 魚の餌は生活必需品扱いのようで、トイレットペーパーと同じく、頼めば数日のうちに必ず受け取ることができた。

 この数年間で、神崎はこの魚について調べることに執心した。

 まずは魚の図鑑を入手した。そして、その魚がおそらく「ゼブラフィッシュ」と呼ばれるものだろうという当たりを付けた。

 次に、魚の飼い方に関する本を三冊ほど比較し(神崎は毎回のように『魚の飼い方の本』とリストに挙げた。三か月かけて、三冊をそろえた)、魚が最も長生きできる飼育方法を調べ上げた。水槽につながっている二つの外部装置が、それぞれ「ろ過装置」と「エアポンプ」であることも、本を読んで理解した。それ以降、リストには「魚の餌」だけでなく、「水槽のろ材」なども加えられることになる。

 魚の世話をするうち、神崎はそれのある行動に目を留める。天井の隅にあるはめ殺しのすりガラス。そこからわずかな明かりが部屋に差し込むのだが、午前中いっぱいは、光が水槽の辺りを移動する。ゼブラフィッシュは、その光を追うように、滞留する位置を少しずつ変えるのだ。

 神崎にとって、それは非常に興味深い行動だった。これまで、魚類はおろか動物、人間に至るまで、彼がこれほどまでに興味をもったことなど無かった。すぐさま「魚の生態」に関する本をリストに加え、それを穴の開くほど読み込んだ。

 魚が光を追う行動は、「走性」と言われるものらしい。光を追う場合は「走光性」で、逆に光を避ける場合には「走暗性」とか「負の走光性」とか言われるのだそうだ。神崎はノートにゼブラフィッシュの行動観察を毎日記録し、本を読んで理解したその本能や反応について注釈を付けた。種を明かせば中学高校レベルの内容なのかもしれないが、自分で疑問をもち、自分で的確な答えに辿り着いたという意味で、学者になったような気分がした。

 そのうち、さらなる疑問が浮上した。ゼブラフィッシュは基本的に「走光性」があり、光を追いかけるのだが、午前中のある時間帯においては、光の当たっていない水槽の隅に身を潜める様子が見られたのだ。時計がない以上(時計はリストに入れても一向に支給してもらえなかった)厳密なことは言えないが、ゼブラフィッシュがその行動をとる時間は、基本的に一定であるように思えた。

 これを調べるのには骨が折れた。これまでに入手した本の巻末を開いて、関連書籍を注文リストに入れ込んでみたのだが、そんな細かな行動まで取り上げているものなど無かったのだ。とうとう当てがなくなり、「ゼブラフィッシュの行動原理」「ゼブラフィッシュに関する専門書」などと注文書に記入してみたのだが、受け手側にしても困惑したようで(そんな本が出ているのかどうかすら分からない)、しばらく本は届かなかった。

 神崎は毎日のように、ゼブラフィッシュのその行動を観察し続けた。そのうち、ゼブラフィッシュが水槽の隅に身を隠してしばらくすると、エアポンプが作動することに気が付いた。水槽内に酸素が送り込まれ、わずかに水流が発生するのだ。

 ――もしかしたら、こいつは水流を避けているのかもしれない。

 そんな仮説をノートに書き込んだ。

 そんなことに明け暮れていた頃、一冊の学術書が届けられた。古書のようで、あちこち擦り切れている。それは魚類の行動に関する論文集であった。当然、学術的な基盤をもたない神崎にとっては、使われている用語も実験方法も馴染みのないものだ。いくつかの論文に目を走らせてしばし呆然としたが、暇に飽かせて少しずつ読み込んでいく。

 そのうち、ある論文に行き当たった。

「ゼブラフィッシュにおける阻止の随伴性を用いた行動制御――言語に依らない回避行動の形成は可能か――」

 おおよそそんなタイトルの論文で、神崎はこれを理解するために少なくとも五十回は精読したのではないか。苦痛とも言える作業だったが、この論文の主張が彼の仮説と合致していると分かったとき、言い知れぬ達成感を感じた。

 彼の理解するところでは、やはり、ゼブラフィッシュは水流を回避しているのだと考えられた。

 もともと、動物と人間の最大の違いは「言語によって行動を変容させることができるかどうか」であると考えられている。人間は「火にかけられたやかんは危険だから触るな」と言われれば、多くの場合それに従うことができる(言語が未発達な幼児などは違うのだろうが)。しかし当然、犬や猫、ましてや魚類にはそんなことを言っても仕様がない。

