第16話 みんなはともだち

 その夜の仕事は、これまでのものとは違っていた。鶴屋の前にPCはなく、代わりに大量の段ボール箱が積み上げられている。


「とりあえずこれを全部空けて、中身、確認するだけでいいから」


 アサヒコはそう言って笑ったが、作業内容の容易さだけで喜べるような量ではなかった。スタッフルームの隅からそっと、背後を振り返ってみる。いつものデスクに姿勢正しく腰かけて、ミヅキはどこかへ電話していた。アサヒコは「じゃあよろしく」と言い残し、自らのデスクへ戻っていく。


「かような作業なら、それがしもいささかは役に立てようというものよ」


 鶴屋の左で、コジロウがフンと鼻息を漏らす。その空回った声と仕草は、すっかりいつも通りだった。天使の前で見せた覚悟は表情のどこにも見当たらず、鶴屋は内心ホッとする。


 あの顔のまま横にいられたら、相当居心地が悪かっただろう。自分に足りていないものを、コジロウだけが持っているとは思いたくなかった。


「ほんと? じゃああたし、箱開けるのだけやるね!」


 今度は右からニーナが言う。彼女もやはりいつもと変わらず、能天気な顔で笑っていた。アサヒコが置いていったカッターを拾い、リズムを刻むように刃を伸ばしていく。


 その中指に光る指輪を、鶴屋はなるべく視界に入れないようにした。天使に伝えた特徴の中に、間違いを見つけたくなかったのだ。鶴屋の説明でできた指輪に、コジロウは金を払うことになる。その責任が怖くて怖くてたまらなかった。


 ニーナはぐっと背伸びをして、一番上の段ボールを取る。そして封のガムテープをカッターで裂き、「はーい」と鶴屋に手渡してきた。会釈と共に受け取ると、箱はずっしりといやに重たい。密かに呻きつつ腰で支えて、どうにか手近なデスクに下ろす。


 半分開いた箱の蓋にはマジックで「水」と書かれており、中身は確かに水だった。五百ミリリットルのペットボトルが一ダース、折り目正しく整列している。


「よし、かかろうぞ」


 と、鶴屋の後ろからコジロウの手が伸びてきた。侍はボトルを一本掴み、ゆっくりと横に回転させながらキャップを見つめる。それが終わると、今度はボトルを軽く振った。手を止めて水を観察し、底からキャップの裏を覗いて、ようやくボトルをデスクに下ろす。


 一連の動作の意図が分からず、鶴屋はぼんやり立ち尽くしていた。その姿から困惑を感じ取ったのか、コジロウは「あぁ」と納得したように頷いてみせる。


「なに、難しいことはない。それがしはただ、毒の類が仕込まれておらぬか探ったまでだ。ほれ、おぬしもやってみよ。透明な水ゆえ、異変があればすぐ気づけよう」


 そう言ってまたペットボトルを取り出すと、侍は鶴屋に差し出してくる。「はい」とそれを受け取りながら、鶴屋は動揺を必死に隠した。


 毒の類。あまりにも不用意に発された言葉が、湿った指で脳を撫でていく。毒の確認はありふれたこと。「裏路地の底辺」の人間が、おそらく任され慣れていること。不要なはずの常識がまた、鶴屋の記憶に刻まれた。


 キャップの確認、ボトルを振って水の確認、キャップの裏側の確認。動作をぎこちなく進めるごとに、胸がざわざわと粟立ち始める。そうするうちに「はーい」と新たな段ボールも来て、胸を撫でてやる余裕もないまま次の一本をまた取り出す。一本、一本、次の一本。仕事は淡々と続く。そうして十五分経ったあたりで「休憩ー!」とニーナが店を出ていったが、鶴屋とコジロウは休むことなく透明な水を覗き続ける。


 ニーナが消えたスタッフルームは、いやに静かで広々としていた。確認を終えたペットボトルをデスクに置きつつ、鶴屋はこっそりとミヅキに目をやる。彼女は手帳とノートPCのモニターを見比べ、手帳に何やら書きつけていた。血色の悪いその横顔には、はっきりとした疲れが見える。


 ニーナとミヅキがまともに会話しているところを、昨日からずっと見ていない。ニーナが休憩を宣言しても、そのまま一時間戻らなくても、やっと戻ってミヅキの頬をつついても、ミヅキは何ひとつ反応しない。知り合って間もない鶴屋にも、その異常さはなんとなく分かった。初めて彼女らを見たときの、あの威圧感が消えている。


