第四章 止まらない悪意

第21話 彼女の居ない場所で 彼の居ない場所で

 そこから俺は、一枚のガラスを隔てた世界を生きているようだった。

 普段通り受け答えはできている。普段通り息をしている。普段通り世界を見ている。けれどそれら全ての情報を一つのガラス越しから眺めているかのようにひどく現実感が無かった。

 

 けれど一つだけ現実と感じられることがある。学校の昼食で、購買で買ったモノを食べている時だ。

 彼女との一緒に過ごした時間の中で、彼女に料理を教えてもらったりして、最低限の自炊スキルを身に付けているが、どうしても料理をする気になれない。

 だから俺は購買でパンを買って、それを旧校舎の屋上で独りで食べる。


 涙を流しながら。だってどうしても彼女の手料理の味を思い出してしまうから。

 

 味のしないパンをもそもそと食べている。もはや食事は栄養補給の手段になり下がった。消しゴムでも食べているようだ。味覚が心と共に死んだのだろうか。

 いや、心は死んではいないだろう。

 彼女のことを思い出すたびに涙が流れてくるから。


「あぁ、会いたい……」


 もう会えないのに。そんな言葉が漏れて出てしまう。

 涙を流しているたびに思うのだ。

 この涙はいつか涸れてしまうのだろうか。そしてその時は彼女のことを思い出しても何も思わなくなってしまうのだろうか。そんなことを考えてしまう。


 あり得ないことだと今は言える。

 けれど十年、二十年経った後にも、同じだけの力強さであり得ないと言えるだろうか。

 分からない。俺にはもう分からない。


「戻るか」


 俺は教室へと戻ることにした。

 そろそろ授業だからだ。



 □



 授業が終わり、放課後。俺はまっすぐ家に帰ることにしている。

 彼女と出会う前ならば一人でもラーメン屋に行けていただろう。けれど今はダメだ。どうしても彼女と一緒に食べたラーメンの味を思い出してしまう。

 ソレと比べるとどんなモノもまるで食品サンプルを食べているかのような、味のしない物を食べているような気分になってしまうからだ。


 家に帰ったらやることは課題だ。

 無駄に発達した頭脳で手早く終わらせ、後はぼーっとテレビを見る。

 もう何もしたくなかった。

 自分の部屋を見回せば、少し散らかっている。

 もともと掃除は好きな方だった。一人でいたときは鼻歌を歌いながら掃除機などをかけたものだ。

 でも今はそんな気力もない。

 ぼーっとテレビを見ていると、少女の姿が映った。


『稀代の天才発明家『戸崎真鈴』特集! 彼女の輝かしい功績を――』


 反射的にテレビを消していた。

 もし画面越しであっても彼女の姿を見れば、きっとこらえきれないからだ。

 俺はこんなにも弱くなってしまった。彼女と出会ったからだ。

 彼女と出会わなければ、こんな思いもすることはなかっただろうか。


「やめろ!」


 独り、叫ぶ。

 ソレだけは認めてはならない。俺は彼女を『 』している。今までの思い出だけで、それ以前の人生の何十倍の価値がある。

 疑いようもないことだ。それを否定してはならない。今はただ失った重みが、俺の心を締め付けているだけだ。

 

 必死にそう考えて、故にこう思うのだ。

 いっそこんな世界を滅ぼしてしまおうかと。

 彼女と添い遂げるのを、身勝手な都合で邪魔をする各国の首脳。そして彼らをそうした複雑怪奇な国際情勢。

 それら全てをまっさらな白紙に戻す手段が俺にはある。俺の頭の中に。

 実現まで十年はかかるだろう。でも逆に言えば十年かければできるのだ。やってみてもいいのではないだろうか。


 そこまで考えて、踏みとどまる。

 もしそこまでやったとして、彼女は受け止めてくれるだろうか。

 分からない。俺なら、俺のために世界を滅ぼすような人間をきっと軽蔑するだろう。

 そこまで考えて彼女の顔を思い浮かべる。

 

