第3話 混迷


 放心状態になっていた小人も数分のうちに身体を起こしていた。

 その要因は、三大欲求のうちの一つである食欲。


 小人は両腕を床について物色するように鼻でせんべいを嗅いでいた。

 だが、一向に食べる気配がない、何分か経つだろうというとき、遂に小人は動いた。


 指で触るとザラザラとしたせんべいの断面の感触に驚いたのか、一度身を引くもおそるおそると近づき、両手で掲げるように割れた中粒程度のひとかけらを持ち上げた。

 そして、ベタベタとするせんべいの表面を触った手を指で軽く舐めた後、眉を一度上げ、勢いのまま大きく口を開いてせんべいの欠片にかじりついた。


 モグモグモグ。


 まるでそんな効果音が聞こえるかのように頬の出っ張り具合から分かる食べ具合。

 醤油せんべいだったから口が渇くかもしれないと思い、水を入れる。


 もちろん俺はできた大人なので、コップではなく、ペットボトルの蓋に入れた。


「いらん」

「え、喉渇かない? もうそれで持ってきた分最後なんだけど」

「食えるものならなんでもいい。私は昔からそう教わって生きてきた」

「なんだろう、軍人さんに飯を与えてる気分になるね」


 あっという間に小人は持ってきたせんべい4枚を平らげてしまった。

 俺と距離を保ちながらも、満足した素振りから人間と胃袋の量は根本的に違いそうだ。


「人間は、ほかに何が食えるのだ」

「俺が好きなのはカレーライスと寿司だ! 子供っぽいっていうのはなしな~」

「どちらも聞き覚えのないものだ。大抵のものは食えるのか?」

「俺は舌が肥えてるから高級なものしか食べられないぞ。お前も人間になるのは初めてだろ? 長生きしたいなら腐ったものとかは食うのはやめとけ」

「いいや、私はすべてが初めてだ。この言語もこの身体もこの味覚もすべてが」

「その紛れもない言語能力は最初から話せていたのか? それとも俺が独り言……じゃなく、会社のお偉いさん方とやり取りしている会話を聞いて学んだのか?」

「特に変わったことはしていない。話し方もいつもと同じようにしているだけだ」

「じゃあ、やっぱ俺の血が何らかの作用効果があるっつーことか」


 ついに目覚めたか、俺の血が。

 首を傾げ顎に手を添えるも、そんな自尊心に満ちた言葉一つだけが頭に浮かんだ。


「心当たりは本当にないらしいな」


 こいつ、俺の心を――⁉


 なんてテンプレートな台詞も吐いてみたいが、床に寝転がっていては説得力も薄れるだろう。なにより、星石宅浪には、好奇心というものが既に剥がれ落ちてしまっていた。


 だから、身体を起き上がらせる気力も湧かない。


「もう、勝手にやってくれていいぞ。どうせお前はこっから八十〇年生きるんだしな」

「まるで呪いだな。貴様の退屈っぷりな理由もうっすらと理解できた気がするぞ」

「呪い……か、そういうふうに言う人間もいるな。俺はもっと気楽な人間だけど」

「違いないな」


 私という存在を教えるために、昔話をしよう――。


 そう改まって口を開いた小人は、ついこの間あったであろう昔話を始めた。


 私は、ここから数千キロ離れたW1204区という水田地帯で育った。

 そこは、まるでガラスみたいな綺麗な水面を下から眺められる心地の良い場所で、

 私は、ほかの場所のどこよりもここが日本一美しいと思っていた。


 種族としての責務を果たす前、水面で生活していることがほとんどだった我々はそこで母様から様々なことを教わった。

 この場所は母様の聖域であり、母様にしか選ぶことのできない場所であるということ。

 綺麗な水を好む者も入れば、泥で濁った水を好む者も入る。

 それが、個性というものであり、受け入れることが私たちには必要なのだ……と。


 そうして巣立った、私たち四十〇三名は母様の想いを胸に責務を全うするのだ。


「だから、私は決めたのだ」

「え、なにを?」

「耐え難い個性も受け入れ、本来の姿に戻るまで、貴様に粘着することをだッ!」


 小人はまたも、猫も飛び起きるくらいの声量で渇を吐いた。


「だから俺は何も知らないよー? 元に戻る方法。種族の責務を果たすだか、なんだか知らないけど、うちの家庭の食費の無駄だから出て行ってもらえる?」

「味覚が変化している影響で、人間が口にする食べ物にしか味が合わないと思われるぞ」

「え、なんで俺が飼う前提になってんの? なんなら、世間に突き出して賞金もらおうと思ってたんだけど? ツチノコと同じくらいもらえるかな~って」

「飼うつもりで捕獲していたのだろう? 何を心変わりしている」

「いや、だって……」

「だって、なんだ。申してみよ」


 人間だれしも、こういう瞬間くらいあるだろう。


 難儀な問題に直面した時。

 楽しいと感じていたものに味を感じなくなった時。


 その瞬間、途端にプツンと、糸が切れるみたいに関心を失ってしまうんだ。


「だって……お前、ウザいんだもん。働け、働けって。思想が固まっててさ」


 脂っこく、しつこく。宅浪は飼育をするしない以前の鬱憤を吐露した。


「それは……そうだろう。働かなければ食い物も手に入らない」

