第10話 散歩

 翌週水曜日、藍子は朝から明るく弾むような気持ちと少しの後ろめたさを感じながら家事を済ませ、健吾と優斗を送り出し、自宅マンションを後にした。

 

 金曜日に例のカフェで、マークがレジを抜け出し藍子の席に近づき、メッセージアプリのIDが書かれたメモをトレイの横にそっと置いた。ランチのピークがずれていたせいか、窓際のカウンターテーブルを利用している客は藍子一人だった。

 藍子がマークを見上げると、マークは自然な笑顔で、

「よろしかったら友人になってください。日本に友人がいませんから」

 と小声で言った。


 藍子は躊躇ためらいながらも嬉しい気持ちを自覚しつつそのカードをそっとカバンに入れ、

「日本でお友達はできなかったの?」

 と心配そうに尋ねた。

「作りませんでした。シンガポールの大学の卒業式は一月で、すぐに帰国しますから」

 マークは少し寂しそうな笑顔でそう言うと、お辞儀をして仕事に戻って行った。


 その夜から二人はメッセージのやりとりを始めた。マークから散歩でもしませんかと誘われ、水曜日ならと藍子は返した。

 水曜日は普段より一時間早く仕事を上がることになっているが、実家に寄るのが恒例だった。藍子は母親に、来週は残業があるから寄れないと嘘をついた。


 退勤間際に館長に呼び止められてタイムカードを押すのが十分遅れ、藍子は図書館の階段を小走りで駆け下りた。

 マークは先週二人が出会ったベンチに腰掛けて外濠の向こう側を眺めていた。ここは、いつも藍子が仕事帰りに彼を見かけたベンチだ。

 藍子が近寄って遅れた詫びを言うと、マークは頭を下げながら、

「お仕事おつかれさまでした」

 と言った。それから藍子の隣に並ぶと、二人は市ヶ谷方面に向かって歩き出した。


 十一月も半ばに近づき、日暮れが迫るこの時間帯は冷たい風が吹き、木々がざわめいた。

 「風の音を聞くのが好きで、授業がない時は図書館かあそこのベンチにいます」

 マークは歩きながらそう言った。風が吹き抜ける音。木々のざわめきや、風が巻き上げた枯れ葉が擦れ合う音。枯れ葉を踏みしめながら、二人はそんな音を楽しんでいた。

「知ってる。あなたがあそこにいたの、五月くらいから見たことがあるの。仕事の帰りに」

 藍子はそう言った。


 マークはそれを聞いてちょっと笑った。

「僕も藍子さんが歩いているのをよく見ました。図書館に行った時、その人が藍子さんだと気づきました」

「そうだったの。図書館に来てたこと知らなかった」

「藍子さんは、いつも本を見ていましたから」

 マークはおかしそうにそう言って、温かい目で笑った。それを聞いて藍子は恥ずかしくなって口をつぐんた。早く仕事の経験を積んで、もっと視野を広く持てるようになりたいと心から思った。


 藍子の身長は日本人女性にしては高い方だったが、マークは藍子より頭一つ分高く、藍子がうつむいてしまうと彼からは表情が見えない。

 二人は市ヶ谷橋を渡って左に曲がり、そのまま四谷の方に向かって歩き出した。

右手に立ち並ぶビル群とは対照的に左側には木々が生い茂り、夕陽が街全体を染めていた。


「自分が好きなことを仕事にできて、羨ましいです。私は子どもの時から両親のレストランをすることに決まっています。その仕事を好きかどうかは考えた事がありませんでした」

 マークは静かにそう言って、歩きながら藍子の顔を覗こうとした。

「そうなの。それは立派なお仕事ね。それで経営学を勉強しているのね」

 藍子はこの若者を感心した目で見上げると、はいとマークは頷いた。


 二人はしばらく景色を楽しみながら歩き続け、四谷見附の交差点を右に曲がった。

「あのね。この近くにおいしいたい焼き屋さんがあるの。マーク君、たいやき好き?」

 藍子がちょっとはしゃいだ感じでそう言うと、マークは笑ってあんこが大好きですと言った。あのたい焼き屋さんに行くのは学生以来かもしれない、藍子はそう思いながら歩みを速める。


 しっぽまでぎっしりとあんこが詰まったたい焼きは、口に含むと上品な甘みが広がった。皮の外側はパリッとしているのに、内側はふっくらとしていて、絶妙な食感だ。学生の頃から何も変わらない老舗の味に、藍子は安心した。

 マークも満足そうに頷きながら、おいしいと何度も呟いている。


「私の両親は、シンガポールのチャイナタウンで小籠包と餃子のレストランを経営しています。小籠包と餃子は中華料理では軽食です。母国にいた時、もし自分がレストランをするなら、軽食ではなくきちんとした食事を出す店をしたいと思いました」

 マークはたい焼きを食べ終わりお茶を飲みながら、ゆっくりと語り始めた。


 「でも、日本に来てからいつもの生活のとき、簡単に食べたいものが食べられなくて困りました。そのとき、おにぎりやサンドイッチ、バケットに助けられました。自分で作ったり、買ったり簡単にできますから。今は自分も両親の店をすることに納得しています」

 マークはそこまで言って、藍子の顔をじっと見つめた。


 「私も二十代は夜遅くまで仕事していて、よく軽食に助けられたわ。疲れているときは、こんなたい焼きとかあんまんとか買って食べるとおいしいのよね。日本に来て新しい発見があって、よかったわね」

 藍子はそう言うと、優しくマークの目を見つめ返し、マークは頷いた。


 たい焼き屋を出ると、二人はさっきより少し近づいて歩き始めた。日はすっかり沈み、街灯やテナントの灯りが道を照らしている。

 マークからは以前香った甘く懐かしい匂いが漂い、背は高いが幾分線の細い若者らしい体つきをしているマークの横で、藍子は自分の感情の揺れに戸惑っていた。

 

 二人は色々な話しをしながら新宿三丁目まで歩き、別れを告げ、藍子は地下鉄の階段を降りた。

 マークは荻窪に住んでいるのでこのまま新宿駅まで歩くと言って、藍子が階段を降りて見えなくなるまで見送っていた。


 


 


 

 

 


 

 


 


 


 

 


 

 

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