第2話



 ――「『真中ヒロト』なんて人、昔の知り合いにいたかもしれないけど……し、知らない! 覚えてない!」

 それを言われたのは、午前中のことだった。


  ◇


 ゴールデンウィークも過ぎ、新しく赴任した私立汀目みぎわめ高校での生活にも慣れてきた。結構なマンモス校ということもあり、養護教諭の仕事もさぞ多かろうと思いきや、その予想はいい意味で裏切られたためだろう。

 今時の悩み事は動画サイトやSNSであらかた解消できるのか、来るのは軽い怪我で絆創膏ばんそうこうを貰う程度で、後はサボりでベッドを占領する不健全に健康的な生徒が関の山だ。


 今日もそんな生徒達がやって来るだろうと思った矢先、ガラリと保健室のドアが開いた。


「こんにちはー」


 生徒数が多く、また自由な校風をしているためか、風変りな髪色やド派手なファッションをしているのをまま見かけるが、その中でも特に目を惹かれざるを得ない女子生徒だった。


「頭が痛いので、ちょっと横にさせてください」


 ピンクブラウンで巻きの効いたツインテール。ふんわりと揺れる合間からは、星型の大ぶりなピアスが覗いている。スカートは校則違反ギリギリを攻める、レトロスタイルのギャルだった。

 容貌ようぼうは大きく変わってしまっていたが、俺には見覚えのある顔だった。


「あれ、もしかして……なつめちゃん?」

「……茨砦いばらとりでなつめだけど」

「やっぱりそうだ。俺だよ俺、真中ヒロト。昔、家が隣だったでしょ」


 その昔、この辺りに住んでいた頃のことだ。家が隣で親同士の仲も良かったこともあり、よく預かっては一緒に時間を過ごした女の子がいた。


 その子の名前が――茨砦なつめ。

 「おにいちゃんとケッコンする!」なんて言っていたっけ。


 あれから少なくとも十年は経っているが、特徴的な八重歯やツリ目も変わっていなかったため、つぶさに彼女だと判別がついた。

 そうか、もうそんなに大きくなるほど時間が経ったのか。どうりで俺もアラサーになるわけだ。


「『真中ヒロト』……」


 なつめは反芻はんすうするように名前を口にしたかと思えば、つかつかと空きベッドへと歩み寄ると、そのままカーテンを閉めてしまった。


「あ、あれ……?」

「し、知らない!」


 返ってきたのは、にべもない一言。


「『真中ヒロト』なんて人、昔の知り合いにいたかもしれないけど……し、知らない! 覚えてない!」

「そ……っかぁ」


 思えば、十年も経つ話だ。名前こそ覚えていたとしても、幼少期の知り合いだった成人男性とどう関わっていいのか分からなかったとしても、なんら不思議ではない。自分事で考えれば、どれだけ気まずいことか。


「いや、忘れてください。茨砦さんにも悪いことをしました。すみません」


 些細なことが人を傷つけ、ハラスメントとなる世の中だ。不用意なことをしてしまった、と内心で猛省する。丁寧な口調で、襟を正したことが伝わればいいのだが。


「頭痛薬は常備があるので、必要であれば言ってください」

「…………っ」


 閉め切られたカーテンの向こう、息が震えたように感じたのは、気のせいだったか。


 ――これが走馬灯の前半部分。


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