第19話 ともだちはつづく

「何? あ、次の子運ぶ?」


 ニーナは空から顔を下ろして、バンのバックドアを開く。緩慢な動きが鶴屋を焦らせた。躊躇いはまだあるが、目の前のミッションに意識を割かずにはいられなくなる。


 ドアの取っ手から離される、ニーナの左手。その中指の指輪から、目を逸らせない。


 コジロウも焦っているらしく、荷室の前に移るや否や「いや」と否定した。そしてすぐさま、鶴屋の脇腹を肘で小突く。鶴屋は慌てて左ポケットに手を突っ込み、偽の指輪を取り出した。うるうるとした緑色、透き通るような蟻の手足はやはり本物とほぼ変わらない。


 偽物を手に載せて差し出すと、ニーナはキョトンと目を丸くした。その間の抜けた表情へ向けて、侍が早口に続ける。


「ニーナ殿、そなたの指輪とこの指輪を、交換してはくださらぬか」


「えーっ?」


 驚きに高くなるニーナの声に、鶴屋の肩はビクリと震えた。慌てて首を回してみるが、ここからあの長い廊下は見えない。ミヅキとアサヒコがどこまで進み、どこまで戻ってきているのかは分からなかった。心臓が早鐘を打ち始める。ニーナの呑気な声が続く。


「すごいね、この指輪! あたしのにそっくり!」


「い、今は左様な話は結構。まず質問に答えてくだされ」


 ニーナのトーンダウンを誘うように、コジロウは声を潜める。が、ニーナはそんな侍の意図などお構いなしに大声で続けた。


「いいよ、交換する! でもなんで?」


 いいよ、に安堵した直後、疑問形の語尾にやきもきさせられる。鶴屋は背中に大汗をかきつつ、指輪の載った手を突き出した。と、コジロウの律儀な説明も続く。


「この指輪との交換であれば、ミヅキ殿にも気づかれぬかと」


「あーっ、なるほどー!」


「聞き開かれたなら早う交換してくださらぬか!」


 そこでようやく「そっか!」と、ニーナは指輪を外す。そのたった一、二秒すら耐えがたく、鶴屋はギリギリと歯を軋ませた。耳を澄ます。ミヅキの声も足音も、アサヒコの声も足音もまだ聞こえない。


「はい、どうぞー」


 ニーナの声。偽物の隣に本物の指輪が載せられる。並べてみると本物の琥珀は偽物よりずっと美しく、閉じ込められた蟻の手足も繊細だった。が、その美に浸っている場合ではない。


 ニーナの指が偽の指輪を摘まみ上げる。鶴屋は即座に、本物の指輪をポケットに仕舞った。「えーっ、ほんとにそっくり!」「いいから早う!」コジロウに急かされ、左の中指に偽物があてがわれる。


 輪が長い爪を抜ける。第一関節を抜ける。指輪が嵌っていくさまは、鶴屋の目にはスローモーションのように映った。ゆっくりと、ゆっくりと、細い指が輪をくぐっていき……「あれっ」と、声が上がる。


「これ、なんかちょっと小さいんだけど」


 第二関節のすぐ上で、指輪はギチリと動きを止めている。


 鶴屋とコジロウの顔面が、サッと同時に青ざめた。お洒落に疎い日陰者ふたり、指輪にサイズがあるということに、今まで思い至らなかったのだ。どうして気づかなかったのか、どうして天使はそこを指摘してくれなかったのか。後悔が瞬時に脳を支配し、と同時にほんのわずか、ミヅキの声が聞こえてくる。幻聴かと思い耳を澄ますが、今度は確かにアサヒコの声が鼓膜を震わせた。


「がっ頑張って! 頑張ってください!」


 焦燥に任せ、中身のない応援を投げつける。ニーナは「んー……」と唸りながら、指輪をぐいぐい押し込もうとする。押される指輪。捻られる指。鶴屋の全身が、焦りに痒みを帯び始める。頑張って、もう一度そう呟くと、違和感が激しく波打った。肌の痒みが強くなる。


 頑張ったら、ここでニーナが頑張ったら、彼女はどうなる? 彼女ら三人の関係はどうなる?