 彼女らがもはや「集団」の形を成していないことは、どう考えても明らかだった。


 次の一本を取り出しながら、そろりと視線を動かしてみる。ミヅキの奥では、アサヒコがモニターに向き合っていた。時折髪をかき上げつつ、静かに作業を続けている。その口元の微笑みを見て、鶴屋はうすら寒くなった。


 アサヒコは昨日も今日も変わらず、一昨日と同じ柔和な笑みのままでいる。彼は女性ふたりの調停役のようだったが、この二日間はほとんど声を発していない。鶴屋とコジロウのいないところで働きかけたのかもしれないが、それにしては効果が見られなかった。アサヒコの沈黙も、ミヅキの表情に滲む疲労も、スタッフルームの静けさも、鶴屋には心底不気味でならない。


「はい、休憩おわりー!」


 不気味さに耐えつつキャップを確認していると、ニーナが部屋に戻ってきた。今回の休憩は短めだ。パタパタと軽い足音が聞こえ、緊張感が増す。ペットボトルを軽く振りながら、鶴屋はニーナを窺った。彼女はふわぁとあくびをしつつ、一番上の段ボールに手を伸ばしている。両目を閉じて口を開いた横顔には、緊張感の欠片もなかった。


 その場の空気が求めるものに、ニーナは得てして応えない。分かったうえで無視しているのか、そもそも分かっていないのか。どちらとも判別できないが、とにかく彼女のその特性が、スタッフルームに悪影響を及ぼしていた。ニーナが明るい声を上げるたび、能天気な顔で笑うたび、部屋の温度は下がっていく。


 完成された集団も、役割を果たせない者がひとりいるだけで簡単に崩れる。その事実がひどく残酷に思え、鶴屋のこめかみはズキズキと痛む。その苦痛を逃がすように溜め息をつき、ペットボトルに向き直る。と、


「わっ!?」


 甲高い悲鳴が鼓膜に刺さった。鶴屋は再び顔を上げ、ニーナの横顔に視線を向ける。そうして思わず、「あっ」と声をあげていた。


 ニーナが掴み、下ろそうと傾けた段ボールから、カッターが滑り落ちてきていた。


 カッターは長く刃を出したまま、ニーナの胸へ落ちていく。危ない、と分かりきった事実を鶴屋が口にしかけたとき、指輪の左手が箱を押し返した。突き飛ばされた段ボール箱は後ろに積まれた同族にぶつかり、ドサドサと山を崩していく。


 一方のニーナは、反動のまま後方へ三歩よろめいた。離れていく胸の前を、カッターの刃先がゆらりと掠める。ニーナの尻餅がドスリと重い音を立てると、凶器はカランとごく軽い音で床に落ちた。


「何やってんの!」


 ハプニングの余韻に浸る間もなく、金切り声が鶴屋の耳をつんざいた。叩きつけるような靴音が迫り、それがカツリと止まると同時にまた声が響く。


「いい加減にしてよ、なんでいつもそう危なっかしいわけ!?」


 ニーナの両肩を掴み、ミヅキが怒鳴っていた。語尾が震えている。鶴屋、コジロウ、アサヒコ、三人の視線の中心で、ニーナが誰よりも目を丸くしていた。崩れた段ボール、転がったカッター。生温い常温を保つ空気に、「なんで?」と気の抜けた声が消えていく。


「あたし、びっくりしたけど何ともなかったよ? カッター、段ボールの上に置いたの忘れてただけ」


「それが危なっかしいって言ってるんでしょ!?」


 ニーナの肩に、ミヅキの指先が食い込むのが見える。あの夜の痛みを思い出し、鶴屋は自分の手首をさすった。痣はいくらか薄くなっているが、それでもまだ少し青いままだ。ミヅキの横顔を見る。そばかすの上の鋭い瞳が、何かに耐えるように細くなる。


「ホンットにいつもいつも、どうしてあんたはもっと自分を大事にしないの! 私がどれだけあんたのことを心配してるか分かってないの!? あんたの体も、あんたが大事にしてるものも、大切に思ってるのはあんたひとりじゃないんだよ! もっと全部、ちゃんと大事にしなさいよ!」


