36話 彼方より来たる歌声

第一王子たるレイモンド殿下を前にして、私はひきつった笑みのまま小首をかしげ、必死で周囲に頼れる大人はいないかと視線をめぐらせた。


残念ながら、私が勝手に走り出したせいで、後から追いかけてきてくれたのは幼い侍女イヴリンと、専属護衛騎士のバーナードだけで、到底王子殿下との優雅な会話を助けてくれるようには思えない。

何ならバーナードは一人で青ざめて今にも倒れそうになっている。

当然だ。

私がうっかりヘマをしたら、もしかしたらスペラード伯爵家が吹っ飛ぶかも知れないのだから。


「私が誰かを探しているように見えたのかい? 正解だよ。最近、ここオーブでは不思議なことがあってね。ユレイア嬢は知っている?」


冷や汗をかく私に構わず、レイモンド第一王子は気さくに話しかけてくれていた。その目は微笑んでいたが、どうにも観察されているような気がしてならない。

私はソーダ水のように青ざめて小刻みに震え、何とか唾液を飲んで首を横に振った。


「お屋敷の部屋にずっと居りましたので、何も……」

「そうかい? いたずら妖精の噂だよ」

「いたずら妖精?」


そういう話は大好きだ。

思わず顔を上げて目を開くと、レイモンド第一王子は朗らかな笑みを浮かべた。


「貴族がオーブの郊外で馬車に乗っていると、急に屋敷のバルコニーから花飾りやタペストリーが落ちるんだって。その癖、馬車が暴れて事故になりかけると、道ばたの人が突風に突き飛ばされて助かるそうだよ」

「まあ……」


私の知っているいたずら妖精とは随分違う。

オトギリソウの花は馬の姿をした妖精だから、日の出ているうちに踏みつけたら、夜中に背中に乗せられて遠くまで連れていかれてしまう……とか、妖精が真夜中にいたずらでジギタリスの花に触れて、毒のある小さな手袋にしてしまうとか、そういう話なら知っているのだけど。