 こんな偽物で誤魔化せたところで、ニーナが指輪を手放した事実は変わらない。ミヅキは、ニーナは、アサヒコは、偽物の指輪で繋がれたまま、三人で生きることになる。自分たちを繋ぎ止めるものが、とっくに失われていると気づかないまま。


 ミヅキの声は徐々に大きくなってくる。ぐいぐい、ぐいぐい。指輪が押される。アサヒコの声もやはり聞こえて、ふたりが仕事の話をしているのだと断片的に理解できる。恐怖、不安、期待、後悔。鶴屋の頭が真っ白になっていく。


 ぐいぐい、ぐいぐい。関節で余った皮膚が歪む。圧迫された指が白くなり、赤くなる。


 ミヅキの声、アサヒコの声。ぐ。輪が関節に食い込んでいく。やめろ、と鶴屋は叫びたくなって、それでもどうしても声は出せない。ぐい、指輪がまた押される。


 やめろ、そんなもの嵌めるな、やめてくれ、いや、やめないでくれ、一刻も早く嵌めてくれ。


 は、と喉から空気が漏れて、しかし漏れたぶんを吸い込むことはもうできず、そしてふと、右半身に熱を感じる。


 じわじわと肌に広がっていく、芯のある熱。その温度に確かな覚えがあって、鶴屋はゆっくりと目を下げた。薄暗く冷えた深夜の路地に、光は灯っていた。右のポケット、リクルートスーツの黒い布を超えて、小さな銀の光が見える。


 ポケットにそっと差し込んだ右手は、凍えるように震えている。ポケットの中で指を伸ばすと、中指の爪と肉の間を柔らかい熱が貫いた。ゴツゴツとしたイチゴ大の欠片を、鶴屋はぐっと握り込む。視界の上端にチラリと銀色が見えて、顔を上げる。


 銀色に光る偽の指輪が、する、と、銀色に光る関節を超えた。


「ちょっと、何してるの!」


 ミヅキの声が飛んでくる。彼女はスタッフルームの出口で、鶴屋らを鋭く睨みつけていた。ごく、と鶴屋は唾を飲み、ニーナの左手に目を向ける。その指輪も関節も、もう光ってはいなかった。隕石も既に、熱を失って冷えている。


 ミヅキの硬い靴音がする。そちらに視線を戻してみると、彼女は焦りを露にした顔で迫ってきていた。彼女に続くアサヒコは、疲れたように笑っている。鶴屋の脳が、キイィと錆びた悲鳴を上げて回転する。


 ミヅキに見られた? いや、もしも見られていたなら、彼女はもっと激しく怒るに違いない。だとすればギリギリ、間に合った? いやもし間に合っていたとして、ミヅキが指輪の異変に気づいたら? 偽の指輪のサイズは小さい。ニーナの指のわずかな食い込みを、彼女が見つけてしまったら? しかし指輪はさっき確かに、するりと関節を超えた。指輪のサイズが変わったのか? ニーナの指が細くなったのか? 隕石が、ものの大きさを変化させた?


