第16話 愚直


『さあ、熱くなってまいりました運動会もいよいよ中盤を過ぎたようです~!』

「あついよぉ~!」


 子供たちは一丸となって、意気込みを……じゃなく、泣き言を吐く。


 暑いどころの騒ぎではなくなっていた。

 十〇時を過ぎたあたりから身を潜めていた太陽は徐々にその姿を現し、十一時半を回った今、最奥幼稚園の伝統ある運動会は真夏の日差しを模した灼熱の赤の中で執り行われていた。


 特に、大人は酷い。

 先ほど行ったPTA対抗綱引きでは、生き死に関わると出場を辞めた人間が出るほど、大人にはヘタレが多いらしく、出場したはいいものの来賓席でタオルを頭からかけパイプ椅子にくたばっている結局ヘタレな状況が露呈されていた。


 実況のアナウンスも


『少し、人数が少ないようですが…………あ、綱引きの少数戦は手を抜けませんよ~』


 と、臨機応変な対応を見せて会場から笑いを引き起こしていた。

 少数戦と白状している時点で、苦渋の道を選んでいることは間違いないと思うけど。


『子供たちも頑張ってください! 青チームの総合ポイントは壊滅的ですが、黄色チームと赤チームは接戦です!』

『おい、そういうこと言うな』


 それも総合ポイントが50を超えたら強制終了というシステムのせいで実況がとんでもない贔屓屋になっているけど。

 ちなみに各チームのポイントは黄色36、赤32、青8。


『あ、スンマセン。えー……青チームはここから逆転したらドラマがあります! 僕たちに感動をもたらすために最後まで精一杯、頑張ってください! さて、次の競技は……』

『バカ、次は休憩だ』

『あ、スンマセン。じゃあ皆様、水分補給を怠らずに~』


 そんなこんなで休憩に入った。親のところに行く人もいれば、教室に戻る人もいる。

 昼は何時からだろうか、お腹が空いてきた。


「おーい、ナヤカ~」


 迷うことなく、後者を選ぶはずだったナヤカはその掛け声によって前者になった。


「……どうしてここに?」

「いや、ナヤカが来いって言うから」

「妹の頼みだからの間違い」

「勝手に妹にするな。それに俺、一応……ナヤカの親設定だし」


 宅浪は真っ白なタオル二個と水の入ったペットボトル二本を両手に持っていた。

 見るからに、親におつかいを頼まれたような似合わない格好をしている。


「……流された?」

「そりゃ流されるだろ。ほかの親御さんだって、みんな子供の方に行くんだし」

「姉の方は教室に向かったよ」

「アイツはそもそも期待してないからいい。ナヤカが渡してさえしてくれれば」

「自分で渡して」

「ああ、そうか。たしかお前ら今は……」

「喧嘩してるのは違う人」


 宅浪の目がギョッとして見開いた。

 大げさなリアクションは時としなくても癪に障る。


「あ……そうなの? なら渡せるだろ」

「断る。それに姉の方は青チーム」

「ああ……。負けず嫌いのアイツなら、今は虫の居所が悪そうだな」

「……そんなことで機嫌を損ねない」

「損ねるだろ。アイツ、好きな服を買ってもらいたくて駄々こねてたし」

「そんなこと……しないって」

「残念だがするぞ、アイツは。お前が知らないアイツを俺は知ってるのかもな」

「……れ」

「なんだって?」


 黙れ。


 腹が煮えくり返るような重い感情が空腹感とともに上がってくる。

 蚊時代にも気付いた時には拳が出ていた幼馴染の侮辱を、今だけは深く噛みしめて。


「……仕方ないから、渡すことの検討を検討はする」

「だいぶ遠いなぁ~」

「ただし、もうそんな嘘はつくな」

「嘘じゃないんだけど、まあ……その顔を見たらもう言えないよ、ナヤカの前では」


 真っ白なタオル二個と水のペットボトル二本を受け取る。

 触るだけで手がひんやり冷えたペットボトルは、保冷剤くらいに冷たかった。


 まるで今まで保冷バッグに入っていたような冷たさ。


 確実に、宅浪が持参してきたものではないことだけは分かった。