「事故が起きる時には、必ずこんな、冷たい風が吹くそうだから、あちこちで氷風のいたずら妖精と呼ばれているんだって」


昔、まだ妖精が見えた頃には、首都オーブに空飛ぶトカゲみたいな形をした妖精がうじゃうじゃ飛んでいた。

ああいう、毒にも薬にもならない、ただうろついているだけの妖精はよく見たけれど、彼らはあんまり積極的に人に関わろうとはしなかった。


「知りませんでした。どこの通りで噂になっているのですか?」


思わず前のめりになれば、レイモンド第一王子は嬉しそうにトパーズ色の目を細めた。


「よかった、トーラス子爵領から来た君なら、こういう話も好きかと思っていたんだ」


私は心臓がひっくり返るかと思った。

王家の人間って、こんな子供まで臣下の家の人間、一人一人を詳しく知っておかなくちゃいけないのか。

私はレイモンド第一王子のことを、ほとんど知らないのに。


「わ、私のような者の……ことを存じてくださり、光栄のあまり倒れてしまいそうです」

「そんなにかしこまらないで。君は有名人だもの。ご家族のこと、とても辛かっただろうね」

「それは……」


惨劇の新年祭が過ぎ、季節は春を連れてきたとしても、心を落ち着けるにはあまりに短い。

私にとって家族の事は、過去になる気配すら起きない、未だに血を流し続ける嵐だ。

当事者のひとりでもあるスペラード伯爵家では登らない話題に、一瞬、何と答えればいいか分からず唇を震わせた。

レイモンド第一王子殿下は、優しそうな眉をちょっと下げて、私に寂しそうに囁く。


「僕も弟を亡くしたばかりだから、ほんの少しなら君の気持ちがわかると思うんだ」


私はぎゅっと胸が痛んで、思わず唇を震わせた。


ウィルはあまり他の王子達の話をしたがらなかった。

全てが敵、と言っていたから、おそらくレイモンド第一王子なんて、王位継承争いの最大の政敵だろう。

でも、トーラス子爵家のような貴族家があるのだ。ウィルが敵だと警戒しているだけで、弟を大切に想っている王子だって、居るかも知れないじゃないか。


「お気遣いいただいて、心より感謝いたします。レイモンド第一王子殿下におかれましては、大切なご兄弟が冥府の神の外套に包まれたこと、誠にお寂しい事と存じます」


かつて何度も何度も言われた言葉を、私がウィルの腹違いのお兄さんに言うなんて、変な感じだ。

それでも、少し涙声で告げれば、レイモンド第一王子も少し目元に涙を浮かべて、ゆっくりと頷いた。


「ありがとう。私は、ユレイア嬢とはずっと話してみたかったんだ。銀麗の騎士の忘れ形見、銀鷲の翼に抱えられた黄金の雛。神殿の……」

「まあ、レイモンド王子殿下。お久しぶりでございますわ」


レイモンド第一王子が指折りで数えた、私のよく知らないあだ名を遮ったのは、澄んだ少女の声だった。

私が振り返ると同時に、レイモンド第一王子が、低い声で呟いた。


「レティシャ嬢」

「カエルレウム公爵令嬢とお呼びくださいませ、レイモンド殿下。公式の場ですもの」


湖の湖畔のように青い瞳をした美少女が、優雅な足取りで私の横に立つ。

王族が話している横から割り込むのは結構な不敬に当たるのだが、あまりにも落ち着いた口ぶりなので、逆にこれが当然のように思えてしまう。

びっくりして目を丸くしている私の隣に、カエルレウム公爵令嬢はすすすっと寄ってきて、肩が触れそうな距離で微笑んだ。


「お久しぶりですわ、ユレイア様」

「あ、ええと……お元気そうで何よりです。カエルレウム公爵令嬢」

「あら、嫌ですわ。レティシャとお呼びになってくださいませ。一緒に競べ弓を見た仲ではありませんか」


するっと女子高生みたいに腕を組まれて、私は困惑した。


「あの……カエルレウム公爵令嬢?」

「私達、とっても仲がいいのですわ。この間も、スペラード伯爵家のお茶会で沢山話しましたもの。ね?」

「は、はい……」


そりゃあ、話はしましたけれども。

振り払うのは失礼だと思うが、ウィルの元婚約者にそんなことをされる心当たりがまったくない。


「おや、意外ですね? 崖の下の魚は狩りの上手い銀鷲の翼の影には入られないとばかり」


レイモンド殿下が急に意味のわからない事を言い出して、私はまばたきをした。


「銀の翼の下で休む黄金の雛ならば、湖のほとりで花を愛でるお心もお持ちですもの。柔らかな雛が海蛇の口に入らぬか、湖面が波立つように落ち着かなくなることもございますわ」