「ねぇ何してたの、あんたたち、またニーナに何かしてたんじゃないでしょうね、ねぇ」


 ミヅキは鶴屋とコジロウを睨む。その言葉は、彼女が具体的な現場を見なかったことを示していた。が、それなら何と答えればいいのか鶴屋には分からない。すみません、申し訳ありません、何でもないんです、そんな曖昧な、隙だらけの返事しか思いつかなかった。逃げるように隣へ目をやる。コジロウもまた青いままの顔で、口をぱくぱくとさせていた。


 一秒にも満たないわずかな間、鶴屋にはそれが永遠のように感じられ、一刻も早くこの無限を抜け出したいと焦る。


 とにかく何か言わなければ。このままではいけない。このままでは、自分たちのしたことが知られる。ニーナが指輪を手放したことが、ミヅキとアサヒコに知られてしまう。そうなったら、もしそうなったら。


 頭ばかりが無意味な不安を膨らませ、結局少しも声が出ない。それでもどうにか唇を動かし、すみません、の「す」を口に出そうとして喉が締まって、カ、と掠れた息だけを吐き出したときふいに、助け船が出された。


「女の子の縄の」


 鶴屋は反射的に、声の方向に目を動かす。ニーナはいつもとまったく同じ、掴みどころのないマイペースさで瞬きしていた。


「縛り方がなんか変だったから、変だよーって言ってあげてたの」


「縛り方?」


 ミヅキの瞳がニーナを捉える。鉈のような目を向けられても、ニーナは眉ひとつ動かさない。


「そう。で、あたしが直してあげた!」


 その答えもまた平然としている。彼女の口調も声色も、不自然なほど自然だった。いきなり頭を殴られたような、冷えた衝撃が鶴屋に走る。再び唾を飲み込むと、次の唾液は少しも分泌されなかった。


 嘘をついた。ニーナがミヅキに、嘘をついた。


 ニーナは今、求められたものに応えたのだ。鶴屋とコジロウを守るために、ミヅキとの平穏を守るために、この場で期待される行動をとった。その結果が、この嘘なのだ。


 口の中が、舌が、カラカラに渇いていく。ニーナは今、確かに友人との関係を守った。自らの属する集団を守った。それは鶴屋の知る限り初めてのことで、そして鶴屋の知る限り、最も決定的な裏切りだった。


 ミヅキの目がニーナから外れ、バンの荷室に移る。そしてまたニーナに戻り、その左手を睨んだ。鋭い両目が、偽物の指輪をじっと見つめる。


 間。二秒、三秒、あるいはやはり一秒未満の、ほんの少しの間。そのあいだに鶴屋の渇きは広がり、喉が、食道が、胃が、腸が、皮膚が徹底的に干からびていく。緊張と恐怖と粘ついた不安だけが、肉体に残る。


 もし、偽物だと見抜かれたら。ニーナがミヅキに嘘をついたと気づかれたら。その嘘によって、彼女らの関係が壊れたら。彼女らのこれまでの人生が、否定されてしまったら。


 それは、自分の責任だ。


「……分かった」


 ミヅキの、声。


「それならいい。さっさと次を運んで」


 そう言うと彼女はアサヒコを促し、荷室のひとりをまた持ち上げた。一歩、また一歩、苦しげな足取りで前進し、スタッフルームへ消えていく。


 ふたりの足音が小さくなって、やがてそれさえも聞こえなくなって、夜の路地に吹く冷たい風の音が聞こえて、ようやく鶴屋は、自らの心臓のうるささに気づいた。どくどくどくと、それまで止まっていたかのように鼓動が両耳に満ちる。


「ね、これでよかった?」


 鼓動の奥から呼びかけられて、反射的に視線を動かした。ニーナはキョトンとした顔で、鶴屋とコジロウを順に見る。その目にも、口にも、指先にも、髪の毛のほんの一本にも、罪悪感は窺えなかった。


 寒気と恐怖が鶴屋の肌を刺す。どくどくどくと心臓はうるさく、世界のすべてが、遠のいていく。


「よ」


 遠のくすべてにすがりついて、鶴屋は声を出した。声を出さずにはいられなかった。他人と話す緊張さえも、今はそれほど気にならなかった。恐怖が、舌を急き立てていた。


「よかった、んですか、ニーナさんは」


 その問いに、ニーナはまた瞬きをする。恐怖に凍える鶴屋の前で、彼女はこっくりと首を傾げた。


「あたしはいいよ? ミヅキとアサヒコと、これで仲良くいられるなら!」


 答える声は、どこまでもいつも通りだった。そしてそれは、彼女に嘘がない証だった。ニーナは間違いなく、彼女自身の本心から、ミヅキに嘘をついていた。彼女自身の意思で、集団の平和を守っていた。


