第19話 立冬


『どうだ、いけそうか?』

『うん もう少し 待ってくれたら』

『それを言ってる暇があるなら、ほら、さっさと手を動かせよ』

『だって 宅浪 早いから』

『これくらいは普通だろ。俺だって昔は遅かった』

『こんなこと しこしこやってるから 早くなったんだ』

『言い方に語弊を生むと思うんだけど……』


 あれから一週間が経っていた。


 纏わりつくように残っていた残暑はあっという間に剥がれ落ち、

 季節は、白い雪を降らせる準備としては絶好の、北風にも似た秋の風を呼び込んだ。


『仕方ないよ こんな ハイテクノロジー 使ったことがないのだから』

『メールくらい使えるようになれ。せがんできたのはそっちだろ?』


 そして、新しい風は新しいコトを呼び込んでいた。


『サヤカ』

『主語だけ書いて送信するな』

『サヤカ の やつ が よかった』

『それといちいち単語ごとに改行するな。読みにくい。サヤカのタブレットは別だ』

『別というのは 贔屓?』

『贔屓じゃない。もともと俺が使ってなかったのをあげただけだ』

『わたしも 宅浪の おさがり が よかった』

『電話はできないけど、モノはもらえたんだからいいだろ』


 電話ができないソレを携帯電話と果たして呼ぶのかは甚だ疑問に思うが。


『指で 画面を タッチ しても 反応しない』

『下にキーがあるだろ。いま、文字打ってるのと操作方法は同じ要領だぞ』

『宅浪が 触ってみて?』

『俺が触っても意味はない。というか、画面に触れても意味はない』

『画面 に 触れても 意味がない?』

『ああそうだ、そういう機種だからな。いいじゃん、キー操作。昔ながらで』

『これじゃあ ローテクノロジー だよ』

『……全然上手いこと言ってないからな、それ』


 ナヤカの、初めてのケータイ試運転は難航を示していた。


 ケータイが欲しい。


 妹の言葉に折れる形で、俺は近所のジャンクショップでケータイを適当に見繕った。

 もちろん妹という免罪符がなかったら購入していない。しかも俺の金で。


 そして、一時間。

 中古の箱を開けて早々、操作方法が分からないと嘆くナヤカのために通信世界のみならず、現実世界でも距離を置いてメール送受信を交わすという冷静に考えたら非効率的な練習を操作向上の目的の下行ったが、一向にナヤカの送信速度が速くなる気配はなかった。