「これを渡せばいい……?」

「ああ、頼んだ」

「タオルは返す?」

「あー、返した方がいいかも。彼女にはあげますって言われたけど」


 思わず深いため息が出た。家主の呆れたほどに無知な倫理観に。


「借りものなら洗って返すのが礼儀。今日は返さない」

「言われてみればそうかも。じゃあ、そう伝えとく」

「それじゃ」

「昼もこっち来いよ」


 駆け足で砂を蹴っていた足が止まる。


「そろそろお腹空いてきた頃だろ。とっておきの弁当用意してあるから」

「どこのロリータ妹を狙ってる?」

「ロリータ妹は狙ってない! ……いや、別に他も狙ってないけどぉ!」


 やはり不純。社会不適合者の役満。


「話を進めて」

「いやさ、あるお母さんと仲良くなってさ、お昼も四人で一緒にどうですかって」

「人の家庭の飯を横取りは常識的に考えて、迷惑」

「それがさ、娘さんと一緒に作ってきたみたいなんだよ。それも俺ら合わせて五人分」

「…………は」

「聞こえなかったか? 五人分の豪華な昼飯がもう用意されてんだよ」

「……それは、わたしも含まれてる?」

「当たり前だろ。お前、友達なんだろ娘さんと」

「…………友達を作った覚えはない。相手の勘違い」

「だとしてもだ。それに俺に断る勇気はない。名前はたしか――」




 ※ ※  ※




 慣れない真似をしている、ナヤカはそう自覚していた。


 アサガオが顔を並ばせて見守る観察池。

 滑り台やジャングルジムなどアスレチック施設のような遊具の豊富さが目立つ中庭。

 話し声一つしない静けさが背中を痒くさせる送り迎えの場である正面玄関。


 足をたまに滑らせながらも、ナヤカはまだ記憶があやふやな園内を駆け回った。

 背中を押してくれた友のためにも、ナヤカは走った。


『彼女は手鏡で顔を確認する習性がある。人目のつかないところを探せ』


 走ったところで自分の目的が達成される保証はない。

 それでも、走らずにはいられなかった。


 蚊人生においても数少ない数週間の人間人生においても、こんなことはなかった。


 正確に言えば、経験してこなかった。


 逆立ちしても勝ち目のない秀才と生まれた時期が被っていたから。

 種族のためと言い聞かせて、事実上の『敗北』を受け入れてしまったから。

 必要なモノ以外は何も要らないと、勝手に切り捨ててしまっていたから。


 初めて相手から好意をもらった友達を失うことがこんなに怖いと思わなかったから。


「み、見つけた……」

「な、な……ナヤカちゃん⁉ どうしてここにっ……⁉」


 女子トイレの個室。

 閉ざされた扉を指の力でよじ登ったところに便座に腰掛ける赤羽由里はいた。


「ご、ごめんなさい……。わたし、貴方に……ひ、酷いことを……はぁ」


 身体と声を震わせながら、懸垂の要領で扉を必死にしがみつく。

 肺が苦しくて息がままならない、傍から見たらまんま変質者だ。


 けど……。


「許されないかもしれないけど……はぁ……また一緒にお話しがしたくて……はぁ……」


 ナヤカは息を乱し涎を垂らしながら懇願するようにそのままの気持ちを吐露した。


「え……それを言いにここに?」

「はぁ……それと、競技、出番だから……はぁ……呼びに来た……!」

「わ、分かったから、一回手を離してぇ~!」


 由里は顔を頭のハチマキと同じ色に染めて、必死に抵抗の訴えを叫んだ。


「イエスというまで、離すつもりは……」

「そういう問題じゃなくてぇ!」

「では、どういう問題だと……ん?」


 目を凝らしてよく見ると、由里の履いている膝下まで丈のある園指定の半ズボンは肌色に着色されており、まるで肌色の長ズボン、もしくは生足のように見えた。


「……離そう」


 それが後者と気付いた際には、さすがのナヤカも扉から指を離した。


 濁流が過ぎ、

 個室から出てくるであろう友人にかける適切な言葉をナヤカは考え出せずにいた。