カエルレウム公爵令嬢まで意味の分からないことを言い出した。


「銀鷲の守護者が、雛に毒のある魚を与えますかね?」

「既に快い歌声を届けていただいておりますわ。花の降る競べ弓は、いたく盛況でしたもの」


助けて、ウィル。

二人が急に宮廷語を喋り出したよ。

しかも、互いに目が微笑み合っているものの、何となく空気が冷たい。

もしかしなくとも、この二人って敵対勢力に属しているのではなかろうか。

教えて、宮廷の勢力図。

ウィルの不在を私は真剣に呪った私は、しかし彼を思い出してはっとした。


何をやっているんだ、私は。


そもそも、ウィルが戻ってきた時に教えてあげる情報を集めるのだって、重要な使命だったはずなのだ。

元婚約者に、腹違いのお兄様。

どちらも、彼の話をするには絶好の相手じゃないか。

決意をこめてちらりとカエルレウム公爵令嬢を覗き見すれば、すぐに気がついて彼女はふんわりと優雅に微笑んでみせた。


「ねえ、ユレイア様。競べ弓は感動しましたわ」

「悲しみの中にあるカエルレ……レティシャ様のお慰めになれれば光栄ですわ」


私が願われた通りに呼んだので、まあ、とカエルレウム公爵令嬢は嬉しそうな顔をした。

たぶん、レイモンド第一王子と敵対している関係上、私の助力が必要なのだろう。

スペラード伯爵家は、十貴家に入る貴族で、その上五大伯爵の中では序列が一位だ。それなりに、無視出来ない相手なのだと思う。

今は、その立場を利用して、ウィルの情報を集めなければ。


「お茶会ではあまり出来ませんでしたので……きょ、今日は、亡くなられたウィリアム殿下のお話をお聞きしたいと思っておりました。年も近い方なので、興味があって」

「それでしたら、僕もお話してあげられますよ、ユレイア嬢」


話を挟んできたレイモンド第一王子に、ぱっと笑顔を向けて「わあ、嬉しい」と私は無邪気を装って頷いた。

とたんに、カエルレウム公爵令嬢が自然な仕草で私の腕を引いて、注意を引く。


「では、まず私からお話させていただきますわ。ウィリアム様は……」


珍しく、カエルレウム公爵令嬢の言葉に、わずかに迷いが出た。

けれども、すぐにいつお通りの優しく賢そうな、流れるような口調に戻ってしまう。


「物静かで聡明で、あの年頃で為政者の器であられましたわ。あの方に気遣われると、慈悲深い、という言葉が浮かんだものです」


えっ、誰それ?


私の脳裏を、あぐらをかいた幽霊が肩の近くに浮きながら、ぺちゃくちゃ喋って通過する。

固まっている私をよそに、レイモンド第一王子も、確かにね、と苦笑して頷いていた。


「私より随分年下だったのに、ひどく落ち着いた弟だったよ。自分の立場を恐れたことなどないようで、声を荒げるなど見たことがなかったな」


えっ、本当に誰?


あーー! と奇声を上げながら頭を抱えてのけぞり、そのまま空中で一回転する幽霊が脳内で点滅する。


「優雅な立ち居振る舞いは宮廷一でしたわ。厳格な教師ですら、ウィリアム様の前では緊張せざるを得なかったでしょう。けれど、本当に大人びた方で、私などはあの方を目の前にすると、己の幼さを感じるばかりでございました」

「完璧な王太子だったよ。けれど、あの微笑みは美しすぎて、まるで人形のようだったな。幼い彼に心酔する者があまりに多くて、私なんかは、もっと子供らしい姿が見たかったものだ」


二人の証言から受けるウィルのあまりの別人っぷりに、私はあっけに取られて絶句する。


もしかしたら私の知っているウィルは、単に王太子殿下を自称しているだけのやばい幽霊かも知れないという可能性に到り、ちょっとぞっとした。

あるいは、ウィルという存在を、家族を失った私が勝手に想像で作り上げてしまったのだろうか?

いや、流石に私の知らない宮廷情報は正確だったし、黒翼城を窓から脱出したのだから、おそらく幽霊自体は存在するのだろうけれど……。


「立派な方だったのですね……」


一人で混乱しながら辛うじてそれだけ言うと、ほう、とカエルレウム公爵令嬢が微笑んで、絡めた腕に力をこめた。


「懐かしい婚約者様の話を女の子同士でするのは、心が慰められるものですわね。もっと話したいですわ、ユレイア様。カエルレウムの席にいらっしゃいませんか?」


にっこりと快活な笑みを浮かべて、レイモンド第一王子が、ちょっと膝をかがめて私に視線を合わせた。


「先に話していたのは私ですよ。家族を悼む者同士でしか分からないお話を、もっとしたいものです。ユレイア嬢は、王家のバルコニーに行ったことがありますか? ジュースが美味しいですよ」


ひいいと私は声もなく悲鳴をあげた。

これはどう返事をするかによって、スペラード伯爵家の今後が決まるやつではないだろうか。

私って今、宮廷でどんな立ち位置に居て、どんな利益があるんだろう。

これだけ熱心に誘ってくるのだから、多分私が知らない何かしらがあるのだろうが、その心当たりがまったくない。


何でなの、スペラード伯爵家ってそんなにすごい家柄だったの?


