朝霧に包まれて
目覚まし代わりに掛けておいたスマートフォンのアラームが部屋中に鳴り響いた瞬間と同時に僕は眠い目を擦りながら意識を覚醒させた。
「……ねむ……朝の5時……」
人生で生まれて初めて女学園に女装をして潜入し、女子寮に入寮し、とんでもないほどの危険人物であった下冷泉霧香を何とか攻略するという余りにも長すぎた1日を体験した僕は誰の目にも入らないように風呂に入った後、そのまま僕は百合園女学園の制服を身にまとったまま、部屋の灯りを付けたまま夜の10時ぐらいに死ぬように眠った。
「……制服、しわしわ……」
おかげ様で僕の制服はかなりとは言わないが、少しだけ皺がついてしまっていた。
緊張に緊張を重ね、人生で一番長い1日を終えた僕は疲れに疲れてしまって熟睡していたのにも関わらず、未だ疲労が取れていないようにも思えたが……よくよく考えれば、まだ眠いというのにも関わらずバレたら死ぬ女装の演技をしなければならないという心労を考えたら、気がとんでもないほどに重い。
「……朝ご飯は何を作ろうかな……」
二度寝なんて絶対にしないようにベッドの上から飛び降りて、自分の意識をしっかりさせるべくそんな独り言を口にしながら、朝の献立について考えていると……僕の部屋の外から人の声が聞こえてきた。
「唯。開けてくれ。私だ、百合
「……ドアの向こう側で何してやがるんですか雌豚先輩」
流石は演劇部長。
声真似のクオリティが無駄に高い……というか、本当にお嬢様にそっくりだなと僕は内心で思っていた。
内容が余りにも下冷泉霧香が言うとしか思えない内容だったので判断は簡単だったが、もしも内容がまともなものであったのなら果たして僕は気づく事が出来ただろうか……いや、きっと気づけなかっただろう。
今度からドアに取り付けられている魚眼レンズ形式のドアスコープで周囲を確認してから返事をする事にしようと心から決心しつつも、姿見に映る自分の女装に違和感を感じない事を確認してから部屋の扉を開ける。
「フ。おはよう。物音がしたから起きたのかなと思って声を掛けて大正解」
……やはりというべきか、扉を開けると昨日この寮の同居人になったばかりの下冷泉霧香その人が正座をしていた。
「おはようございます。今は朝の5時ですが先輩は随分と早起きなんですね」
「フ……ふぁ……正直に告白すると一睡も……ふぁぁぁぁぁ……してない。正直言って今からふぁぁぁぁぁぁ……寝たい気分……なの……ふぁぁぁぁぁぁ……」
「めちゃくちゃ大きい欠伸をめちゃくちゃするじゃないですか」
彼女が昨日から一睡をしていないという発言は彼女の様子を見ていたらいよいよ本当のような気がしてならない。
というのも、彼女は行儀正しく正座をしながらもこっくりこっくりと船を漕いでおり、少しの油断でもしてしまえば本当に今にも寝てしまいそうな様子であったのだ。
もしかして、どこかに盗聴器だとかそういう器具でもあるのだろうかと思わず警戒していたのだが、今の彼女の周囲には本当に何もない。
そもそもそんな事をしてしまえば彼女は僕の雇用主である百合園茉奈から問答無用で寮から追い出されるだろうから、聡明な下冷泉霧香はそんな事をしないだろうと僕は信じていたというのもある。
「……もしかして、昨日からずっとこのまま?」
「フ。唯お姉様のストーキングしてた」
「悪い事は言いませんので他の御趣味をお探しになられた方が良いですよ」
「フ。唯お姉様がいつの時間に寝て起きるのかが知りたかっただけ。私は唯お姉様の妹ですもの。妹なら姉よりも早く起きるのは当然でしょう?」
「だからといって、僕の部屋の前で正座するのはちょっと怖いです」
「そう? なら本音。昨日部屋の灯りをつけたまま寝たでしょう? 寝る前にお手洗いの帰りに唯お姉様の部屋を覗こうとしたら灯りが漏れていて、ずっと消えていなかったから……つい、心配で」
そんな事を彼女は今にも閉じてしまいそうな瞼で、何度目になるかも分からないぐらい頭をふらふらと揺らし、欠伸を嚙み殺しながら口にした。
「確かに昨日はそのまま寝落ちしてしまったので、灯りを点けぱなっしのまま寝てしまいましたが……心配するほどですか?」
「色々と慣れない環境だったから眠れないだとか、百合園女学園に嫌気が差して不登校になりかけたのではないか……そう思っていたのだけど、どうやら私の考え過ぎで本当に良かった」
今までの彼女からでは想像できないぐらい優しい声音でそんな言葉を口にした彼女は正座の状態から立ち上がった下冷泉霧香は本当に言葉通りの寝不足だと言わんばかりにふらふらしていた。
