38話 王都オーブを脱出せよ

護衛騎士のバーナードは、駆けつけてくれたスペラード伯爵家の馬車にすら、剣の切っ先を向けて鋭く告げた。


「無礼を許されよ。ここからは私が御者を務める」


手綱を握っていた男は、口元を引き結んで頷くと、素早く馬車を降りて手綱を手渡した。


「ご武運を」

「申し訳ない。貴方が誠の臣下だった時は、この無礼、いずれ必ず詫びに参ります」

「いいえ、正しい判断です。私は伯爵様にご報告にまいります」


短く挨拶をしあって、若い男の御者とバーナードは短く頷き合う。

そこまで警戒しないといけないことなのか、とうそ寒い心地を感じながら、私は見送ってくれたカエルレウム令嬢を振り返った。


「あの……送ってくださってありがとうございます」


彼女は優雅に微笑んで頷いた。


「赤き軍神が、また私達を同じ食卓に送り届けてくれますように、祈っておりますわ。……護衛騎士を待たせてはいけませんね」


バーナードは、その一言で退出の許可が出たのだと認識したらしい。カエルレウム令嬢に一礼すると、私を抱き上げたまま素早く馬車へ駆けていった。

私を馬車の中に押し込むと、通り抜けるように反対側の扉を開いて御者席へと向かう。

疾風のような早業に目を白黒させているうちに、後から追いついた老侍女アメリと幼い侍女イヴリンが慌ただしく乗り込んでくる。

彼女達のつま先が地面を離れたのを確認するや否や、バーナードは手綱を取って馬を走らせた。


がくん、と身体が後ろにのけぞって、後頭部を背もたれにぶつけた。

地味な痛みに顔をしかめている私の前方から、バーナードのよく通る声が窓から流れ込んでくる。


「アメリ殿、御者に見覚えは?」

「見たことがありませんね。それに、我が城の者は『旦那様』とお呼びになります」

「やはりそうですか。私などでは、候補が多すぎて絞れませんが、アメリ殿は?」

「候補など絞って何になります。順序をつけるだけですよ。王都街道から一度伯爵屋敷に戻ります。すぐ馬車を変えて領地へ向かいましょう」

「はっ」


まさかと思ったが、アメリの顔は平坦で、嘘をついているようには思えない。

あんなに心配そうに見えた御者は偽物で、これから私達は本当に黒翼城へ逃げ帰るのだ。


──私が、王位継承者を選ぶ権利を持つ、竜のレガリアだから……。


急に不安がこみ上げてきて、私は思わずイヴリンの手を握った。

それは、得体の知れないものに自分が変質していく恐怖だったし、この後に訪れる嵐の予感への怯えだった。


「大丈夫ですよ、ユレイア様。父はそう弱くありません」


イヴリンは、私を安心させるように、わずかに口元を持ち上げた。澄んだ青い瞳は自信に満ちていて、それだけで私は少し強ばった肩の力がゆるむのを感じた。


「そ、そうよね……」


不安な気持ちはもっともだが、ここで喚いていても仕方ないのだ。

カーテンを下げられたが外が気になって、私は目だけが見えるようにわずかに布を押し上げた。


馬車は軽やかに駆け続け、多くの通行人や馬車を抜かし、やがて王都街道へと続く白い大通りに出る。

華やかな貴族の邸宅が並ぶ目抜き通りで、裏は大運河だ。朝ここを馬車で通った時は、こんな事になるとはちっとも思っていなかったのに。


道行く人達の身なりは皆清潔で美しく、すさまじい勢いで馬車を走らせる私達はひどく目立った。

公爵や侯爵などの大貴族の邸宅の横を蹄が蹴立て、街路樹の新芽を散らさんばかりに風を起こす。

十字路を一本曲がりまた少し走った時、ようやくバーナードがわずかに明るい声で言った。


「もうすぐ着きます、ご準備を……」


がたん! 

彼の声をかき消すように、突然馬車の壁を叩かれて私は悲鳴と共に飛び上がった。

当然、走っている馬車をノックできる者などいない。

見上げれば、ちょうど扉と天井の隙間くらいに、鈍く光る金属が挟まっていた。既に潰れて歪んでいるが、壁に穴を開けて突き立っているそれは、弓競べでさんざん見た、弓矢の鏃だった。


「う、うそ……!」


馬車に、矢を射かけられている!