スペラード伯爵は過保護だから「ユレイアは、傍を離れるな」しか教えてくれなかった。

いや、確かに五歳の孫娘にそこまで宮廷事情を詳しく教えるかって言ったら、多分情報管理の意味も込めてあんまり教えないんだろうけど、それが今、裏目に出ている。


「お……お祖父様に聞いてみないと、わかりません」


カタカタ震えながら辛うじてそう言ったら、二人は即座に「遣いをやりましょう」と言って、後ろの護衛騎士に指示を出してしまった。

スペラード伯爵家のテーブル、運が悪いとまだショーン大叔父さんがごはんを食べてる。

何も知らずに食事をしてたら、公爵家と第一王子から同時に伝令がすっ飛んで来たら、彼はどんな反応をするのだろう。

シレーネ大叔母さんより度胸がない気がしているんだけど、それも演技なのだろうか……。

ちょっと現実逃避めいた気持ちで、遣いが去って行くのを眺めていたら、変な沈黙が三人の間に漂ってしまった。

話題の糸口を私が勝手に作ってしまっていいものか、と悩んでいた時、ふいに見たことのある顔が近づいて来ているのに気がついた。


憂い顔の似合う整った顔立ちと、この華やかな会場では逆に目立つくらいの簡素な白い装い。

以前、競べ弓の大会で評判になり、この間は私とお祖父様をこっそり神官長の元へ案内した美形の神官だ。

ウィルほどではないが清流のように澄んだ美しさがある。

同じ方向を見ているカエルレウム公爵令嬢も、あら、と小さく呟く。


「テラ神官。こんなところでお会いできるなんて」


美形の神官は、テラと言うらしい。初めて知った。

カエルレウム公爵令嬢に声をかけられて、彼は立ち止まって丁寧に胸に手を当てた。その袖口に、華やかな金の袖飾りがついている。


「宮廷の至宝。虹の王城にて輝く御方。祈りの音、高く響く方々に、神官長様の代理として、この若輩者がご挨拶申し上げます」


このテラという神官は、あのよぼよぼのハツカネズミみたいな神官長の代理として来ているらしい。

確かに、あの年齢じゃあ長いこと立っているだけで足腰も辛そうだし、儀式で色々と急がしいのだろう。


丁寧な挨拶には正しい作法で返したいが、残念ながら神殿に対する語彙がまったくない。困って「お会いできて嬉しいです」と微笑んで見せたが、テラ神官の用があったのは私ではなかったらしい。


「カエルレウム公爵令嬢におかれましては、ごきげん麗しゅう。レイモンド殿下もまた、お心晴れやかであられますように」

「崖の下から冷たい風が吹かなければ、もう少し春の港にも陽が差すのだろうけれどね」


急にまた宮廷語を喋り始めたレイモンド第一王子に、カエルレウム公爵令嬢の腕がぴくっと動く。どうやら、これは彼女に対する悪口らしい。

テラ神官は、知的な微笑みを絶やさずに、恭しい口ぶりで囁いた。


「常春の港アンティカは、平和の尊さを忘れてしまいましたか。ノヴァも今は、青きカエルレウム公爵家として、我らアウローラの虹の一色です。どうぞお心遣いをなさいませ」


レイモンド第一王子の表情が一瞬強ばる。

私も、はっとひらめくものがあって、息を飲んだ。


おっもいだした……。


スペラード伯爵が、虹の出ている滝を見せてくれた時に、アウローラ王国の歴史を聞いたことがある。


カエルラ湖のほとりの国ノヴァと、港のある国アンティカという国が、泥沼の争いをしていた。そして、戦争の仲裁に入ったアウローラ王国が、結局両方の国を呑み込んでしまった、と。