 いつかの声が、鶴屋の脳に蘇る。


 ――あたし、大事なものはちゃんと、大事にしてるよ。


 ニーナはきっと本当に、大事なものだけを大事にしている。


「ツルヤ」


 名を呼ぶ声に、傍らを見上げる。コジロウは爛々と目を輝かせ、満足そうに口角を吊り上げて笑っていた。鶴屋もつられて口角を上げるが、中途半端な高さでぴたりと、筋肉が動かなくなる。笑えなくなる。


 左のポケットには、指輪の重みが感じられた。本物の指輪は、偽物よりもわずかに重い。


 鶴屋は今、ここで確かに、琥珀の指輪を手に入れたのだ。ニーナに無垢な嘘をつかせて。彼女らの関係を、彼女らにすら知らせないまま、身勝手に壊して。この指輪で、総長が納得するとも限らないのに。


 自分がどうするべきなのか、よく考えてみるといい。


 遠近の脅しが思い出される。自分がどうするべきだったのか。それを改めて考えるには、今は疲れすぎていた。


 夜の風が、頬から熱を奪っていく。今夜が新月であることに、鶴屋は仕事を終えるまでずっと気づかなかった。


 *


「いいね」


 天井の白い蛍光灯に、緑の琥珀が透かされた。人工的な光を通しても、琥珀はうるうると美しさを保っている。白い鼻先に落とされた影は、まさに木漏れ日のようだった。


「お前たちはすごいよ。私が望んでいるものを、きちんと持ってきてくれる」


 緑色から視線を下ろし、総長は鶴屋とコジロウを見た。悠然とした瞳と視線が合い、鶴屋は思わず背筋を伸ばす。だが普段丸まっている背中は、中途半端にしか伸びなかった。


 琥珀の指輪は、総長の望みに沿うものだった。この指輪で、ニーナの嘘で、ふたりは課題を達成したのだ。鶴屋は心底ホッとしたが、その安堵感は虚しくもあった。


 総長の後ろには遠近が、背筋を伸ばして控えている。「ありがたき幸せ」鶴屋の隣で頭を下げるコジロウの背は、曲がっている。


「して、次はいかような品を?」


 侍は礼から顔を上げ、問う。その横顔はいつになく凛々しかった。きりりと上がった眉尻と、固く閉じられた薄い唇。それはおそらく誰から見ても、「覚悟の決まった」表情だった。部屋に漂う澄んだ空気が、コジロウの輪郭をくっきりと描き出している。


「次も、やりたいかな?」


 総長の目が侍を射抜いた。着物の襟から覗く喉仏が、音もなく上下する。しかしそれでも、コジロウは迷いなく答えてみせた。


「無論にござりまする」


 その言葉が耳に届くと同時に、鶴屋の肩は重くなる。右のポケットの内側で、隕石がごとりと転がったような感触があった。布の上から、右手でそっと触れてみる。隕石が本当に転がったのか、判別はつかなかった。


「そうか」


 総長が一瞬、鶴屋の顔を見た。


「それじゃあ、やろう」


 視線はすぐに外される。しかし鶴屋はあの一瞬に、自分のすべてを、恐怖のすべてを見透かされた気がしてならなかった。


 総長に摘ままれた指輪から、真っ白な蟻が鶴屋を見ている。怒りも悲しみもないその顔から、目を逸らした。本物の蟻。本物の琥珀。今はそのどちらの美しさも、鶴屋を脅かすだけだった。


 吸い込んだ空気に肺を刺される。総長の赤い唇が、薄く柔らかに開かれる。

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