火縄銃(たねがしま)が変えるこれからの戦

 天文十七年十二月末――、尾張を鈍色にびいろの空が覆う。

 まもなく一帯は、雪に包まれるだろう。

 尾張の気候は年間を通して温和で降雨は夏季に多く、冬季に少ない。

 渥美半島あつみはんとうと知多半島南部は黒潮の影響を受けて温暖のようだが、北東部の山間地域はやや冷涼れいりようで、気温の較差こうさがかなりみられるという。

 濃尾平野の北西から西にかけては、伊吹山地いぶきさんち養老山地ようろうさんち鈴鹿山脈すずかさんみやくなどがあり、冬季には大陸方面からの季節風が吹く。

これが伊吹おろしというもので、雪をもたらす。


 そんな寒天かんてんに、鉄砲の音が響き渡った。

 このとき信長は曲輪くるわ(城の内外を土塁どるい、石垣、堀などで区画した区域)の一角で、鉄砲の試し打ちをしていたのである。

 彼が撃った弾に、片膝をついて控えていた恒興が称賛した。

「お見事でございます」

世辞せじを言うな、勝三郎。中心を外した」

 小姓の一人から手拭いを受け取った信長は、そう言って軽く舌打ちをした。

 信長としては、的の中心ではないと満足できないのである。

 射撃の腕を磨くだけならいいかも知れないが、敵を倒す武器としてなら一発で仕留めねばならない。


 天文十二年――、大隅国おおすみのくに(現在の鹿児島県の東部)・種子島に南蛮船が漂着したという。この船に乗船していた南蛮人が火縄銃という銃器を持っていたという。

 俗に言う、鉄砲伝来である。

 それから一年後――、室町幕府十二代将軍・足利義晴あしかがよしはるより見本の銃を示され、近江国・国友村(現在の滋賀県長浜市国友町)で造られたのが、国内製の始まりとされる。

 俗に火縄銃は伝来地の名を冠し、「たねがしま」と呼ばれている。

 しかし大名たちは、これを武器としては重く見なかったようだ。

 火縄銃たねがしまは、火薬と弾丸を装填して発砲するまでに数泊かかり、しかも一発ずつしか撃てないのが難点だった。これでは発砲の準備をしている間に、敵が迫ってきてしまう。

 ゆえに他国では火縄銃たねがしまはまだ威嚇に使われる程度で、戦では使われることはないらしい。

 しかし火縄銃たねがしまいくさで取り入れれば、刀や弓よりも遠距離まで攻撃でき、威力もまさっている。撃ち方さえ覚えれば、足軽でも撃てるだろう。

 信長の父・信秀は、鉄砲伝来の四年後に信長に鉄砲を習わせ始めた。

 おそらく父・信秀も、これからの戦に必要になると思ったのだろう。


 そんな信長たちの前に、来訪者を報せる臣下が片膝を付いた。

「申し上げます! 橋本一巴はしもといつぱどのが、殿に御目通りをとお越しになっております」 

 橋本一巴とは砲術家であり、信長の鉄砲の師である。

武芸について、信長には三人の師がいる。

 弓を市川大介、兵法を平田三位、そして鉄砲の師が橋本一巴である。


 

「ご無沙汰しております」

 他の家臣同様、小袖に肩衣という姿で現れた一巴は、片膝をついて頭を垂れた。

「ここ数年来なかったゆえ、他家にでも召し抱えられたかと思っていたぞ」

「国友におりました。かの地は、鉄砲鍛冶てつぽうかじがおりまするゆえ」

 国友は今や、鉄砲造りが盛んな地だという。

 砲術家の一巴いわく――、種子島に二挺の鉄砲が伝来した天文十二年、そのうちの一丁が、島主である種子島時尭たねがしまときたかから、主家にあたる薩摩(現在の鹿児島県西部)守護・島津義久しまづよしひさに渡ったという。さらに義久によって、将軍の足利義晴に献上されたようだが、これからさらに家臣・細川晴元に話がいったという。

