14 人魚



 どうやら眠ってしまったようだ。


 目覚めると、サンルーフから見上げる空が濃い藍色をしている。これはまた、随分長い昼寝をしてしまった。


 車の外に出ると、既に東の空から満月が昇っている。すっかり雲はなくなり星も出ているが、空気はひんやりとして肌寒い。


 腹も減ったし、そろそろ宿に行かねば。


 薄暗い駐車場には相変わらず人の気配はない。車の周囲を一回りしてから乗り込み、キーを差した。


 ところが、エンジンがかからない。何度もスターターを回すが、エンジンのかかる気配がない。そのうちバッテリーが弱って来た。


 これは早いところ救援を呼んだ方が良いと、暮れゆく空を見上げて思う。ポケットから携帯電話を取り出してみると、圏外の表示。さすがに山深い場所である。


 先程カモシカを追い下ったあの道を歩いて、電話の繋がる場所まで行かねばならぬ。面倒な事になった。


 暫く圏外の文字を睨んで考えたが、幸いここは峠の上である。ここから先は当分の間下り坂と思われる。


 それならば押しがけを兼ねて車を少し押してやれば、下り坂でエンジンが生き返るかもしれない。最悪でも下界に少し近づき携帯の電波が届く可能性もある。


 そんな浅はかな考えで、ギアをニュートラルに入れて車を降り、ハンドルを握ったまま力を込めて車を押した。


 駐車場から下り坂の道に出て、車に飛び乗った。油圧が死んでいるのでハンドルもブレーキも異常に重く、恐ろしい。


 一気に血の気が引いた。結局、オートマッチックのレバーをローに入れて速度を落とし、おっかなびっくり坂道を下る。


 こうなれば、行けるところまで下るしかない。そう覚悟した途端に、アスファルトの舗装が突然途切れて、砂利道に変わった。



 道は暗く、狭く、もう限界である。頼りないヘッドライトの明かりに不安を感じながら、重いハンドルを必死で操り、硬いブレーキペダルを力いっぱい踏みこむ。


 車は嫌になるほどゆっくりと速度を落とし、左の山側にある狭い待避所に停車した。危うく車もろともカモシカの後を追って、崖へダイブするところであった。


 のどかな旅路がいきなり冒険旅行と化してしまい、悪夢のようである。当分心臓の鼓動が収まらない。


 既にすっかり日は暮れ、この場所からでは月も見えない。更に悪い事に、携帯の表示は圏外から変化がない。


 残り少ないバッテリーでカーナビの電源を入れて現在位置を確かめるが、車の上へと覆い被さる深山の木々が邪魔をして、GPSの受信状況がもう一つだ。


 地図の画面はあちこち迷い動き回ったあげく、九州は大分県の宇佐という駅周辺を表示して止まった。


 貴重な電源の無駄使いにしかならないので、すぐに電源を切るしかなかった。


 結局最初の計画通り、車を置き歩いて電話の繋がる所まで行くしかない。


 空は晴れて、星が見える。雨の心配がない分だけ、マシだろう。ハンドライトとウインドブレーカを持ち、砂利道を下り始めた。



 満月のおかげで、空が明るい。普通に道を歩く限りは、ライトは不要だった。


 歩いているうちに道はどんどん狭くなり、そのうち車が走れるとは思えない程細くなった。


 さすがにこれはどこかで道を間違えたのだろう。慎重に、来た道を戻るうち、気温がどんどん下がり、肌寒いなどという呑気なレベルを遥かに超えてしまった。


 Tシャツの上に羽織った長袖シャツのボタンを全て閉め、持って来たウインドブレーカを着こんでファスナーを首まで上げるが、なお震えが止まらない。まるで雪でも降りそうな気温である。どう考えてもこれは、尋常ではない。


 ここまで順調だった旅に突然漂い始めた暗雲は、更に濃く広がり始めている。


 震えながら道を戻るが、完全に道に迷ったらしい。幾度か携帯を覗くが何度見ても圏外である。気が付けば周囲を深い森に囲まれて、狭い山道だけが人類の痕跡を辛うじて残している。



 月明かりを頼りに仕方なく先へ歩くうちに、やっと目の前が開けた。


 そこは池というか沼というか、小さな湖と呼ぶべきなのか。右側に続く岸を辿れば比較的近くに対岸が見える。


 しかし左手の水面は岩と巨木に囲まれ森の中へ消えていて、その奥行きが掴めない。


 私は長細い水面の、一方の端近くにいるようだった。月明かりに揺れる水面には霧が微かに立ち昇り、更に遠近感を惑わせる。俄かに信じられないような、幻想的な光景であった。