 そして、回避行動をとるためには、言語を中心とした高次な能力が必要である、というのが通説であった。たとえば、動物には「嫌なものが来たら逃げる」という「逃避行動」は可能であっても、「嫌なものが来る前に逃げる」という「回避行動」は不可能だと考え続けられてきたのだ。

 しかし、犬において電気ショックを避ける回避行動が形成できることが古き実験たちから証明されてきた(現代では考えられない研究倫理だ)。

 神崎が目を付けた論文の中では、魚類においてもそうした回避行動が形成できるということが、いくつかの実験から示されていたのだ。実験内容も、彼がまさに目にしている状況に酷似している。実験の中では、定期的に水槽内に水流を発生させることを繰り返した結果、ゼブラフィッシュはあらかじめ水流を避けるように行動したという結果が得られていた。

 彼の仮説は正しかったのだ。

 これが、この部屋に閉じ込められて数年で、神崎が得たものである。


 朝食を早々に平らげ、午前中いっぱいゼブラフィッシュの観察記録を付けてしまうと、神崎はやることを失ってしまう。

「今は、何年なんだ」

 ぽつりとこぼす。

 神崎は意識的に、独り言を口にしないようにしていた。

 監禁されて二、三か月が経った頃、何かの拍子に独り言をつぶやいたことをきっかけに、それは加速度的に増加していった。最初は「疲れた」だの、「なんで俺が」だの、自分の思考を言葉にするだけだった。しかし、次第に架空の会話(たいてい、神崎は何かの講師で、聴衆に対して偉そうにでまかせの講釈を垂れるのだ)が大半を占めるようになる。これはまずい、と思った。自分は狂いかけているのかもしれない、という得体の知れない恐怖が彼を襲い、二度と独り言を口にすまいと誓ったのである。

 しかし、今のようについ口の端からこぼれてしまうことがある。その度に、彼は苦々しい気持ちになった。

 ――今は何年なんだ。

 先ほど口から出た言葉を、胸の内で反芻する。

 神崎がここに入れられたのは、一九九八年の夏だったはずだ。

 その頃、彼は新卒の社会人であり、自動車の整備会社でしゃかりきに働いていた。世間はバブルの崩壊からおおよそ立ち直っており、再び夢を掴まんと、無茶な働き方がまだ奨励されていた時代だった。

 彼の配属された工場では、月に数回夜勤が回ってきた。夜中に工場へ忍び込んで自動車の部品を盗む輩がいたため、苦肉の策として従業員を当直に置いたのだ。

 夜勤の仕事は単純だった。二時間に一回、懐中電灯を携えて工場の端から端へと見回りをする。それ以外の時間は工場の隅にある畳の休憩室で、ラジオを聴き、酒を呑み、煙草を吸っていればいい。神崎はそれでも真面目に取り組んでいた方だが、同僚には仲間を連れ込んで酒盛りをする連中もいた。

 忘れもしない一九九八年八月のある夜、神崎は夜勤に当たっていて、しかしこの日は気分が乗らなかった。数日前から親知らずの周囲が腫れており、酒を呑めるような状態ではなかったのだ。痛みを紛らわすために煙草を吸いながら、古本屋で仕入れた漫画本を片っ端から読んでいく。

 深夜一時五十分。神崎は壁掛け時計をちらりと見やり、あと十分で見回りか、とため息をついた。

 そのとき、休憩室内の黒電話が鳴った。びくりと肩を震わせるが、何のことはない、これまでにも同僚が差し入れを届けに来たことが何度もあった。工場から徒歩数分の寮から掛けてくるのだ。今回も同じだと思った。

「はい」

 痛む歯茎を気にしながら、電話に出る。

 受話器の奥からは、サア、サアというせせらぎのような音が聞こえた。雨でも降っているような――しかし、この日は晴天だった。

「もしもし?」

 からかっているのだろうか? 肝試しのつもりなら運が悪い、神崎はそういった類のものに動じるようなタイプではなかった。

 突然、人の声のようなものが聞こえた。「ようなもの」というのは、それがどうにも有意味だとは思えない言葉だったからだ。

「んめ」

「は?」

 つい素で反応してしまったが、電話の相手は応えない。どういうつもりだろうか。声質からして、女ではあるまいかと思った。

 神崎は少しずついら立ってきた。

 同僚はふざけ半分なのかもしれないが、こちらは眠気をこらえて働いているのだ。それに、酒やつまみを差し入れられたとしても、この歯茎の痛みでは口にできそうにない。

「誰だ?」

 受話器の向こうは、再び、サア、サアという音に戻っている。

「おーい、切るぞ」

 吸い口まで達した煙草を灰皿に押しつけながら、彼は無愛想な声を上げた。

 受話器を耳から話そうとしたとき、またあの声が聞こえた。

「んめ」

 神崎は電話を切った。

 時計は二時を指している。見回りの時間だ。

 Tシャツの上に作業着を羽織り、懐中電灯を構えて暗い廊下に出る。ギュ、ギュ、とゴム底が鳴る音が反響する。夜の工場は不気味だ、とぬかす同僚もいたが、神崎はこの雰囲気が嫌いではなかった。静かで、落ち着いていて、誰も彼を急き立てない。