「お前ってなんでそういう堅苦しい慣用句っぽい知識だけはあるの? 腹立つなー」

「すべて母様の入り知恵だ。七度転んでも勇敢な者は八度起き上がるのだ」

「それ、ちょっと解釈違うだろ」

「困ったな。私は嫌味を言っているわけではないのに」

「ほら、いま――」

「どれだ⁉」


 宅浪が唾を飛ばす前にサヤカは鬼気迫る様子で尋ねた。

 それは……と頭がなまくらみたいに重くなったところ、サヤカは紅一点で俺を見る。


「では……グチグチ言わなければ、よろしいか?」


 余計に頭が痛くなるような、敵意の見当たらない真剣な眼差しだった。

 俺はポリポリと頭を掻きながら、ベッド上で律儀に正座した小人に視線だけを向ける。


 新聞紙を切り取った一部をバスタオルのように巻いた仮物の衣服から白い膝が輝いている。まじまじと見たのは初めてだが、本当に芸能人の誰かをデフォルメ化したフィギュアみたいな身体つき……親指と人差し指でつまむだけで太もものハリは感じられるだろう。


 そんな、ニッチで冒険性のある性的搾取だって頼めばできそうだ。

 でも……。


「……やっぱりダメだ。俺は君を受け入れられない」


 宅浪は薄笑いしていた顔を途端に強張らせて拒否した。

 視線を横にずらして、子供が親に叱られた時のような負い目を感じてるみたいに。


「私は好みではないか?」

「そういう問題じゃない。俺には責任を負い切れないって話だ」


 それは、小人が話してくれた『誓った覚悟』に堂々と向き合うように。

 まっすぐに、宅浪はサヤカの瞳を見て、その言葉を捻り出した。


「貴様が責任なんぞという言葉を持ち出すとは。立場と台詞が合ってないぞ」

「…………」


 サヤカの当然の指摘に、宅浪は口をつぐみ、下に目線を下げる。

 正直にやりたいことをやり、達成してきた成功者にはきっと、矛盾した俺が映る。

 不格好で、何も成し遂げることのできなかった、落ちこぼれが映っているはずだ。


「余裕がないのは良くない……と私は思うのだ。それは、冷静な判断に欠ける」


 俺に応えるように、サヤカは真摯にそう答えた。

 そして、俺の表情を見ながら言葉を続ける。


「だから、考える時間は与えてやる」


 捕獲され、姿を変えられ、憎むべきはずの相手に気遣うような言葉を、俺に与えた。

 それが懐かしくて、どこか心地よく感じている自分がいた。


「……それまでは、ここにいるってこと?」

「瓶に入れば問題ないか?」

「いや、入らなくていい。カーテンと窓は閉めておくから」

「……本当に分からない奴だな、貴様は」


 サヤカの顔が呆れたような、生易しいものになったのをきっかけに宅浪は顔を上げる。


「俺だって」


 どうしてこうなってるのか、一ミリも分かんねーよ……


 ※ ※ ※


 そして、翌日の夜。


「……本当に?」


 サヤカは訝しげに天からこちらを見ながら、尋ねてくる。

 この場合、天は天井の天だが。


「ああ、本当だ。ここに住んでいい。俺としても今となっては助かった気分だよ。なんせ、昨日は通常の何百倍もデカい蚊が夢の中で俺を食い殺そうとしてたんだから」

「そうか。急かしたつもりはなかったが……それでいいのだな?」


 サヤカは確認するように俺に尋ねてくる。

 昨日の俺の雰囲気からしばらく日数を挟むと思っていたのだろう。中途半端な決断だけは許さないと、サヤカの瞳は訴えているようにも見える。


 やっぱりやーめたなんてこの期に及んで言うわけないだろ? 男に二言はないから。


「居候したい側がそんな弱気なら断るぞ。代わりに条件は付けるからな!」

「なんだ、その条件というものは」


 本当なら何個でもつけて服従させたいところだが、まずはからだ。


「俺以外の人間に認知されるな。それがここに居候していい条件だ」

「イエッサー‼」


 蚊がそんな敬礼どこで覚えるんだというくらいの歩兵顔負けの整った敬礼。


「それと、俺がいないときは言葉を発するな」

「ラジャー‼」


 どっちだよ。


「それと、外出はするな。自分がツチノコという意識を持て」

「ツチノコ……というのは分からないが、飼い主の言う通りにしよう」

「まあ、このくらいだ。以上のことを復唱してみろ」

「外には出ない。貴公が留守の時は言葉を発しない。貴公以外の人間に姿は晒さない」

「そう、その三つだ。その三つを守らないとお前を食っちまうからな」

「しばらくの間、よろしく頼む」


 真摯に頭を下げるサヤカという名の蚊は、誰に対しても礼儀正しい奴なのだろう。


「え、あ、ああ……」


 宅浪も流れるままに頭を下げる。

 だけど、頭を下げた自分は外出用の皮を被っていた自分であることを理解していた。


 こういうなんでもできるマンが一番、腹が立つ。


 こうして星石宅浪は、めでたく蚊らしき小人らしき未確認生物を飼う羽目になった。


「して、貴公の名はなんと申す?」

「……宅浪だよ」

「承知した、浪人」

「おい、わざとだろ」


 浪人はしたことないから。新卒六年目だから。


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