 魚が跳ねるのか、時折ポチャンと水音がする。足元の水面にその波紋が押し寄せ、意外と大きな魚が棲む池なのだと思われる。あまりいい気持ちはしない。


 しかし満月に照らされたその魅惑的な景色につい心を奪われ、寒いのも忘れて見とれていた。


 池の波紋に目をやるうちに、その中心に何かが動いていることに気が付いた。


 その動きはまさに魚で、比べる物のない水面ではわからないが、かなり大物と思われる。


 やがてその魚が対岸へ近付き、空中へ身を躍らせたかと思うと、岸近くの倒木の上に上がった。


 それは、どうやら魚ではなく人だったらしい。


 その向こう側に、もう一人別の若い男がいるのが見えた。ちょうど対岸の岸辺にいる男と、泳いでいた人物が近寄り、何やら話をしているようだ。



 やがて倒木の上から再びダイナミックに水へ飛び込んだ人物が、池の中から男に手を伸ばし、触れ合っている。


 目の前で展開する、あり得ないような情景に目が釘付けとなり、私は棒立ちのまま岸辺にいた。


 その後池の中の人物は男から離れ、魚のように池の中を泳ぎ始める。立ちすくむ私の目前に、自分の吐く息が白く広がるのが見えた。


 それにしても何なのだ、この寒さは。



 水面を滑るように泳いでいた人影がこちらへ向かっている事に気付き、私の全身に震えが走る。対岸を見ると、話をしていた男が岸辺を立ち去る所であった。


 逃げようとする恐怖心と、見届けたいという好奇心のせめぎ合いの中、私の致命的とも言える好奇心が鼻差でゴールを駆け抜ける。逃げずにその場へ踏みとどまった私に、水中の陰が迫る。


 水族館のイルカショーのような勢いで輪を描いて泳ぐ姿が、途中から真直ぐに私の足もとへ進む。


 ざぶんと水しぶきが上がり、頭から降り注ぐその水の冷たさに、私は怯んだ。よろめきながら横を見ると、隣にある大きな岩の上に、その人が座っていた。


 濡れた金髪が月明かりに輝く。乱れた髪を両手で掻き上げ、彼女は嫣然と微笑む。裸の胸から水滴が落ち、大きな乳房が揺れる。



 謎の金髪美女を前に、私は頭がクラクラしてそれ以上立っていられなかった。


 腰が抜けるように屈みこんで、前のめりに水の中へ両手を突っ込む。


 その水の、身を切るような冷気に、私は即座に正気を取り戻す。


 思わず隣の岩の上で全身を濡らしたまま微笑む彼女を、見上げた。



「ハーイ」

 フロリダのビーチで出会ったかのような気の抜けた挨拶に、私は戸惑った。


「It's very cold water!(すごく冷たい!)」私は両手で池の水をすくい、震えながら言う。


「Some Like It Cold!(冷たいのが好きなの)」


 彼女は穏やかにそう言うと、魅力的な笑みを浮かべてウインクをした。


 私はその時になりやっと、昔山形のキャンプ場で管理人の爺さんに聞いた話を思い出した。そしてあまりの事に、体がぶるぶると激しく震え始めた。


「And who are you?(あんたは誰だ?)」


 私は立ち上がり、それだけやっと口にして彼女を見た。


 彼女は相変わらず謎の笑みを浮かべ、右手で胸を隠しながら身を乗り出して、その白い左手を私に向かって差し出す。



 私は逃げようと思うのだが、魅入られたようにその手を取ると、彼女は私の手をしっかり掴んで、ぐいッと引いた。


 そのまま私は池の中へと引き込まれた。


 彼女のけたたましい笑い声が凍るような水の中で聞こえたが、それどころではなかった。必死で手足を動かし、やっとの思いで岸に上がると、四つん這いになったまま咳き込む。飲み込んだ水を、鼻から口から吐き出した。