 階段を上り、踊り場に差し掛かる。非常灯が赤と緑のまだら模様を浮かばせていた。

 ギュ、ギュ、ギュ。

 二階に辿り着いた。作業員の詰め所、トイレ、会議室、そういった並びをざっと確認していく。当然、誰もいない。

 廊下の反対側に至り、そこから階段を下る。もとより、それほど規模の大きい工場でもない。後は整備場のシャッターを開け、体育館のような建物の中を一通り見て回れば終わりだ。そうすれば、また煙草も吸えるし漫画も読める。

 シャッターのチェーンを外し、手を掛けたときだった。

 突然、背後から羽交い絞めにされた。

 驚いた拍子に、懐中電灯を取り落とす。それはわずかに浮いたシャッターの下へ転がって行ってしまう。

 辺りは闇に包まれた。

「おい、なんだてめえ」

 悪態をつくが、相手の力は緩まない。神崎も決して体格が小さい方ではないが、いくら抵抗しても振りほどけそうになかった。

 そのうち、相手の腕が神崎の首に掛かる。こひゅ、と空気が漏れた。凄まじい勢いで締め上げられる。視野が急速に暗くなった。

 意識を失う直前、神崎は「んめ」という声を聞いた。


 そして、この部屋に入れられていたというわけである。

 回想から引き戻された神崎は、首を振ってその残滓を散らす。結局、自分を拉致した人間たちの目的も、それが単独犯なのか複数犯なのかも不明だ。やつの発していた「んめ」の意味も分からない。

 気を取り直して、ノートと鉛筆を手に取る。ゼブラフィッシュの観察記録は続けているが、水流からの回避行動が気になり始めてからは午後の記録がおざなりになっていた。改めて付けてみれば、何か発見があるかもしれない。

 ゼブラフィッシュのもとへ向かった神崎は、ふと違和感を覚えた。

 ――こいつ、こんなふうだったかな。

 じっと目を凝らす。

 ゼブラフィッシュはわずかに膨らんだようだった。餌を食わせすぎたのかもしれない。五センチほどだった体長も、今では六、七センチほどになっているように見える。

 何より、浅く開いたその口吻の内に、白いものが見えた。

 ――寄生虫か?

 魚の口には寄生虫が住み着きやすいと聞いたことがある。しかし、こんなに小さな観賞魚にも寄生することがあるのだろうか。

 長い時間、いろいろな角度から確かめる。

 見れば見るほど、それはあるものにひどく似ているような気がしてきた。

 ――まさか、な。

 数ミリに満たない口吻内にびっしりと並んでいるのは、極めて小さな、しかし人間のものに酷似した歯に見えた。


 それから、ゼブラフィッシュは少しずつ変化を見せた。

 胸びれと尾びれがわずかに伸びた気がする。体つきもさらに膨らんだようだ。そして相変わらず口元には人のような歯が密集している。

 変わったのは見た目だけではなかった。それまで見せていた走性がどうやら強くなっているらしい。神崎は先日、ゴン、という鈍い音で目を覚ました。珍しく、朝を迎えたことに気付かずに寝過ごしていたのだ。何の音かと当たりを見回すと、再び、ゴン。ゼブラフィッシュが水槽の壁に頭を打ち付けている。それは、射し込んできた光に向かって突き進んだ結果であったようだ。

 走光性が強まることなどあるのだろうか。手元の本には、そんな現象を記したものなど無かった。しかし現に、ゼブラフィッシュの光に対する反応は、日に日に激しさを増している。

 神崎は漠然とした不安を覚えた。彼の蔵書には、魚に関する雑学の載った、安っぽいペーパーバックがある。そこには「ダツ」という魚が「漁師が恐れる魚」として紹介されていた。

 ダツは細長く尖った口をもっている。そして、光るものに対する反応が極めて強い。ダイバーがダツの目の前でライトを点灯しようものなら、一直線にそちらへ突進する。そうして、目を抉られるのだ。

