兎崎虎子の場合

「お姉ちゃんのようになってはいけないよ」

「あの子のようにならないでね」


 兎崎とざき虎子とらこが物心ついたころから両親に言われるようになった言葉だ。

 姉とは年が離れていて、虎子が物心つくころには小学校を卒業していたくらいだから、そのころにはもう姉は両親に反発していたのだろう。

 虎子は姉のようになるなと言われ続け、ずっと両親の言う通りに過ごしてきた。

 でも本当は姉のように自由に学校の友達と遊んだり、ゲームセンターに行ってみたり、買い食いなんかもしてみちゃったりしてみたい。もう少し大きくなったら髪だって染めてみたいし、アルバイトもしてみたい。

 けれどそれを一人でやるのは虎子には無理だった。

 両親の言うようにお受験して入った学校はクラスメイトもみんな真面目でいい子ばかりで、学校から帰ってもすぐに塾がある。塾には送り迎えがついているし、家では学校と塾の宿題がたくさんあって遊ぶ暇なんてない。遊ぶ友達もいない。


「わたしもおねえちゃんみたいに友達と遊びたい。進学校なんて行きたくない」


 一度だけそう親にこぼしたら、頬を張り飛ばされて怒られたことがある。

 だから虎子は黙って両親に従うしかなくなった。

 小学校に上がってからも、きっとこれから学年が上がって卒業しても、中学校に行ってもずっとそうなのだろう。

 虎子という名前だって、姉と一字違いだ。姉のようになるなと言うのならもっと違う名前を付けたらよかったのに。名前の由来だって寅年生まれだからという安直な理由だ。

 本当に両親に愛されているのか疑問に思うことがある。

 そう思うとついため息を吐いてしまう。

 大好きな姉のように、たくさん笑って、たくさん遊んで、たくさんの友達と過ごしたい。たったそれだけのことなのに。


(どこか遠くへ行きたいな。パパもママもいない、遠いところ)


