エンドロールが聞こえない。第二十話

 ぼくが傘を借りるねと言ったら、あかるは口を尖らせ「泊まっていけばいいのに」なんて我儘で困らせた。あかるが甘える時は、ここまで我儘になるなんて知れたのが嬉しく思えた。さすがに雨くらいで泊まる事は出来ないよ、と言いつつ、口許が緩んでしまう。


「脚の事もあるので、途中まででも送りたいんです。でも……、そのっ…………えと……ちょっとだけ、た、大変なの……っ」


 あかるの声がだんだんと小さくなって、“大変”を振り絞るよう言ったのは、ぼくとあかるで重ねた事だから分かっているよ。これ以上、余計な気遣いや恥ずかしい思いをしないように、口の動きだけで「ぼくらの事だから分かっているよ」と頬に触れた。それでも「うう、ごめんなさい」と謝るのだから「あかるが謝る事じゃ無いよ」と苦笑いをしてしまった。きみの部屋から玄関先まで移動するだけでも大変だったんだから、無理をしちゃいけない。そう言って、やさしいキスを何度かすると、ようやく触れていた頬を擦り付けるよう預けてくれた。


「ありがとう、あかる」

「ありがとお、まひるくん」


「またね」


 家までの一歩一歩を歩むたびに、お腹の底から嬉しさや幸せというものが込み上げてきた。色んな幸せの感情が混ざったものが爆発して、傘で風を捉えて飛ぼうとするみたいに空高く傘を上げたりもした。今日、観た映画のように道行く人の視線なんか気にもせず、踊り出したい。せめて、と、少し跳ねてみたけれど、膝が痛んだからやめた。身体が濡らして傘を振り回し唄いたい。どうして、そこまでしたくなるのかよく分からない、本当に何も分からないけれど、あかるを知って生きていて良かったと思った。世界で一番の幸せ者なんだと思った。こうやって生命が繋がれていくんだと知って、ただただ、美しいと思った。


 お風呂に入り身体をまじまじと眺めると、下半身に着いていた“あかるの血”。


「血が出る……って、本当だったんだ………」


 頭の中に過ぎる男子の噂。


 “考えられないくらい痛いらしいぜ”

 “だってさあ、身体が裂けるようなもんでしょ?”


 そんな会話をした後、全員で顔をしかめて身震いをしたっけ。


「……凄いなあ、あかるって」


 学校では習ったから知っていた。でも、やっぱり、あかるのあんな小さな身体が、ぼくを受け入れてくれたのは凄いと思う。その痛みに耐えて、ぼくの“好きにしていい、それが嬉しい”からって言われて、ぼくの気持ちがいいように動いたのが嘘みたいだ。後で、あかるには「信じられないくらいに痛いですっ」と怒られたけれど、凄く嬉しかったとも伝えてくれた。今まで想像でしかしてこなかった事を現実にしちゃったんだ。この身体に着いた血は、あかるがぼくを受け入れてくれたという事で、あかるがぼくの事を本当に好きだという事だ。踊り出したいくらいに嬉しい気持ちは、ぼくの気持ちの本物。身体に残ったあかるの血、あかるの小さな口でも酷くしてしまったのに、それを頭に浮かべて、今すぐにでも“したい”なんて強く思うのは、普通なのかな。


 お風呂上がりに水玉模様のコップに冷えたサイダーを入れて飲んでいた。最近、喉が、がさがさと嫌な感じがして声が出にくいから、喉の奥で弾ける炭酸が気持ちいい。いつものように、母さんが明日の準備をしながら“あの歌”を小さく唄っていた。


「母さん、それって『雨に唄えば』だよね?」

「そうよ。よく知っているわね」

「………………うん」




「あかるさんと、何かあったのね」

「………………うん」




「そっか。…………そっか。そっかそっか」

「あの……っ、母さん?……えと…………」

「眞昼、あかるさんとの今日、二人でした事を大事にしなさい」


「………………うん、ありがとう。母さん」


 この時の母さんの表情は上手く思い出せないし、言葉にも言い表し難い。この世に表せる単語や連なりが無いのかもしれない。嬉しそうな、悲しそうな、微笑んでいるような、少し怒っているような、神妙な面持ちのような。