 細められた目の向かい側で、ニーナは依然ポカンと両目を見開いている。ミヅキの言葉を何ひとつ、理解できない。そういう表情だった。


「あたし」長い睫毛がぱちりと瞬く。「あたし、大事なものはちゃんと、大事にしてるよ」


「してないよ」


 ミヅキは半ば遮るように、ニーナの言葉を否定した。してないよ、ともう一度繰り返し、肩からするりと手を離す。その手をニーナの背中に回すと、彼女は寄りかかるように、ニーナの体に抱き着いた。


「してないから、私がいないと駄目なんでしょ」


 声を詰まらせてそう言うと、ミヅキは声をあげて泣き出した。子供のような頼りない声が、スタッフルームの壁に反響する。ニーナはミヅキを抱きしめ返すこともなく、ただぼんやりと首を傾げて、散らばった段ボールを見つめていた。


 その目の色とミヅキの泣き声が、鶴屋の中で虚脱感に変わる。だがなぜそんな感覚になるのか、鶴屋自身にも分からなかった。爪先から体が消えていくような、そんな虚しさが視界を霞ませる。


「なぁ、今日はもう帰りなよ」


 霞む視界の外側から、どこか投げやりな声が聞こえた。顔を上げると、アサヒコがすぐそばに立っている。「な?」とコジロウにも呼びかけ、彼は有無を言わさぬ足取りでふたりを出口へ導いた。


 姿勢のいい背中を追いながら、鶴屋は一度だけ後ろを振り向く。ミヅキは大声で泣き続け、ニーナはただじっと座り込んだまま、真っ直ぐに前を見つめていた。衣擦れの音ひとつ立てないように、鶴屋は首の向きを戻す。アサヒコが扉を押し開くと、夜の外気に鼻を撫でられた。


「あのさ、あんまり余計なことしないでくれよ」


 扉がキィと閉まると同時に、溜め息交じりの声が聞こえる。店の外壁にもたれかかって、アサヒコはあぁ、と苛立たしげに呻いた。その口元に、あの柔らかな笑みはない。路地の暗さに溶け出すような、じっとりと疲れきった顔がコジロウと鶴屋を見る。


「あの指輪、くれって言ったんだろ」


 その音は、これまでに聞いた彼の声とはかけ離れていた。しかしそれでも、別人のように聞こえはしない。それはあくまでもアサヒコの声で、そのことがむしろ恐ろしかった。


 鶴屋はコジロウに視線を逃がす。コジロウもまた鶴屋を見ていて、ふたりは顔を見合わせてから、気まずくなって俯いた。アサヒコの乾いた、それでいて絡みつくような言葉が続く。


「あれ、昔からずっと着けてるらしいんだよ、ニーナは。子どもの頃にお祖父さんからもらったみたいで。けど中二のとき、うっかり落としやがってさ。たまたまそこにいた俺とミヅキが探してやって、そこからなんとなく三人でつるむようになって」


 裏路地に甲高く、風が吹く。アサヒコは、アスファルトをタンと爪先で叩いた。何も言えない鶴屋を置いて、調停役はまくし立てる。


「ニーナはミヅキによく甘えるから、ミヅキもなんか喜んじゃってさ。ほらあいつ、基本自分に自信ないんだよ。だから頼られてその気になって、それでそのまま、何にもできないニーナに合わせてこんなとこまで転がり落ちて……今はこんな仕事」


 はぁ、と、また溜め息が絞り出される。怒りと疲れを剥き出しにした、熱のない響きだ。


「あの指輪さえなきゃ、俺たちの人生はたぶん全然違ってた。ミヅキにとっては全部なんだよ。あの指輪と、ニーナが」


 アサヒコの指が、耳たぶに刺さるピアスを摘まむ。そしてそのまま、神経質に引っ張った。耳たぶに開いた小さな穴から、ぷつりと血の玉が浮き上がる。


「俺、ほんと大変なんだ。必死にバランス取ってんの、見ててなんとなく分かるだろ。なぁ、分かんないのかな? 頼むよ」


 ドアの奥からはまだうっすらと、泣き声が漏れ聞こえてくる。


「俺たちのこと、壊さないでくれって」


 強くなるばかりの虚脱感を、鶴屋はどうしても止められなかった。

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