そもそも、何時間もこの寒い廊下の、灯り1つも点いていない真っ暗な廊下で、ずっと1人で正座をしていた彼女の言葉を本当に信じるのであれば、彼女は長時間も眠気に耐えながら正座をしていた事で限界ギリギリなのではないのか――そう思っていた矢先に、彼女の身体は大きくぐらりと歪んだ。
「あ、れ?」
本当に信じられないと言わんばかりに下冷泉霧香は大きく瞳を見開き、おかしいと言わんばかりの声をあげるのと同時に、疲労に耐え切れなかった彼女の細い身体が彼女の意志に反して後ろの方にへと倒れていった。
「――ッ⁉」
あのまま放置してしまえば、彼女の頭が廊下の床に叩きつけられてしまう。
気づけば僕は無防備に倒れてしまいそうになっていた下冷泉霧香を急いで抱きかかえては彼女を全力で手繰り寄せ、彼女の転倒を辛うじて防いだ。
「お怪我はありませんか先輩⁉」
彼女に怪我はないかどうかを確認しようとついつい語調を男のように荒くしてしまって、彼女を助けようとしてついつい男のような力で彼女を引っ張ってしまったが……女装がバレるバレない云々よりも人命の方が何よりも大事だ。
先ほどだって、頭の打ち所が悪ければ最悪即死だし、最善の結果に終わったとしても痛いのは痛いし、痛いのは誰だって嫌に決まっている。
「――え? あ……はい。あり、ません」
余りの出来事に眠気が覚めてしまったのであろう彼女は何度も瞬きをし、頬を紅潮させては、彼女にしては珍しく弱々しい声音で、嘘だと言わんばかりの表情で僕の顔色を覗き返していた。
「……あの、顔、顔が、近くて、その、ち、近い、です……」
「え? あ! ご、ご、ごめんなさい先輩! いきなり先輩の肩を強く掴んでしまって!」
「い、いえ、その……こちらのほうこそ、ごめんなさい……助けてくれて、ありがとうございます。唯、お姉様」
まるで初対面の人間同士がやるようなたどたどしいやり取りをしてしまい、お互いに距離をとってしまう僕たちであったが、お互いに赤面をしていているのは目で見なくても分かるぐらいに僕の頬を熱くなっていたし、彼女は頬どころか耳すらも真っ赤になっていたのであった。
「でも、これに懲りたらいくら心配だからって廊下で寝ずの番をしないでくださいね? 寮生が怪我をしたら責任を問われるのは寮母である僕なんですからね」
「え、えぇ。それはそうよね。うん。本当に悪かったわ。反省してる」
いつも余裕綽々そうな態度を取っているのが常である下冷泉霧香がこんなにも動揺しているのは……彼女とはたった1日程度の付き合いしかないとはいえ、生まれて初めて見たし、何ならこれは滅多に見れないような動揺っぷりなのではとさえ思う。
「ほら、学校までまだ時間はあるんですから先輩はぐっすり寝てください。僕はこれから朝食を作りますから――」
「――待って」
そんな動揺していた筈の彼女の弱々しい声がいきなり一転して、奮い立つようなしっかりとした声に変貌した。
「な、なんでしょうか……?」
もしかして、今の一連の流れで僕が実は男子であるという事がいよいよバレてしまったのだろうか?
そんな最悪の事態を考えてしまったその瞬間、ドクン、と心臓がうるさく脈動した。
一度動揺して大きく心臓が動き出したら、その動きは簡単には収まる事はない。
収まれと念じれば念じるほど、その意に反して僕の心臓はしなくてもいいのに勝手にわざとらしく稼働していく。
「リボンが曲がってる」
「え?」
予想もしていない下冷泉霧香のそんな言葉を耳にした僕は間抜けな声を出してしまい、一拍遅れてから自身の制服の胸元の部分に目を通してみると、そこには彼女の指摘通り、乱れてへなへなになってしまったリボンがそこにあった。
恐らく、先ほど彼女を何でもいいから抱き寄せた際に下冷泉霧香の何か……その、見るからに間違いないぐらいに弾力があって重さもあってとても大きい、女性を象徴する2つのアレとか……が僕のリボンをしわくちゃにしてしまったのだろう。
そんな事実に気づいた僕はリボンがだらしなくなっていた事に対する恥ずかしさではなく、下冷泉霧香のアレを自分の胸元に来るように手繰り寄せていたのだという事実に今更ながら気づいてしまうと――自分の下半身が熱くなるのを感じてしまった。
「ごめんなさい。私が唯お姉様のリボンを乱してしまって。お詫びといってはなんだけど私にリボンを直させて?」
「……へ?」
わぁ、これ百合小説でよく見た展開だぁ。
年上の女性が、年下の女性に『タイが曲がっていてよ?』って言いながら、リボンだとかそういうものを直してくれる展開だぁ!