 ただ、声が酷く優しかった事だけが想い出から消えない。


 蚊取り線香を焚いて、一眞兄ちゃんの布団は敷かずに布団へ入った。今夜の天井は昨日と違う気がする。あかるとセックスをした自分と、する前の自分が別人のような気がする。でも、現実はいつもと同じ。本当に不思議だ。今頃、あかるはどうしているのだろう。まだ痛むのかな。ぼくと同じように、する前とした後で世界が変わっただなんて思っているのかな。初めて感じた感覚とか、初めて聞いた声とか、初めて見た表情を思い返して“夢みたい”だなんて、ぼくと同じように、にやにやとして、布団を力一杯に抱きしめて、またしたいと思っていてくれているかな。不思議な充実感と、身体全体の疲労感と、頭がふわふわしていて、今からでもしたいだなんて思ってしまうから上手く眠れず、微睡んでいると遠くから、


 怒鳴り声が聞こえてきた。


 この声って、一眞兄ちゃんの声だ。兄ちゃんは怒鳴ったり、怒るのが苦手なのにどうしたんだろう。薄いタオルケットをめくり、襖の隙間から入ってくる声を迎える。徐々に激しくなる怒声に、急に恐怖がお腹の底から吹き出て、深く息を吸うと夏用の薄い掛け布団に潜り込み耳を塞いだ。嘘だ、兄ちゃんのあんな声なんか聞いた事が無い。でも、父さんが怒鳴っていて、母さんの大声も聞こえた。兄ちゃんが言っていた父さんとあまり仲が良くないって、ここまで仲が良くなかったの?喧嘩をする覚悟があれば楽なのにって、言っていたその日が来たの?嫌だ、嫌だよ。家族なのに喧嘩なんて嫌だ。夢だ、夢。これは夢だよ。きっと庭の桜がぼくの幸せを悪夢に突き落として、栄養にしようとしているんだ。


 でも、その夜以来、兄ちゃんの机やタンスからは物や服が少なくなり、本棚からは何冊かの本が抜けた。その中には“孤悲”の和歌が載っていた本も無くなっていた。それから家族が一眞兄ちゃんの事を、


 誰も、




 何も言わなくなった。


「あ。まひるくん、おはよお」


 そう言って、ぼくを見付けるなり駆け寄る彼女。朝から体温高く、やわらかな表情を見せるあかるが「先にまひるくんがいるなんて、めずらしいですね」と言う。土曜日にあかるとした事を思い出していたら眠れなかったんだよ、と嘘を吐いた。そう聞いたあかるが「わ、わたしも……です……ょ…………」と、もじもじするのだから胸が痛くなる。本当は兄ちゃんの耳に残る怒鳴り声が怖くて、夜が上手く眠れていない。もし、家を出ていったのなら帰ってこないかもしれないんだ。あの人は猫に好かれる猫みたいな人だから、次に住む町に新しい家があって、新しい家には新しい家族がいて、きっと、新しい布団だって………。


「まひるくん」

「ん?何?」


「えっと…………その……?な、何か、悩み事、とかあります…か?」


 たどたどしく言葉にするあかるに、また胸が痛くなる。ここまで気を使われるなんて分かっていたろう?一眞兄ちゃんとあかるには嘘が通じないって知っているのに……。ぼくが嘘を吐くと悲しい顔をするから、余計にぼくが苦しくなるだけだって分かっているのに、どうして、何度もその場凌ぎの嘘を吐くのだろう。