 この「目を抉られる」というのは脚色にしても、実際にダツが人に突き刺さるという事故は起きているらしい。

 そんなことを思い出して、神崎は肌が粟立つのを感じる。

 ――馬鹿なことを。

 頭ではそう分かっているが、一度生じた居心地の悪さというのは簡単に消えてくれない。こうして見つめている自分の眼も、反射の加減で光を放っているのではあるまいか。このゼブラフィッシュ――「もどき」と付けるべきだろうか?――は、それを発見したときどんな行動に出るだろう。

 あらぬ妄想を繰り返している間に、陽がその位置を変えていたらしい。日光は水槽の中央を照らしていた。

 ゼブラフィッシュもどきがこちらを見ている。そのまま、猛スピードでガラス面へ迫った。再び、ゴン、という鈍い音が聞こえた。


 夢を見ていた。

 夢の中で、音楽が聞こえる。「かごめかごめ」の歌だ。誰が歌っているのか、ひどく幼い声。

 神崎は暗い部屋の中にいた。陽は射しておらず、蛍光灯も切れている。ただ水槽だけが青白い光を放っていた。

 ゼブラフィッシュもどきは、すでにゼブラフィッシュとしての特徴を失っていた。体表は赤黒く染まり、胸びれと尾びれは、すでに水槽の底を引きずるまでに伸びている。それは、ミノカサゴやクラゲの毒棘を思わせた。

 目は潰れて体の内側までめり込んでおり、深海魚のように視力を失っているように見える。

 ――突進しすぎたんだ。

 ぼんやりとそう思った。

 ――頭を壁にぶつけすぎて、潰れてしまったんだ。

 聞こえてくる歌は、「かごめ」から「花いちもんめ」に切り替わっていた。どこかで、複数人の子どもたちが歌っているのだ。

 負けて悔しい花いちもんめ。

 慣れ親しんだ歌詞が、やたらと白々しく部屋に満ちていく。

 神崎は、自分の眼が光を放っていることに気付いた。懐中電灯でも仕込んだかのように、顔を向けた場所が白く浮かび上がる。

 ――まずい。

 神崎は慌てる。激しい動機と、滝のような汗。

 ――このままでは。

 しかし、時すでに遅し。変貌したゼブラフィッシュもどきは、すでに狙いを定めている。身をゴムのように縮めたかと思うと、水槽の外へ飛び出した。

 右目に突き刺さる。質量のある物体が、丸い眼孔へとぐりぐり身を入れ込んで来る。

 神崎は絶叫した。しかし、不思議なことに声が出ない。

 両手でゼブラフィッシュの胴を掴み、引き抜こうとする。しかし、返しでも付いているかのように、一向に抜ける気配がない。むしろ、奥へ奥へと侵入していく。

 長い毒棘が、神崎の首や手を刺す。ぎくりとする鋭い痛みと、ヒリヒリとした鈍い痛みが交互にやって来る。

 身を器用にくねらせて、ゼブラフィッシュもどきはとうとう神崎の内部へと深く深く入り込んだ。

 部屋の中には、やはり「花いちもんめ」が流れていた。


 叫び声を上げて跳ね起きる。薄い生地が、胸元から腹にかけてびっしょりと濡れていた。

 すでに日は高く上っているらしい。蛍光灯を点けていない室内に、ぼんやりとした明かりが漏れている。

 ――ただの夢だ。

 そう分かっていながら、不条理な恐怖は神崎を解放してくれない。恐る恐る、水槽へ目をやる。

 ゼブラフィッシュはいなかった。

 ――どこへ行った?

 神崎はベッドの上で身を固くする。あの、触手をもった甲虫のようになってしまった魚は、今どこを這いずっているのだろうか? それとも、ここにはいないのだろうか。

 床に濡れた跡がある。中途半端に絞った雑巾で拭き上げたみたいに。水槽から飛び出したであろう水滴は、そのまま鉄扉へと続いている。

 ――出ていったのだ。

 そう直感する。水跡は、鉄扉の受け渡し口で途絶えていた。

 神崎は立ち上がり、震えながら鉄扉へと向かう。久しく触れていなかったドアノブに触れると、わずかに回しただけで耳障りな音がした。

 カチリ。

 ――開いている?

 思いがけず、扉は開いた。その向こうから、生温かい風が吹き込んで来る。

 出られるのだ。

 神崎の脳裏を、凄まじい勢いでいくつもの情報が駆け巡る。

 ――まずは俺を閉じ込めたやつを見つけ出して――いや、まずは煙草だ。煙草を吸ってから考えるのだ――あのゼブラフィッシュはどこへ行ったんだ?――誰が、一体、何のために――今は何年なんだ――ここはどこなんだ――誰が、一体……。

 彼は目を瞑り、呼吸を整える。

 そして、およそ十年ぶりとなる外界へ踏み出

(以下、判読不能)

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