第22話 兆候


 時刻は十五時になった頃。

 腕時計を見ても、今が看板に書かれた時刻に含まれていることに間違いはない。


 細長いサムラッチハンドルのドアノブを握り、木製でできた重たい扉に身体を押し付けるように開けると、店内にはテーブル席に二組、カウンター席に一人が座っていた。


 そして、カウンターの中には驚くような顔をした呆けた面の先輩が一人。


「……悪いが、このとおりだ」


 店員は、何人かの客を指すように喉を鳴らした。


 それが自分に向けられた発言だと分かっていながらも、宅浪は足を止めなかった。

 そうして店内の奥へと進み、端っこの方のカウンター席に座った。


 カウンター内の壁に貼られたメニュー表を見ながら、店員を待つ素振りを見せる。


「今日は定休日じゃないぞ」


 しばらくすると、店員もとい小岩先輩が注文票を持ちながらこちらにやってきた。

 うんざりとした表情で、心底面倒くさいと思っているような顔つき。


「知ってます」


 宅浪がそう端的に答えた後、小岩先輩はため息をつきながら、接客対応をした。


「ご注文は?」

「コーヒー」

「砂糖とミルクは?」

「ブラックで」


 小岩先輩は注文票を書く手を止め、ケダモノを見るような目でこちらを見る。


「……正気か?」


 どうやら、喫茶店定番メニューを頼んだことに違和感を覚えているらしい。


「正気です。完飲しますから」

「角砂糖一個くらい入れても、俺は怒らないぞ」

「昔はあれだけブラックを勧めてきたのに? 喫茶店を始めたのもそれが理由でしょ」

「昔と今じゃ違う。俺は変わったんだ」

「変わらないものもありますよ。俺は今日、それを確かめに来たんです」

「過去を、確かめに来たってか?」

「はい、その通りです。店が終わってからでいいので付き合ってください」

「今日は定休日じゃないぞ」

「終わってからでいいので」


 宅浪は力強く、大事なことを二度言った。


「お前……看板読んでないだろ」

「読みましたよ? だから、無理強いはしてないです」


 ちなみに看板にはこう書かれていた。


『営業時間 11時~20時 (緊急時の場合のみ、休憩時間を挟む場合あり)』と。


「本来の用途ではないんだけどな……」


 惜しむようにそう呟くと、小岩先輩はゆっくりとカウンターから飛び出し、店内にいる客一人一人に声を掛け始めた。


 休憩を挟むため、申し訳ないが三十分を目途に退却してくれという内容を説明して。

 深々と頭を下げる後ろ姿は、後輩のためを思っているような気がして少し、心苦しい。


 そうして、十分も経たないうちに店内には静寂がもたらされた。


 普通は客も客で食い下がろうとするだろうと思っていたのだが、小岩先輩の真摯な謝罪が功を奏したか、来店していた客は聞き分けがよく、すんなり店を後にしていった。


「あまり時間は取れない。端的に話すぞ」


「今日くらいは許してやる。時間ないんだろ?」

「はい。サヤカのように忘れたくない、見捨てたくない。もうあんな想いは……」

「わかった。では、始めるとしよう」


 高らかに宣言するように、小岩先輩はあの日に戻って喉を鳴らした。


「一日限りの虫研究サークルを」




 ※ ※  ※




「星石は好きな人を救いたい……だよな?」


 エプロンを脱ぎ捨て、ワイシャツ姿になった小岩は開口一番、そう訊いてきた。

 覚悟を確かめるような、そんな声のトーン。


 宅浪は小岩の目を見て、真摯に応えた。


「好きな人は救えませんでした。けど最低限、足掻かないと怒られちゃいそうで」


 時の流れに逆らうことなく消えていくように、姿を消した彼女。

 そして宿命か、彼女が残していった一人の幼馴染。


 それはまるで、提出期限が延長された宿題のように思えて、見過ごせないんだ。


「……辛いこと言わせて悪い」


 目線を逸らしながら、苦虫を嚙み潰したような顔で小岩は言葉を返す。


「大丈夫です。先輩にも苦労をかけてしまうかもしれないですし」

「俺も大丈夫。覚悟は伝わったから」


 吹っ切れたような口ぶりで無理矢理声のトーンを上げる小岩は哀しく見えて仕方ない。

 今は実感も湧かないけど、俺も一生、背負うことになる業だ。


「まず、星石が知っている情報を教えてくれ」

「情報……ですか?」

「正確に言うと、俺に相談すればどうにかなると思った理由だな。俺が蚊人と時間を共にしたことがあるとはいえ、ここまでの強硬策に出るなら理由があるはずだろ?」


 たしかに、俺がここに確信を持って訪れたことには理由がある。

 でも、それはとても些細な気付き。本人に確かめる程度のことなのだ。


「昔の写真を見ていて気が付いたことがあるんです」


 宅浪はそう言ってケータイを取り出す。

 写真アプリを開いて、大量にある写真の中から一枚を小岩に見せた。


「……これが?」