――ヤバい。
ヤバいって。
何がヤバいって、今の僕は下冷泉霧香の2つのアレを自分に押し付けてしまったという事実を認めてしまった所為で、その、あの、僕の、アレが、立ってる。
「あ、あのですね下冷泉先輩! お気になさらないでくださいね! ね、ね、ね! これぐらいよくあることですし、礼を言われるような事は僕は何もしてませんので!」
知らない人にも説明すると『タイが曲がっていてよ?』とは女性同士が身体を密着とまではいかないけれどギリギリまで近づけて、相手の胸元の何かしらの装飾を直してくれる行いだ。
そう、女性同士が。
身体を。
密着。
だけど、この場合は。
女の恰好をした僕が。
おっぱいの大きい彼女に。
身体を。
密着。
――そんなの、僕に勃起しろって言っているようなモノじゃないか――⁉
「いいから。それだと私の気が済まない」
彼女は真剣な声音でそう言うと、僕に意見の有無を言わさずに押し殺してみせた下冷泉霧香はやや強引に僕の方にへと近寄り、同じぐらいの背丈の彼女と僕の頭がどうしようもない距離で近づく。
遠目から見れば間違いなくキスか何かをしているような距離であるし、彼女の大きな胸が僕の身体に偶に当たるしで、心臓がドキドキして仕方がない。
「……んっ、んぅ……」
そんな声が僕から漏れ出るわ、また彼女の胸が僕に当たるわ、彼女の良い匂いが僕の鼻腔をくすぐるわ、彼女の綺麗で真剣な表情がとても綺麗だわで、僕の頭の中は文字通りおかしくなりそうですらあった。
そう、この変態女こと下冷泉霧香は言動がアレなだけで、かなりの空気を読めつつ高精度な観察眼を有する有能な変態であり、聞けば学園内でも一二を争うような美人であり、茉奈お嬢様と合わせて学内2大美女とも言われる存在でもあるのだ。
「はい、おしまい。……フ。まるで女子に触られ慣れてない童貞のような顔を浮かべる唯お姉様のその表情だけで炊飯器3つはいける」
「そ、そうですか。ありがとうございます、下冷泉先輩。ところで、そ、その……何かほかにおかしい点だとかはありませんでしたでしょうか?」
「フ。他におかしい点ってなぁに?」
「い、いえ、なければいいんです。それでは僕はこれから朝食を作りますので失礼しますね……⁉」
「フ。じゃあ私は寝るわ。おやすみなさい、唯お姉様」
……不幸中の幸いと言うべきか、どうやら下冷泉霧香には僕の膨張に膨張を重ねた下半身のアレに感づかれる事がなかったようであったので、僕は急いで彼女の視界から遠ざかるように前屈みになりながら、百合園女学園第1寮のキッチンの方へと逃げた。
◇
「フ。……ふぅぅぅ……! つ、疲れた……。これからの学園生活、本当に大丈夫なのかしら。あの人……」
本当に彼が心配だったから、彼の部屋の前で張り込みをした自分が一番悪いとは分かってはいるけれども、昨日の私の演技で彼が本当に女装生活が嫌になっていたのではないのかと心配していたのだが、今、元気そうに逃げていった彼の様子を見るにその心配はなさそうだ。
ようやく安堵した私は忘れかけていた眠気を思い出して眠ろうと思って……先ほどまで自分の身体にちょくちょく当たっていたスカート越しのあの触感を思い出してしまって、ついつい悶々とした思いに囚われかけた。
「……随分と、硬くて大きかった、わね……」
まぁ、うん、その、何でしょう。
白状すると、リボンを結び直すのは完全に善意だったのだけれども、まさか彼の身体にあんな事が起こっているだなんて全く想像してませんでした。
幸いにも、当たりそうになったら自分の胸を押しつけて、彼の感触だとかを無理やり上書きするというご褒美紛いのやり方でとっさに誤魔化したので、多分バレてはいないと思うのだけど。
「可愛い顔して、アレって……本当に私の性癖壊れそう……」
嘆息混じりにそんな言葉を吐き捨てて、自分に割り振られて寝室の布団の上で少しばかりの仮眠をしようと決心したけれども、果たして本当に眠られるのだろうかと疑問を浮かべながら、私は古めかしい女子寮の廊下を歩きながら何度目になるか分からない大きな欠伸をした。
◇
~後書き~
書いていてめちゃくちゃすげぇぐらいに楽しかった。
という訳で1章、完!
今回は下冷泉霧香というキャラクターをメインに据えての小噺となりましたが、さて皆様は下冷泉霧香というキャラクターが気に入ってくださいましたでしょうか。
ちなみに作者の作中一番の推しキャラは彼女です。
私の友人もそうだそうだと言ってました。
本当でしたら4話の時点で『百合園女学園に迷った菊宮唯を理事長室に案内する下冷泉霧香』というプロットがあったのですが、彼女の初登場シーンのインパクトを与えたかったので没にしてしまったりだとか色々と裏話がある訳なのですが……果たして、下冷泉霧香の嘘に主人公は気づけられるのか……⁉ というのも副テーマになっていきますでしょう。
えー、この1章だけで大体約55000文字。
ここまで読んで下さる読者の方々に本当に頭が上がらねぇでございます……!
さて、お次は2章。
下冷泉霧香が女装モノのおもしれー箇所を担当してくださったおかげで、やっとお約束的な女学園ラブコメ書けそう(白目)。
そう、2章は女子寮ではなく女学園が主な舞台!
更に、4月ならではのアレもある!
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