 そんなことを考えていたから罰が当たったのだろうか。

 気が付いたら虎子は知らない場所にいた。

 訳もわからないうちに檻に入れられ、たくさんの変な影に囲まれ、気付いたらまた暗い箱の中に入れられていた。

 ずっと箱の外で声がする。虎子には難しくてよくわからないが、買うとか売るとかいう話をしているようだ。

 背負ったままだったランドセルをお腹の方に持ってきてぎゅっと抱きしめるように抱える。

 真っ暗で狭くて息苦しい箱の中は恐ろしい。


「おねえちゃん……」


 じわりと涙があふれる。あまり泣いたり笑ったりしない子どもな虎子でさえ、流石にこの状況はつらかった。

 流れ出そうになる涙を手の甲で拭ってぎゅっと目を瞑る。

 そのうちどこかへ移動させられているようなガタガタとした揺れが治まった。

 誰かが外側から軽く箱を叩いているような音がして、虎子は身を縮める。

 ゴトゴトと先ほどとは違う揺れ。

 身構えていると不意に頭上の面が開いたのか、明かりが差し込んだ。

 久々の明るさに虎子は目を細める。

 じんわりと目が慣れてきて――虎子は、大型の獣と目が合った。


「ひっ」

「おっと」


 大型の獣が喋ったことに驚き、虎子は目を見開く。

 よくよく観察するとそいつは人間のようなシルエットをしていた。なんならスーツに似た服さえ着ている。

 顔は完全に獣だ。黄みがかった毛色で黒い縞模様が入っているので虎に似ている。頭の上には丸っこい耳がぴるぴると動いているのが見えた。

 鋭い猛獣の瞳は理知的で、虎子は名称を知らなかったがモノクルをかけている。

 スーツに似ているが普段着のように軽そうな灰色の服だ。育ちがよさそうなセンスの良さを感じる。

 だが着ているのが人間ではなく獣の顔をした二足歩行の生き物なので虎子には違和感が拭えなかった。

 怖い。

 体長は箱の中に座り込んでいる虎子がほぼ真上に見上げるほどに大きい。座っているからというわけでもなさそうで、横幅だってがっしりとしているのがわかる。

 恐怖に縮こまった虎子を見て、そいつは喉の奥でぐるぅと唸った。

 ひっ、と虎子は更に身を小さくする。


「た、たべないで……」


 ガタガタと震える虎子を見下ろしてそいつはなにを思ったのだろう、ゆっくりと身を屈めた。


「失礼、リトルレディ。私は貴女を食べたりはいたしませんよ」


 そいつは丁寧な口調で囁くようにして喋った。

 虎子はわかる言葉で喋り出したことに驚いて後退ろうとし、箱にぶつかった。


「ああ、逃げないで。大丈夫ですよ、貴女を傷付けたりもいたしません」


 そっと目の前に手が差し出される。爪はないが、やはり毛が生えた大きな手だ。毛色は顔と同じ黄みがかって黒い縞の入った模様。柔らかそうな真っ黒な肉球が見えた。

 いや、よくよく見れば爪もある。猫のように引っ込んでいるのかもしれない。

 虎子は大きな手とそいつの顔を交互に見る。

 声は優しくて、父親より軽やかな印象。塾の先生のように怒鳴ったりしないように見えた。

 しかし手を取ることは恐ろしく思えてできなかった。

 じっと身を竦めてランドセルを抱えていると、そいつ――彼は小さく息を吐いて「失礼、」と言った。


「え?」

「少し触るよ」


 そう言って彼は虎子の両脇にふかふかな手を入れてひょいと持ち上げた。

 虎子がぱちくりと目を瞬いている間に、虎子の身体は箱から出されて床に降ろされる。

 その動作が終わると彼はサッと手を離して一歩下がった。

 久しぶりに自分の足で立っているので少しだけふらふらする。彼は心配そうに虎子を見下ろしていた。

 正面に立つ彼はやはり背が高く、大きかった。


(パパより、先生たちより、おっきい……)


 気持ち、ランドセルを盾にしつつ見上げると首がほぼ真上に向くようになるほどだ。

 すうはあと何度か深呼吸をして、そっと周囲を見回してみる。薄く青い色の壁紙、分厚い本が並ぶ本棚と机、それからたくさん入りそうなクローゼットなどの家具が並ぶ。家具は落ち着いた色で統一されていて、ゴミ一つ落ちていない清潔な空間が保たれている。

 天井を見上げれば淡い間接照明のような色で光る丸いものがぷかぷかと浮いていた。

 本の背表紙に書かれている文字らしきものは読めない。

 本当に、ここはどこなのだろう。

 虎子が不安になって眉を下げると、正面から小さく咳払いが聞こえた。ぱっと視線を彼に戻すと、彼はゆっくりとした動作で床に膝をついて虎子に視線を合わせた。

 胸に手を当て、目礼する様子は獣だけれど獣には見えない。


「私の名前はチグレ。獣魔ビス・フェルのチグレと申します。リトルレディ、貴女の名前を伺っても?」


 丁寧な態度で彼――チグレは頬を上げた。鋭い牙が剝き出しになって恐ろしさが増す。もしや、笑顔のつもりなのだろうか。

 虎子は後退りたいのをぐっと堪えて、顔をランドセルに半分埋めながらチグレを見た。


「……虎子。兎崎、虎子……」

「おお、トラコ。愛らしい名前だ」


 にこにこ(多分)とチグレは笑って頷く。顔は怖いが動きはなんだかコミカルで、本当に虎子を食べるつもりはないのかもしれない。ぴるぴると動く丸い耳も可愛らしいような気がしてきた。


「ちぐれ、さん。ここはどこ? おねえちゃんは?」

「かっ……、こほん、ここは魔界スィスィア・サアーダの私の家、私の部屋。おねえちゃん……は、私にはわかりません、申し訳ない」

「……おねえちゃん……」


 ぎゅうとランドセルを抱きしめる。かしゃりと側面に付けられた猫の防犯ブザーが音を立てて揺れるのが見えた。去年、入学祝いと言って姉に貰った可愛いトラ猫だ。

 鳴らす気力もなく、虎子は床にしゃがみ込む。

 ししあさあーだなんて聞いたこともない。びすふぇるがなんなのかもわからない。

 ただ、姉が近くにいないのであろうことだけは理解した。


「おねえちゃん……」

「……トラコ」


 じわりと瞳に涙が浮かぶ。

 チグレが慌てたように窺っているのがわかったが、虎子に気遣う余裕はなかった。


――お願いします、神さま。どうかどうか、おねえちゃんに会わせてください。もうパパとママにくちごたえしません。いい子にします。だから、おねえちゃん、たすけて。


 かしゃん、またトラ猫の防犯ブザーが音を立てて揺れた。まるで虎子を慰めているようだった。

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