がつん! がつん! と続けざまに馬車が叩かれる。そのたびに屋根に、壁に、扉に金属の鏃が突き立った。


「お行儀の悪い子がおりますね」


アメリは、テーブルに足を乗せた大人を見るような顔で矢を一瞥し、イヴリンは私をさっと抱きしめて頷いた。


けれど、冷静な二人に反して、私は硬直してまったく動けなかった。

ばくばくと心臓が暴れ出し、全身に冷たい脂汗が滲む。喉の奥が手で握りつぶされたように呼吸が浅くなり、両手が勝手に震え出す。


「そちらで伏せてお待ちください」


アメリは静かにそう言うと、座席の下から短い弓と矢筒を取り出し、素早く窓を下げると身を乗り出した。

あぶない、と思う暇もなかった。

彼女は指に挟むようにして矢を三本つがえるや否や、目にもとまらぬ早業で、次々と後方へ放ってしまった。


当たったのかは分からないが、明らかに矢の振ってくる量が減っている。

目を丸くする私の前で、アメリは気に入らなそうに顔をしかめて、小さく呟く。


「久しぶりで鈍りました」


そう言いながらも次々とまた矢をつがえて放つ姿は熟練の狩人さながらで、私はあっけに取られるしかなかった。

弓競べでアメリが出ていたら、表彰されていたに違いない。


気付けばイヴリンは、壁に突き立っていた鏃を掴んで内側に引き込んだらしく、新しい矢をせっせとアメリの矢筒に押し込んでいる。


けれど、矢の勢いが弱まったと思ったのは一瞬だった。

反撃してくる事に焦ったのか、さっきの倍ほどにも思える矢が次々と降りしきった。あられが叩きつけるような激しい打突音が馬車の中を容赦なく満たしていき、私は恐慌状態に陥った。


「バーナード! どうしよう、アメリ。バーナードが外に!」

「うちの御者には全て矢避けがついています。漏れたぶんは自分で払うでしょう」


そんなこと出来るのか、と思ったけれど、即座に「大丈夫ですよ、ユレイア様」と落ち着いて元気そうな声が御者席の方から飛んでくる。


「アメリ殿。少々数が多い。二手に分かれましょう。右の馬を外しました、いつでも乗れます」


そう言ったバーナードは、見事に手綱を操って、優しい音で馬に呼びかけていた。

矢が降り注ぐ中ですら、その声に馬は落ちつきを取り戻し、街道を変わらない速度で駆け抜けている。

あまりに堂々とした態度に、私は泣きたくなった。


どうしてそんなに無邪気に、自分が生きていけることを信じられるのだろう。

戦場をくぐり抜けたから? 今まで大丈夫だったから?

そんなこと、何の保証にもなりはしないのに。たった一度でも失敗すれば、あっけなく全てが終わってしまうのに!


アメリもまたひどく冷静に頷くだけで、一人で震えている私を振り返った。


「ユレイア様、服を脱いで、イヴリンと交換してください。今から私は馬車を下り、馬でイヴリンを乗せて王都を抜けます」

「ユレイア様、お着替えを手伝います」

「馬には乗れますね? いざとなったらお一人で馬に乗り、伯爵屋敷までたどり着いてもらいますよ」


どんどんと進む話に、私は浅く呼吸をして首を横に振った。

馬の練習はさせてもらった。簡単な護身術だって、しっかり仕込んでもらった。

だけど、訓練の内容なんて、残らず吹き飛んでしまった。

吐き気がする。めまいがして周囲の音がさあっと遠くなる。


「いや、いや、いや……!」


私は知っている。

残酷な断絶が起きる日というのはいつだって突然で、私の意志なんて関係なく猛然と奪われる。

新年祭のごちそうの香りは、鉄と馬のにおいにかき消される。賑やかな宴席から、突然タペストリーの裏側の、細く長い地下通路へとたたき込まれる。

誰より強いと信じていた人達は井戸の底でうずくまった私を迎えに来ることは出来なかった。


「大丈夫ですよ。ユレイア様。黒翼城でまたお会いできます」


イヴリンは、座席の下から黒いヴェールを引っ張り出すと、素早く頭に被ってみせた。

こうすれば、遠目には私と同じ黒髪に見えるだろうことが、ますます私の恐怖を煽った。


どんなに強くあろうと、誰であろうと死んでしまう。

私を含めて、誰も特別な人間なんていない!