『なんで お を 打つために あ から始めないといけないの』


 という至極真っ当なガラケー携帯特有の愚痴が飛んでくるあたり、操作方法に慣れていないのではなく、ただ単に文字入力に手こずっているだけというのは皆目見当がつくが。


「最近の子供もこんな感じの屁理屈言うのかな……」


 粋がないというか……おじさんからしてみたら寂しいというか。

 あれから月の半分は過ぎてるはずだけど、妹としての成長はどうも感じない。


『宅浪が 働いていれば』


 だから、途中で送信するなって。

 これに関しては五七五の七五の部分がなくても分かるけど。


『俺が働いていればどうなったって? 言ってみろよ』

『あ 由里ちゃんから うるさい メール 来てる』

『由里ちゃんがうるさいメール送ったみたいになってるぞ』


 会話の途中で俺への憎悪を挟むな。

 それでも、ナヤカがケータイを欲しいと言い張っていた理由がそこにはあった。


『玉子焼き 作れるようになったって 今度 食べさせてくれるって』

『それは良かったな。大したもんだよ、玉子焼き作れるなんて』

『うん よかった うれしい 楽しみに思う』

『よかったな、ホント』


 ナヤカは電波上でも、同級生に対する想像できないくらいの想いを隠すことはしない。


 感情を表に出さないこと、それは不公平なことだと最近のナヤカは言うのだ。


 それは、教えてもらったアドレスを口頭で暗記するくらいの重たい想いだから。

 頑固な兄を説得させるくらいの強烈な演説をするくらいの熱い想いだから。

 もう失うまいと。もう後悔はしまいと。


 そんな強い決意を秘める、愚直で正直な女のコにナヤカは成長していた。


『わたしは ともだち できた 宅浪は』

『俺はもう要らないよ。まあ、いまだに連絡取ってるかと訊かれたら取ってないけど』

『呑気 別れは 突然 訪れるよ』

『そんな話はいいよ。別れなんて惜しむ必要、俺にはない』

『わたし には ある よ』


 …………ああ、そうだな。


 ナヤカには、これまでとこれからに別れが付き纏うな。


『で、どうだ。いけそうか?』

『もう 準備 できてる とっくに』

『心の準備も……か?』

『   』

『空メールじゃ分かんないって』


「できてるよ」


 メールから……ではない。

 自室の扉から透き通ったような涼しい声が、文字ではなく音として脳内に流れた。


「お、おう。入れよ」


 いまだに慣れない、その落ち着きのある声色に動揺しながら、扉越しに合図を送る。

 ドアノブが下にゆっくりと降り始めると、宅浪に改めて現実を見せてくれる。


 現実を、突きつけてくれる。


 紺色の襟から通った赤色のリボンはあの日のハチマキと同じ色をしていた。

 けれど同じなのは色だけと誇示せんばかりに彼女は非力そうに腕を組みながら、真っ白な生地と同じ蒼白で血の気のない横顔を垣間見せ、ふてぶてしく首を下げる。


 白いソックスを膝下まで窮屈に纏って、作り物みたいな足をロングスカートから覗かせて、思春期を謳歌することだって朝飯前レベルの女子が扉の前に立っていた。


「…………似合ってるよ」


 用意していた賛美はやっぱり不格好、頬を釣り上げて吐き出すことすら叶わない。

 だけど、それはお互い様。


「ありがとう」


 一週間前までは名前も知らなかった女子中学生は――。


 ナヤカは……眉を釣り上げて、兄の粗相に呆れるみたいに微笑みを作った。


 感情を表に出さないことは、不公平じゃなかったのかよ。

 クソったれ。




 ※ ※  ※




『とりあえず、幼稚園行ってみるか?』


 端的に言うと、星石ナヤカの身体は急激に成長していた。

 それも人間とは思えないほどの速度で。


 身長は150㎝後半、体重は見た目じゃ分からないが、一見すると細身な容姿だが着衣越しでも下半身はしっかりと芯のある太さを保っているように思える。

 蚊の頃の身体が人間の身体に遺伝しているのだろうか、運動部のような身体つきだ。


『ある朝、起きたらこの身体になってたって……誰か信じると思う?』


 幼稚園に通うことを拒んだナヤカはそう言って渇いた笑いを見せた。


 笑えない冗談。

 なんせ、面影を見つけることでさえ苦労するくらいに、今のナヤカは別人だったから。

 それは初めて俺がその姿を見たとき、嫌なくらい思い知らされた。


『悪い。俺、どうかしてたな……』


 だって。

 あの透き通るような白い肌が、焼印のように俺の頭に焼き付いて離れようとしない……


「ねえ」

「……」

「……聞いてる?」


 ナヤカは顔を覗かせてこちらを見つめた。

 そんなショックを受けているはずの彼女を、俺は無意識に……


「ああ、悪い。ぼーっとしてた」

「何を考えていたかは詮索しないであげる」


 それでもナヤカは笑って……はいないが、平然を装った姿を俺に見せていた。


「べ、別になんも考えてねーし。それに俺が欲情したらそれはロリコンだろ」

「推定15歳はロリコンなんだ」

「俺からすればな。だから考えることなんてこれっぽっちもない!」


 それはきっと人間としてダメだ。もともと腐った人間だと自負しているが、そこまで腐ることないだろ、俺。ここはナヤカのために抑えてくれよ、俺。だから後でしよう、俺。


「心中、手をこまねいてなければいいけど」

「そんなことありえないね」


 手を上下に擦るの間違いだな、それは。


「サヤカのことも?」

「アイツは……知らん」


 そして一緒の境遇を経験した戦友でもあり、幼馴染でもあり、この前まで双子として慕われていた姉の方は、というと。


「気が付いたら、これを置いていなくなってたね」

「ああ、このふざけた伝言と一緒にな。行く当てなんかないっつーのに……」

「……恥ずかしがらなくていいのに」

「ああ、ああ……本当だよ」


 一週間前、伝言の書かれたメモとともにこの家から姿を晦ませた。