「あかるは…………“孤悲”って言葉を見た時、どう思ったの?」

「こい?」

「うん。孤独の孤と悲しいで“孤悲”」

「“孤悲”……………和歌ですか?」


 気になっていた。本を大切にする兄ちゃんが、珍しく机の上に開きっぱなしにしていた“孤悲”の和歌が載るページと、いつか話してくれた“彼女と呼ぶべきかどうか”と言っていた恋の話。兄ちゃんはぼくより良い子じゃないって言っていたけれど、それは何の事を指して“良い子”じゃないのか。“恋の使い方”も間違っているのかもしれないって、どういう事なのか。


「わたしは“孤悲”は自分に対しての束縛で、“恋”は相手に対しての束縛だと思いました」

「束縛?」

「はい。束縛です」


 あかるは幼稚園でぼくに一目惚れをして、小学校六年生までそれを言葉にしなかった。六年間も自分の想いに縛られていた。


「あかるの“孤悲”で生まれた束縛は、何だったの?」

「これはわたしの感情です。まひるくんの感情じゃない。だから、秘密」

「じゃあ、ぼくに告白をしたのはどうしてなの?」

「絶対、誰かに触れられたり、絶対、誰かを触れて欲しくなかったから」


 たまにあかるは、どきっとするような事を言う。普段なら“絶対”なんて言葉や“誰にも触れられて欲しくない”、“誰かに触れて欲しくない”なんて言葉を強い口調で言わない。ぼくらの中学校は学区が広がり、二校の小学校から生徒が来る。だから、必然的に生徒数、もちろん女子も増える。あかるは“ぼくを見付ける女子”が増えて、困る事になる前に告白したんだと目を閉じて、首を少し傾げる。


「わたしは“孤悲”と“恋”の間が良いと思って、そうしようと思っていました。束縛までじゃないように縛って、まひるくんにも結ばれていて……でも、無理でした」

「無理?」


 絆と愛を信じるには、あかる自身が弱過ぎたと困った時の眉の形で微笑む。いつも、ぼくに励まされてばかりで、親にも褒められた事が無いから褒めて欲しいとか、一緒に帰るだけじゃなくて登校も一緒にしたいとか、どんどん我儘を言いたくなって、それが叶っていくから余計に我儘を言いたくなる。ぼくを困らせるかもしれないと分かっていてもやめられないと、目一杯に笑おうとした。


「好きな人に我儘すら言えないなんて、少し違う気がする」


 自分のなかで仄暗い感情が湧いてきて染み込み、冷めた抑揚で話す自分に腹が立った。ぼくは我儘を言われ続けたら嫌な気分になると思う。あかるのように誰かの良い所をすぐに見付けられるほど好意的に見ていないと思う。それが出来るのは、あかると一眞兄ちゃんだ。憧れていた兄ちゃんが怒る程の事をする家族に腹が立っていて、もしかしたら、ぼくもその一人かもしれないから怖くなって布団の中に逃げたのかもしれない。


「実はね、あかる。兄ちゃんと家族が喧嘩していて、家に帰って来ないんだよ」

「え……っ」


 大学生くらいだと二日や三日くらい家とは違う所で過ごすなんて、普通だって聞いた事がある。でも、ぼくには家を空ける用事が出来ただけじゃない気がする。


「ごめん、あかる。朝から、こんな話………」

「わたしは、あなたの半分が欲しい。だから、辛い事も半分こです。もっと、たくさん話をして?わたしはまひるくんが欲しいんですよ」


 わたしだけじゃなくて、まひるくんも我儘になって欲しい。お願い。


「が、学校に着く前に……………ぼくの頭を撫でて欲しい。“大丈夫だ”って、何度も言って欲しい」


 いつもとは、逆だ。あかるが泣いて弱音を吐いて、ぼくが頭を撫でて大丈夫だよと言う。あかるが安心するまで続けていると、あかるが笑顔になってくれるんだ。その場凌ぎや綺麗事だと嫌悪を抱いていた言葉の使い方が、こんなにも、あたたかい言葉だなんて知らなかった。


「やっぱり、あかるはやさしい」


 よく、きみがぼくに言うそれを真似てみた。


…………………………


エンドロールが聞こえない。

第二十話、終わり。

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