 でも彼女のやった事だったら、俺は受け入れる。彼女もそうだろうか? そう考えてしまうのは俺の傲慢だろうか。

 もう分からない。

 何もわからない。

 俺は味気ないカップ麺を啜りながら、一人で終わりない思考を続けるのだった。



 □



 私は仕事に精を出していた。

 いや、もっと厳密に言おう。

 仕事以外の全てを半ば放棄していた。

 食事は栄養補給食で手早く済ませ、睡眠は必要最低限。休日も研究に没頭する。

 

 彼のことを考えないようにするために。

 

 それでもふとした瞬間、考えてしまう。

 嫌われてしまっただろうか、と。

 ひどいことを言ってしまった。『会うべきでなかった』なんて。そんな言葉は死んでも言うべきではなかったのに。

 

 彼はまだ私を『 』してくれているだろうか。

 こんなにひどいことを言ってしまった私を。聞けばわかることだ。連絡を取って、直接尋ねれば。

 でもそんなことをしてどうなる? 結局会えないのは変わらない。電話だけでも世界が危険視して、私たちを抹殺しようと動くかもしれない。


 何よりも。

 直接彼に、言葉で『もう嫌いになった』などと言われてしまえば。

 私はきっと自害してしまうだろう。

 彼にそう言わせてしまった己への怒りと、最も大切な人に嫌われてしまったという絶望で。


 だから怖いのだ。

 連絡をすべて拒否しているのも、それが理由だ。

 彼に怒られてしまえば、私は自分を保てない。

 

 だから私にできることは、自室で独り泣きじゃくることだけだった。

 

「真鈴ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫だよ。放っておいて」

「でも食事も全然とってないし……」

「必要な分の栄養はサプリと栄養補給食で補えている。だから大丈夫」

「真鈴ちゃんの好きなラーメンもあるよ?」

「食べたくない」


 姉代わりの研究員が扉越しに心配してくれる。でも私に返せるのはひどくぶっきらぼうな言葉だけだった。

 もう他人を気遣っている余裕なんて私にはないのだ。


「真鈴ちゃん……」

「何」

「宗片君とは……」

「言わないで!!」


 まだ自分にこんな大きな声が出せるのか、と他人事のように思った。


「言わないで……」


 けどそんな感慨もすぐ消え去って、絞り出すようなか細い声が漏れ出る。


「ごめんね、真鈴ちゃん。私たちが無力なばかりに、世界に振り回されてしまって」


 私は何も答えられない。

 八つ当たりをする気力すら沸いてこない。私の家族ともいうべき研究グループは、皆いい人達ばかりだ。

 私の突飛な発想にも、根気よく付き合ってくれて、ずっと子供のころから対等に私を見てくれた。


 けれどそんな彼らも、国際情勢とそれによる世界の思惑には無力でしかない。

 人間なんてそんなものだ。自分よりも大きな力には抵抗できない。人はソレを運命だとか何とかと名前を付けて誤魔化しているが、結局は力あるモノが全てなのだ。


 そこまで考えて、私は思う。

 自分の脳みそならばそんな世界を叩き壊すことができるのではないのだろうか、と。

 少し考えて結論が出た。

 できる。けれど、やれない。


 できるというのは単純に、可能という意味だ。

 十年はかかるだろう。けれどソレだけの時間があれば国際秩序を破壊して、世界全土を無政府状態に追い込むことができるだろう。

 

 けれど、やれない。

 彼に軽蔑されてしまうかもしれないから。

 彼が私をまだ大切に思ってくれているかもわからないのに、そんなことをして十年も時間をかけてしまえば、きっと見放されてしまう。

 

 いや十年も時間があれば、彼はきっと新しい女性ヒトを見つけるだろう。私よりも魅力的な人間を。彼はそれ以上に魅力的だから。

 そうなったら私は耐えられるだろうか。

 私がいなくても幸せそうにしている彼を見て、私は――。


 嗚咽が漏れ始めた。

 惨めだ。自分で彼を捨てたくせに、彼が自分抜きで幸せになる光景を想像しただけで胸がきつく締め付けられるような気分になってしまう。

 私はいつからこんなに身勝手な人間になってしまったのだろうか。

 

 彼は私をこんなにも変えてしまった。



――――


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