 そしてさらに、北近江国の守護・京極氏に話がいき、ようやく国友に鉄砲制作の話がきたらしい。実に、将軍・義晴の鉄砲制作命令から一年後のことだったという。


 国友と聞いて、信長は閃いた。 

「それは好都合だ」

「――と申されますと?」

火縄銃たねがしまを、数百挺すうひやくちようほしい」

 信長の注文に恒興は唖然としていたが、一巴は苦笑しつつも承諾した。

「鍛冶衆に依頼すれば可能ですが」

数百挺の火縄銃たねがしま――、いずれ家臣たちが使いこなし、戦で役に立つ日が来る。

 信長は、そう信じていた。


 そんな信長の耳に、近くにた織田家家臣・林秀貞はやしひでさだ、その弟・林通具はやしみちともの声が聞こえてくる。


「また妙なモノに……」

「やれやれ、困ったお方よ」


 陰口にしてははっきりと聞こえてくる林兄弟の声に、恒興は二人を睨みつけていたが、信長にすれば陰口を叩かれることには慣れていた。。

織田家(弾正忠家)家臣は信長を次期当主と推す者と、末森城にいる信長の二番目の弟・信行のぶゆきを次期当主に推す者との二つに割れている。

 それは信長が奇抜きばつな風体で城下を彷徨うろつき、城は抜け出すなど自由気ままな行動ゆえらしいが、この那古野城でも信長に反感をもつ家臣はいる。

 その代表が、林秀貞兄弟である。

 信長は、聞こえてくる家臣からの悪評を無視しているが。

  

「無視しろ。勝三郎」

「ですが……」


 信長は再び、射撃をはじめ、紺碧の空に銃声が轟く。

 城内に戻ろうとしていた林兄弟は、その音に蹌踉よろめく。

 彼らを威嚇したわけではなかったが、さすが最新の火縄銃たねがしまである。


◆◆◆


「――今日も、お元気でいらっしゃる」

 那古野城の一室にて、臨済宗りんざいしゆうの僧侶にして信長の教育係・沢彦宗恩たくげんそうおんは苦笑した。

 この日宗恩は、信長の傅役・平手政秀に呼ばれ、那古野城に来ていた。また問題でも起きたかと案じてきてみれば、二人がいる座敷まで鉄砲の音が聞こえてくる。おそらく撃っているのは、信長だろう。


「悠長に笑うている場合ではありませんぞ。宗恩どの」

 平手政秀はそう言って、眉を寄せた。

「美濃との和睦は大殿(※信秀)のご意思とのこと、これが成功すれば尾張にとって幸いとなりましょう」

「それはわしも、そうなればよいと思うておる」

 政秀は茶をてつつ、悩まし気な顔をしている。

「平手どのは気が進みませぬか?」

「相手は蝮の道三、言葉通りに受けて良いものか……」

 美濃の梟雄きようゆう(強くあらあらしいの人)・まむしの道三――、人は彼のことをそういう。

もともと美濃の主ではなく、美濃守護・土岐氏に成り代わり、下剋上を成して美濃の主となっという。

 信秀の和睦に対し、その相手・斎藤道三は娘を信長に嫁がせようと言ってきたという。


「美濃とて、この和睦が成功すれば徳となりましょう」

 政秀が点てた茶を受け取ると、宗恩はゆっくりと茶碗を回した。

「宗恩どのは、若こそ弾正忠家の跡取りとお考えか?」

 話題が信長の話に変わり、口に茶碗を運びかけていた宗恩は視線を上げた。

「意なことを申されます。平手さまは、信長さまの傅役でございましょう」

「わしとて、若に弾正忠家を継いでほしい。だが、若の素行は良くはならぬ。家臣たちの心も揺れておる。わしがいくら推したとて……」

 苦渋の色を浮かべる政秀に、宗恩は口を開いた。

「信秀公はなんと?」

 宗恩の問いに、政秀が首をふる。

 信長の次期当主の素質を問う者が多い中、父である信秀は口を挟んで来ることはないという。

「――ならば、信長さまに任せられませ」

 

 宗恩は武将ではなく僧侶である。殺生は好まないが、世は群雄割拠ぐんゆうかつきよの戦国乱世。

 弱きものは、強きものに飲まれる時代。

 ゆえに諸大名たちは、生き残るために知恵を尽くす。

 従属国となって生き残るか、それともその力を維持したまま近隣国と同盟を結んで他の勢力を防ぐか、または断固、孤軍奮闘するか。

 確かに織田弾正忠家では、次期当主を巡って家臣たちが揺れていた。

 信長の弟・信行は真面目で温厚、人望もあるようだ。

 だが信秀亡きあと、尾張を背負い大国相手に渡り合えるかとなると、宗恩は信長さましかいないような気がした。


「平手どの、現在の足利将軍家がどういう状態か知っておりましょう? 万が一、幕府が消滅することがあれば――、今川や武田などの諸大名は天下を取りに動きましょう。そうなれば、この尾張にも攻め込んで来ましょう」

 京の室町幕府の現状は弱体化し、将軍と言えどその地位は安泰ではないという。

 現在のところ、諸大名に足利将軍家に代わって天下人になろうという動気はないようだが、いつそうなってもおかしくないだろう。

 尾張にしても美濃と今川を敵に回し、両者と戦うのはいくらなんでも不利である。


「宗恩どの」

「信長さまを信じられませ」

「――美濃への返書、お願いできますかな?」

 政秀の言葉に、茶を飲み干した宗恩は「私で良ければ」と微笑んだ。

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