 体に張り付いた衣服が急速に体温を奪い、全身が痺れるようだ。このままでは凍死すると思い、息を切らしたまま起き上がった。


 私は背中に感じる恐怖を振り払い、振り返らずに全力でそこから逃げ出した。


 来た道をよろけるように走り、木の枝に躓いて転がった場所が崖で、そこから見事に転げ落ちた。


 気が付くと、全身ずぶぬれのまま地面に這いつくばっていた。走ったせいか体が熱く、先程までの寒さが嘘のようだ。



 やっと上半身を上げると、そこは狭い舗装道路の坂道で、生暖かい風が頬を撫でていた。


 ポケットから二つ折りの携帯電話を出して広げると、受信感度を示すアンテナ表示が三本全部立っている。防水だった携帯電話の機能には問題がない。


 私は暫く呼吸を整えてから、用意していたJAFの番号をプッシュした。冷静なオペレーターの指示通りに言葉を交わし、救援の要請は無事に受け入れられた。


 私は安心して、こんな時の強い味方、心の防衛反応をフルに発動した。


 今起きた信じがたい出来事を振り返る事はすっかり止めて、今現在の、この全身ずぶ濡れの事態のみに対処する方向で行動を起こす。



 恐らく、車はこの坂道を登ったところにあるに違いない。


 そこを目指して、取りあえずゆっくり歩く。今度は絶対に道を間違えぬよう、慎重に。


 しかしそんな心配は無用であった。僅か一分も歩かぬうちに道が砂利道に変わり、次の左コーナーを曲がると、そこに私の車があった。



 全身を拭いて着替えて、さっぱりした頃にJAFの救援車両が到着した。


 電話から僅か三十分。信じられない早さである。レッカー車は一度私の前を通過して、峠の駐車場で転回してすぐに戻ってきた。


 ちょうど近くに来ていたから、と笑う隊員は頼もしく、考えてみれば今日の昼飯以降初めて言葉を交わす人間だった。もちろん、心の片隅に追いやっているあの金髪の美女を除けば、なのだが。


 さすがに今の私には、彼女を人魚だとか、ましてやマリリン・モンローなどと呼ぶ度胸はない。


 しかし私の体験が夢や幻でないとすれば、爺さんの言っていた事は満更ホラ話でもないということになる。勘弁してほしい。


 その後、JAFのレッカー車に牽引され、私は町へ降りることになった。



 レッカー車の暗い助手席に、私は無言で座っていた。


 JAFの隊員は寡黙で、職務に必要な事以外は聞こうとしなかった。それを幸いに、私は放心したように前を向き、窓の外だけを見つめる。


 空を見上げて、籠の中で揺れる夏蜜柑のように時折満月がフロントグラスを横切るのを楽しんでいた。車は隊員の精密機械のような運転で、狭い山道を確実に下っている。


 右に左に流れる月明かりを目で追ううちに、路面の傾斜が次第に穏やかになるのを感じた。道幅も広くなってレッカー車のエンジン音が大きくなり、前後左右への揺れが酷く気分が悪くなった。


 暗い山道を下りきり町の明かりが見えると、私はホッとして体を起こし、車窓の景色に目を奪われる。


 民家の窓から漏れる薄暗い灯なのだが、人間の営みには心を温められるものがある。


 こんな時、人はホームシックを感じるのかもしれない。恐らく、まっとうな暮らしに縁の深い人ならば尚更に。


 レッカー車が到着した町の修理工場へ車を預け、私は工場で呼んでもらったタクシーに乗って、予約していた温泉宿へ向かった。



 町外れの小さな旅館で遅い夕食を取り、自慢の露天風呂で一日の疲れを癒す。


 冷たい池の水で溺れかけた事が夢の中の出来事のように思える。湯に浸かり、今も天空に浮かぶ月を見上げた。


 今夜あの山中で池の水面を照らしていた月は、はたして今見ている月なのだろうか。


 池の水の冷たさが、肌に冷たく蘇る。悪い冗談のような出来事であったが、あれは決して夢ではない。そして、岩の上に乗り微笑んでいた女性は、昔聞いた人魚だったのか。


 どんなに記憶を呼び起こし、脳裏に描こうとしても、その下半身が魚であったのか、人のそれであったのか、思い出す事が出来ない。


 ただ私の心には彫刻刀で彫りあげたかのようにくっきりと、ひとつの映像が刻まれている。


 豊満な胸から落ちる滴が月明かりに煌めき、赤く妖艶な唇の両端がつり上がる。そして、この世のものとは思えぬ引力を秘めた笑みがじっと私を見据える。


 そのあまりに強過ぎる印象に、私の記憶の多くはそこに固定されている。


 眼を閉じれば、源泉の湯が静かに流れる音だけが聞こえる。


 十二年前のあのキャンプ場は、今もあるのだろうか。あの時出会った管理人の爺さんは、今も健在だろうか。



  

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