知らないうちに、吐血のような言葉が悲鳴になって口からあふれた。


「行かないで、行かないでっ! お願い、私の傍を離れないで!」


壁に矢が突き立つ。天井に穴があく。砂埃が窓から流れ込んできて、私はひくっと喉を震わせた。


「これ以上、一人も! ひとりも居なくならないでっ!」


頭がきんと白くなる。

ごうごうと身体の中で血が騒ぎ出す。

私の中でめぐり、渦をまく何か大きな熱のようなものが、よじれながら内蔵を駆け抜けていく。

熱の塊をえずくように、私は叫んだ。


「妖精よ!」


ざわりと、何かが振り返る音がした。

街路樹の枝という枝がばちばちと揺れて騒ぎ、馬車のまわりで勢いよく土埃が立つ。

矢の雨にすら落ち着いて走った馬が激しくいなないて足をゆるめ、速度を徐々に落としていく。


「私達を傷つける者を、吹き飛ばして!」


暴風と共に、矢がやんだ。


あんなにも降り注いでいた黒い雨は、晴れ間に追いやられたように一本も振って来ない。

代わりに、貴族の邸宅の壁の向こうから悲鳴が上がっていた。

植え込みの樹木がありえないような勢いで左右に揺れ、バルコニーに掛かった黒い布が生き物のように翻っている。

何かが落下する音が、開いた窓から風に乗って飛んで来る。



私は、ざわざわと渦巻いていた身体の熱が、一瞬で消えているのに気がついた。

何故か、感覚的にわかった。

あの熱が言葉になって飛んでいったのだ。

もう弓は来ない、とわかって、私はほっと息を吐いた。


本当に、出来てしまった。


「やった……!」


がらがらと車輪が軋んで、馬が高い声で鳴く。ゆるやかに走っていた馬車は、今や完全に止まってしまっている。


「おい、頑張れ。どうした。頼む、あと少し走ってくれ」


バーナードの焦った声がするけれど、馬は怯えきった鳴き声と共に硬直している。妖精の姿が見えて、怯えたのだろうか。

大丈夫だと伝えようと立ち上がりかけた時、ふいに私は気がついた。


アメリが、私を見ている。

矢の雨にすら眉ひとつ動かさなかった老侍女の指先が震えている。その頬は血の気が引いて真っ白で、目を見開いたまま信じられないような顔で唇を震わせている。


「……ユレイア様。あなた様は……一体……今……何を……?」


暖かな安堵に、氷水をぶちまけられたようだった。

そうだ。どうしよう。そうだった。どうすればいいんだろう。

ここはトーラス子爵家ではない。

いにしえの聖地と呼ばれ、妖精の国と異名を持つ土地で自然だったことも、厳格な騎士団の土地では通用しない。

ここでは私は、異端なのだ。


「あ、あの……これは……」


その時、バーナードが御者席から飛び降りる音が響き、私達はいっせいに窓の外を見た。

気合いの声と共に剣を振るい、刺客を吹き飛ばしたバーナードの背中が、窓のほとんどを塞いでいる。

どうやら、まだまともに動ける者は多いらしい。妖精達は「私達を傷つけるもの」というのを弓だと認識したのだろうか。


「どこの者だ。名乗れ!」


バーナードの問いに答える者はなかった。

剣と剣のぶつかる音が響き、足音が次々と重なり、土埃が立つ。


がん! がん! がん!


扉が大きく揺れ、誰かがバーナードと反対側の扉を叩いた。

敵の数が多い。あまりにも、多い。


がん! がん! がん!


不安と恐怖でまた舌が強ばり、同時に身体の中にまた不自然な熱が渦を巻く。

アメリが素早く弓を構え、イヴリンが私を黒いヴェールで包んだ。私もぎゅっとドレスの裾を掴み、腹の底で渦巻く熱を感じながら扉を睨んだ。


激しく震えた扉が大きな音と共に歪み、その隙間から、ぬっと黒い手が覗いた。蜘蛛のように指がうごめき、がたがたと扉を揺らす。

ねじれて歪んだ蝶番がはじけ、薄暗い馬車に、血と汗の臭いが流れ込んだ。

逆光で影になった人間の顔が、扉の隙間から覗く。

襲撃した刺客は、茶色い袋で顔を隠して目だけ出し、人相はわからない。目元に皺はなく、瞳はありふれた緑だった。


「無礼者……!」


アメリが低く呻いて弓を引き絞った時だった。

男の眼球が急にぐるりと上に向き、白目をむいた。

静かに呻いた男が崩れ落ち、その身体を後ろから受けとめた誰かが、無造作に刺客の身体を地面に投げ捨てる。

一瞬、バーナードが間に合ったのかと思ったが、彼の声は未だに反対側で響いている。


刺客を倒した人は、袋を被っていなかった。

それどころか悪目立ちしそうなほどに装飾を施した上着を着ていて、陽射しに反射し小太りの頬に汗を垂らして、ぜいぜいと肩で息をしている。


知っている顔だ。よく、知っている。

だけどここに居るのが信じられなくて、私は口をぱかっと開けた。


「なんだその間抜け面は。まったく、とんだ面倒を起こしてくれたものだな!」


心底嫌そうにそう言って、ショーン大叔父さんは壊れた扉を地面に投げ捨てた。

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