第7話「女傑、知と血に舞うのこと」
闇夜を走る。
その一報を聞いた瞬間に、シャンホアは
だが、走っても走っても、月と星だけの暗い道は閑散としている。
「どうして……
突然、ごくごく少数の側近を連れて、メイランが都を出た。
その報告が届いたのは、先程の
もうすぐ日付が変わるが、山一つ
先程から胸騒ぎが収まらない。
「ド田舎娘っ! こっちだ、俺に
不意に背後で声がして、言葉を夜風が持ち去る。
その時にはもう、シャンホアは馬上の腕に抱え上げられていた。
まるで荷物のように小脇に抱えてくれたのは、フェイルである。
彼はそのまま愛馬を駆って、あっという間に都の外へと飛び出した。
もはや門を守る衛兵もなく、振り返ればあっという間に都は闇に消えた。
「ちょ、ちょっと! どこ掴んでるのさ!」
「ん? どこなんだ? 暗くてよく見えないんだ、それより喋ってると舌を噛むぞ!」
「手! 手が胸に!」
「そんなもの、どこにあるんだ。ああ、このささやかな膨らみか」
シャンホアにとって、自分の幼児体型は大きな劣等感だった。
だが、あまりにもあっけらかんと語るフェイルに言葉も出ない。怒りを通り越して、
フェイルはやはり、少し妙な男だった。
幼い頃より後宮で、女として育てられたからかもしれない。
そんなフェイルだが、どこか憎めぬ愛嬌があって、
「お前、凄いな。さっきは俺たち、一瞬思考が凍っちまったぜ」
「な、なにが! だって、考えるまでもないでしょ!」
「そこだよ、そこ。止まった頭を
「そ、そりゃ……考えもなく飛び出してきたけど」
フェイルが「ハッ!」と気迫を叫んで、
どうにか這い上がって、シャンホアはフェイルの後ろにまたがった。瞬間、猛烈な風で引き剥がされそうになる。思わず抱きついた背中は、とても広くて温かかった。
「俺たちが考えて足を止めてた時には、お前はもう走ってた……なにを感じた?」
「助けなきゃ、って」
「どうやって?」
「それ、今考えてるの! でも、考えながらでも走れる。ボクにいい知恵は浮かばないけど、駆けつけるだけならできるもの」
「そういうとこだぜ? おもしれえ女だ」
それから、二人の間に会話は途絶えた。
ただ、言葉がいらなくなっただけだとシャンホアは感じた。そして、自分で言ったように頭を働かせてみる。だが、なにもかもがわからない。
皇帝の
昼に少し言葉を交わしたが、メイランには
皇帝の
だからこそ、わからない。
同じように考え込んでても、フェイルは真っ直ぐ前だけを見て闇を切り裂いていた。
そして、東の彼方に光が走る。
「フェイル、夜明けだよっ!」
「クソッ、山を超えちまう! あのおばさん、どこまで行きやがったんだ!」
そして、絶句。
シャンホアは言葉も呼吸も忘れてしまった。
「な、なにあれ」
「ん? ああ、敵だな」
「大軍勢じゃない!」
「条約軍の前衛部隊、ほんの一部だぜ?」
「嘘でしょ」
「だったらどれほどいいかってね」
無数の青がひしめいていた。
それは、軍服の色で、旗の色だった。
西方諸国連合の旗が
だが、実際にはその一人一人が銃を持つ屈強な戦士なのである。
ラッパの鳴る音がかすかに聴こえて、そこかしこで
そして、さらに驚きの光景がシャンホアの眠気を蒸発させる。
「あっ、太后様!」
「チィ! なにやってんだおばさん!」
大軍が敷き詰められた荒野の片隅に、
シャンホアは野で育った目を凝らす。
焦点が的確に、戦場に咲いた花一輪を伝えてきた。
「あ……太后様、踊ってる」
「ああ? 見えるのか、お前――」
「あそこ見て! 敷物の上! 兵隊たちのド真ん中!」
フェイルも目を細めて身を乗り出し、そして息を
その気配を伝えてくる背中から、シャンホアは
そう、殺気立つ兵士たちの中に、小さく空白地があった。
その空間にだけ、音楽が満ちて一人の
風雅に、優雅に、そして
女官たちの楽器が歌う中で、メイランが踊る。
「……どういうクソ度胸だよ、あれは。って、そういうことかよ」
「え? えっ!? なに、あれはどうして」
「
フェイルが言うには、この強烈な違和感、異空間とさえ言える瞬間の連続が策略だという。武装した焔の兵士が立ちはだかるなら、たちどころに暴力に飲み込まれるだろう。
しかし、
結果は同じかもしれない。
だが、妙だと思うのが人間である。
優れた
その実、メイランにそうした裏はないように見える。つまり、はったりだ。ただ、我が身一つで敵将の警戒心を
そして、その瞬間が訪れる。
「なに? なんだか……あの人だけ、服が綺麗。なんか、豪華で、凄く似合ってない」
妙な男がメイランたちの前に歩み出た。
そう、とても奇妙な軍人だった。周囲の兵士たちとは少し違って、随分と身なりのよい軍服だ。そして、その華やかさが全く似合っていない。遠目に見ても、表情すら見えない距離から違和感が感じられるくらいだ。
その男が、
軍勢がざわめき、赤髪の兵士が飛び出してきた、その時だった。
音楽が途切れて舞が終わり、静かにメイランが男に歩み寄る。
手には、
「ッ! それで頭を潰す……
突然、シャンホアは「見るな!」と抱き寄せられた。
そしてフェイルの腕の中で銃声を聴く。
見えなかったが、はっきりと脳裏に光景が焼き付いた。赤い髪の女が、アルトと呼ばれた男を
条約軍にも女の兵士がいるのか、などとシャンホアは思った。
視界が再び開かれた時にはもう、異質なまでの
「……太后様、が……」
「おい、さっさと乗れ。都に戻るぞ」
「だって、メイラン様が……せめて、連れて帰らなきゃ……
「それはアルトがやってくれるぜ。そういう男だ……貴重な時間が稼げたって訳さ」
「っ! なんでそんなに平気でいられ――、――!?」
フェイルは平静を
そう見えたが、握る手綱に赤が
フェイルとて、悔しいのだ。
悲しいまでの高潔さで、我が身を犠牲に
「……戻るぞ、田舎娘。連中、半日は進めないだろうさ。アルトは用心深くて……優しい男だからな」
「アルトっていうのが、あの」
「聖騎士アルト・ベリューン。西方諸国連合で数少ない、教会の加護を得た聖騎士だ。……焔にとって、五十万の軍勢を一つに束ねる最強の敵さ」
しかし、その時見た……
涙で歪む空へと、小さな光が昇ってゆく。
それは、大勢の兵をざわめかせながら……九つの尾を引き東の空へと飛び去ってゆくのだった。
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