 着替えも荷物も、買ってやった服も、すべて何もなかったみたいになくなって。

 連絡も取れず、財布からも金は抜かれておらず、どこにいるか見当もつかない状況。


 挨拶の一つもなしに、サヤカは俺との思い出をいとも簡単に手放した。


「サヤカのやつ……一体どこに行ったんだよ……」


 そういえば、最近サヤカと話す機会が少なかった気がする。

 特に運動会の日なんかは……一度も話さなかったような気がする。

 まるで、サヤカのことをまるっきり忘れてしまっていたようなそんな感覚……。

 たしか、思い出すきっかけになったのは――。


「知らない」


 吐き捨てるような強い口調の幼馴染。

「ナヤカは、なにか訊いてないか?」

「なにも」


 ナヤカは応対をするだけで、感情は表に出さないまま端的に答えた。


「……そうか」


 でも、おかしいのは確かだ。

 こんな問題を放って普通の日常を過ごすことなんて許されるはずがない。


「本当に知らないのか? ナヤカまでいなくなったら俺は……」

「サヤカとわたしは違う。サヤカがいなくなったからってわたしが姿を消す根拠はないでしょ?」


 でも、ナヤカがいなくならないなんて根拠もない……。

 サヤカの失踪にナヤカの急成長……こんなことが偶然同時に起こるとは考えられない。

 今回ばかりは、俺も引き下がるわけにはいかないと分かっているんだ。


「でも、俺が目にしてきたフィクションだと……」

「それは、フィクション。……これを言ったら宅浪は怒る?」


 引き下がるわけには。


「……怒らない。俺はフィクションと現実を混同させるような痛い奴じゃない」

「うん。それは……カッコいいことだよ」


 いかないと思っていたはず……なんだけど。


 ナヤカの普段とは異なる、強い意志に呼応する視線と物言い。

 まるで、ある日のサヤカが宿ったような姿勢に、言いくるめられた形になってしまう。


「も、もし、なにかあったら……」


 第三者より平静を保つ張本人に特大級の違和感を抱えたまま……


「わかった。そのときが来たら頼る」


 なんて、絶対におかしいはず……なのに。


「ちゃんと言えよ。アイツみたいに離れてくれるなよ……」


 三十年近く生きてきたはずの俺の浅い人生経験が決断力を鈍らせる。


「…………そのときが来たら、言うよ」

「ああ、本当に頼むぞ」


 見栄を張って我関せずの顔をしていた姿なんて、今の俺にはどこにもない。

 それは依存といえるもので、なりふり構ってられる余裕なんてあるわけなかった。


 みっともないだろうな、今の俺。


「でも、一つだけ言うなら。サヤカは――」


 霜が降りるように、不意にナヤカは口を開いた。

 俺のことを思って吐いてくれるその言葉の続きを聞きたいし、聞きたくもなかった。


「サヤカは……もう、手遅れだったってことだよ」

「……そっか」


 ナヤカが、付け加えるように発したその単語。


 手遅れ。

 その言葉で彼女が人間ではなく、種としての道を優先したのを理解した。


「ありがとう。それだけでも教えてくれて」


『種族としての責務を果たす』


 そうずっと言ってきたサヤカは決して間違った選択をしていないと言える。

 そして、ナヤカもサヤカの意見を尊重しているように思える。

 だけど、その言葉の端端から平然とは乖離した感情が混じっている気もして。


「わたしは、サヤカの選択を正しいとは言いたくない」

「そうとも限らないぞ。後継を残すことは人間としても……」

「自分勝手だよ、サヤカは」


 ――それが、何よりも宅浪の心に安堵を運んできた。


 安堵したのは、少なからず俺と同じ気持ちがそこにはあったから。

 だって、少し前のナヤカだったら、絶対にサヤカを擁護していたから。


「キャラ変した? ナヤカ」

「してない。正当な怒り」

「そっか。なら……いいんだけど」


 いいわけないのに、いいんだけど、なんて言ってしまう自分に自己嫌悪。


「よくないよ」

「えっ」

「まだ、どこの中学校に通うか決めてないでしょ」

「中学校……本当に通うのか?」

「義務教育……でしょ? 馴染むために必要なことだよ」


 社会に紛れることが最大の得策……か。

 就学義務を免れるには海外とか行った方がいいよな。そんな金はないけど。


「ペットを首輪なしで外に散歩させるような行為、本当はしたくないんだけどな」

「せめて、妹を防犯ブザーなしって言ってよ。お兄ちゃん」


 その歳になって防犯ブザーはどうかと思うけどな。


「っと……制服の採寸中だったな。サイズは……大丈夫そうか」

「ん……」

「きつくないか?」

「足がスースーして居心地は悪い」

「そのうち慣れる。サヤカは好んで履いてたくらいだぞ」

「サヤカと比べる必要ある?」

「わるい、怒らせた」

「怒ってないって」

「そうか? ちなみに中学では幼稚園と違って孤高を気取らない方がいいぞ」

「孤高って……。初対面の印象くらいどうにでもできる」

「そうかなぁ。友達とワイワイしてるイメージがあんまり湧かないけど」

「サヤカみたいな誰にでもいい顔をする垂らしはしない。わたしは誠実だから」

「わるい、怒らせたな」

「だから怒ってないよ!」


 そんな問答がしばらくの間、続いた。


 十五歳の、思春期真っ最中の、一人の少女としての入学。

 入学前の雰囲気としては正しいのだけれど、決定的で厄介な確執がそこにはあった。


 それは、小さく捉えると、幼馴染同士のただの喧嘩。

 しかし、大きく捉えると、種族としての責務と放棄。


 そして、その原因。

 軋轢を生む原因となったのが、星石宅浪であることは誰から見ても明白だった。


『伝えるべき時に伝えるべきだろう? 後悔はしたくないからな』


 ……俺みたいにならなきゃいいけど。


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