 小岩は穏やかではない厳しい表情を見せて、宅浪を睨むように見つめる。


 宅浪が見せたのは一人の女性。

 俺の初恋の相手であり、小岩にとって最愛の彼女である女性だ。


「落ち着いてください。名前を言わない約束は覚えてますから」


 宅浪は落ち着くように相手を促す。予想していたより小岩先輩は冷静そうに見える。


「大丈夫。それよりも、この写真をなんで星石が?」

「SNS繋がってたんですよ。それだけです」

「でもお前これスクショ……」

「ここ! 見てください」


 宅浪は小岩の追随を区切るように写真に指を差す。

 指を差したのはその彼女の口元のあたり。はっきり言うと唇。


「7月と12月で口紅の色が違うんです」

「口紅?」

「7月は肌色に合わせたようなピンク色。だけど12月は血色がよく見える赤色」

「そんなのアイツの趣味じゃないか?」


 その可能性もある。当時は季節によって口紅を変えるのかななんて思ってた。


 けど、今にしてみれば……


「でも、この五ヶ月の間で『成長』は起きてましたよね?」

「…………!」


 小岩は一瞬驚く素振りを見せると、白状するように言葉を吐いた。


「一度起きてたよ、秋には。十二支を一周できるくらいの成長は……な」

「十二支……」


 発症してから彼女はすぐ大人だった、と小岩先輩は語っていた。

 そして、俺の記憶が正しければ、小岩先輩と彼女が出会ったときは二十歳そこそこ。


「掛け持ちしてた陸上サークル。秋には走ってなかっただろ?」

「ええ、走ってませんでした。しばらくしたら退部届を出してて」


 走ることが好きで、俺に走る楽しさを教えてくれた彼女が突如として走らなくなった。

 そして、俺との共通の一つの関係を明確に断った。でも、それは……


「走れなかった……なんですね」

「そう。蚊人とはいえ、体力の低下は避けられず、年齢による加齢も進行していたから」


 加齢。それは怪我よりも重い避けられない自然的な衰え。

 走ることを辞めると決意した彼女は何を想ったのか。俺には分かりそうもない。


「……教えてくれてありがとうございます。納得が行きました」


 けど、あの頃に俺が聞いたら今とは違う未来を歩んでたのかもしれない。

 言い訳かもしれないが。


「それで、話なんですけど」


 宅浪は踵を返すように、トーンは高めで話題を持ち出す。


「ああ」


 逆に小岩のトーンは低くなりっぱなしで未だに後ろ髪を引かれるような顔で応える。


「小岩先輩は最低でも五ヶ月は一緒にいたことになりますよね」


 一緒にいた、というのはその言葉の通り一緒にいた時間を指すこと。

 逆に、どこかへ消えてしまった、というのは姿を晦ませ行方不明という意味。


「連れ去られたんだ。彼女は何者かによって」


 呟くように小岩は吐いた。


 小岩は行方不明ではなく、それを誰かの陰謀だと考えている。

 たしかに不思議なことだが、今は論点を置き換えるべきではない。


 明らかな相違点が見えているのだから。


「俺の蚊人は発症から、二ヶ月くらいしかいなかったんですよね」

「二ヶ月……?」


 芯のないただ返すだけの返事から一変、小岩は突っかかるように言葉を返した。


「はい。8月から10月のはじめまで」

「成長は?」

「一回しました。小人から幼児に」

「それだけか?」

「はい。幼児のまま、姿を消しました」

「そう……なのか」


 小岩はそれを聞くと思慮深く、顎に手をつけて思案する素振りを見せた。


「なにか心当たりが?」

「いいや、分からない。だけど、違和感はある」

「それは……どうして?」


 心臓の鼓動が速くなる。

 小岩先輩が言おうとしている事実に、目を背けたくなって、気になっている。


 それは俺でさえ気付いていた違和感で、あやふやな記憶から確かめようとしたこと。


「俺の彼女は、蚊人は、虫研究サークルに何ヶ月、顔を出していたと思ってる?」

「最初から……4月から――顔を出してました」


 そう。

 宅浪がサークルに入部したときから彼女はずっと存在していたのだ。


「星石」

「……はい」

「これは調べる価値のあるものだ。必ず、なにかしらの因果関係がある」


 それは先ほどの弱々しい先輩とは違う、物事を断言するような自信でできた物言い。

 ある意味、懐かしい光景。


「でも……」

「――大丈夫」


 宅浪が言葉を発しようとしただけで、小岩は包み込むように次の言葉を遮る。

 かつて異常なまでの虫好きで、研究熱心だったサークル長の小岩先輩に戻っていた。


 そうして、俺がまるで期待していなかった言葉を、彼は無意識にかけてくれる。


「もしかしたらだって、叶えられるかもしれない」


 まるで魔法がかけられた言葉のように、宅浪に現実味を与えてくれる。

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