 謝罪、心配、方便……結局ナヤカがあてがったのは安全策の択。


「えと、調子は……どう?」


「……女のコにそういうこと訊いたらイケないんだよ」


 当然のように地雷を踏んでしまった。


 個室から出てきた由里は、自分がされたことを客観視することができたのか、ナヤカのその場しのぎの質問もいつもとは違う落ち着いた声色でナヤカを制した。


「ごめんなさい。今度からは言わない」


 目には見えない沸々と湧き出る怒りを買った気がして、ナヤカは誠心誠意に謝る。


「前々から思ってたけど、ナヤカちゃん。そーいうところある」

「ごめんなさい。……ちなみにどんなところ?」


 治していきたいと誠心誠意、思っている。本気で。


「普通に考えてのふ・つ・うの部分!」

「ふ?」

「うん。ふ・つ・う」

「ふ……普段通りの生活を心掛ける?」

「当て字じゃない! ナヤカちゃんが分かるまで、分からなくていいよ……もう」

「ごめん……」


 由里は心の底から自身のボキャブラリーのなさに反吐が出るほど嫌気が差した。

 フリでなくとも、大したボケをかますことのできない自分を。


「本題に移ろ……由里、出番はまだ先だと思うんだけど」

「出番が増えたんだよ」

「だれかおなか痛くなっちゃったりしたの?」

「みきちゃんとゆかちゃんが……」

「……あの二人」


 由里は顔を俯かせて、元気を吸われたように眉と頬を下げる。


「心当たりが?」

「……ううん。知らない」


 けれど、その不穏な表情はすぐに元に戻って、首を横にふわんふわんと振る。


「そう……。なら、覚悟を決めるしかないね」

「由里が代わりに出ればいいんでしょ? そんなのお団子さいさいよ」

「お団子さいさい?」

「知らないの? お団子さいさいって言うのはおやつのお団子を食べるまでも……ハッ」


 鼻にかけて自信満々に語らっていた由里は、途中ハッと両手で口を噤むと、話を途中で止め、こちらを怪訝そうな顔で見つめる。


「……続きは?」


 ナヤカは上目遣いで見つめながら、至極当然のように耳を傾けて続きを待っていた。


「じ、自分で調べてよねっ!」


 由里は切り離すような冷たい態度を取って突き放す。

 歩幅も早めて、物理的にも距離を取りながら。


「教えてよ~」

「いやっ! 由里に近寄らないで!」

「でも、一人でお団子さいさいなら……安心、したよ」

「え、ナヤカちゃんと由里の二人で出るの?」


 由里は突如として勘のいいガキを体現する。


「え、そうだけど……どうしてそれを? ペアがいいって通じたかな?」

「そ、そんなことに由里を巻き込まないで! 今回は二人足りないから特別だけど……」


 顔を俯き次第に声が小さくなっていく由里に、ナヤカは意識的に自身の感情を見繕う。


 伝わらないなら、伝わる努力を。


 これでもかと、思いっきり固まっていた顔の神経を動かして、伝えるだけを意識して。


「そう、二人で。由里ちゃんとわたしの二人でなきゃ出られない競技に」


 ナヤカは不器用というにはあまりに乖離した表情を見繕いながら、右手を差し伸べた。


 この手を取ってくれることを、選んでほしくて。


「あ、いま名前呼んだ」


 けど、そんな勇気の舟もひっくり返るほどの後悔の波はすぐに押し寄せてきた。


「……前から呼んでるよ」

「照れ隠しいいからぁ~」


 一応、心の中では何度も呼んでたから。


「~~~っ! ほ、ほら、行こ」


 呑気に笑いかけてくれた友人の手を結局自分から強引に取ると、ナヤカは駆け出した。


「由里をどこに連れてくの~。そっち校庭じゃないよ~」

「ごめん、道間違えたっ!」


 想像もつかない、知る由もなかった、

 わたしの知らないこれからの世界へと駆け出して……。

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