じゃあ、アウローラの一部になったノヴァとアンティカの王族はどうなったかと言うと、生き残った一部の人達は、アウローラ王国の貴族になっている。


というか、レイモンド第一王子のお母さん、つまり第二王妃様って、アンティカのお姫様なのだ。


そして、今聞いたところによると、カエルレウム公爵令嬢はノヴァ王家の末裔。

つまり、お祖父さんの世代では戦争してた、ばりばりの敵国同士の末裔が今、何だか分からないけどさりげなく喧嘩してたのね。そして私が巻き込まれてたのね。


あー、なるほどー。繋がった、なるほどねー。

一人で納得している私をよそに、テラ神官は穏やかに微笑みながら、レイモンド第一王子をゆったりと見つめて告げた。


「太古の昔……回帰の竜は、氷呪の荒野の彼方より追い出されて、この土地にたどり着いたと言います。妖精姫の愛を得て、恨み、争いから解き放たれた時、凍りついた大地は緑なすアウローラ王国となりました。戦を辞め、人々が手を取り合った時にこそ、豊かな田畑が生まれるのだ、ということを示唆しているのでしょうね」


どうやら、テラ神官は、大物同士がバチバチ喧嘩しているのに気付いて、神殿関係者として仲裁に来ていたらしい。

口調は優しいわりに、結構強気なことを言ったようだ。

レイモンド王子が、不快そうにぎゅっと眉をしかめた。

そういう顔をすると、快活で朗らかなお兄さんだったのが、年相応の不機嫌な少年めいて見える。


「綺麗事だな。本当の歴史を見てみるといい。誰もが聖典の望むように生きられる訳ではない。人間とは、そういうものだ」


テラ神官は鋭い視線をこゆるぎもせずに受け止めて、穏やかに首を横に振った。


「遠き竜背山脈を日々巡っておりますと、その綺麗事がいかに大切だったかということがわかってまいります」

「神の声でも聞こえるのか?」

「いいえ、自分の声と、村で暮らす人の声が聞こえるのです」


小馬鹿にしたようなレイモンド第一王子に微笑んで、テラ神官は聖句をそらんじるように囁いた。


「希望も、倫理も、神の教えすらも、まだ誰もその手にしっかと掴んだものはございません。けれども、誰もが胸に抱えています。そして、吹き飛ばされそうな風の中で、暗き道のりを灯火のように照らしているのです。綺麗事というものを、大切になされませ」


敬虔な口ぶりなのに、逆に聖句から離れた言葉に、レイモンド第一王子が意外そうな顔をする。

カエルレウム公爵令嬢が、小さく頷いたのが振動で感じられた。


「……へえ」


思わず、他人事のように呟いてしまって、私は慌てて口をつぐんだ。

完全に、まるで微塵も信じていない顔で説教を聞いていた私と、テラ神官の視線がばちりと合った。

レイモンド王子ですら、ちゃんと聞く耳をもった話が、こんな子供に完全に聞き流されたのが気になったのだろう。

テラ神官が私を見て、穏やかに微笑んだ。


「ユレイア様も、ご家族を亡くされてお辛いでしょう」


そんなの、当たり前じゃないか。


急に傷に手を突っ込むような話をされて、私の心に強い拒絶がわいた。

けれどテラ神官は、おごそかで敬虔な口ぶりで、私の怒りの中心に無造作に踏み込んだ。


「ですが、絶望してはなりませんよ。祈り続け、歩き続けてください。それこそが、あなたを助ける場所に連れていくのです。貴方に降りかかった運命を、許しておあげなさい、あなたのために。そうでなければ、祈りなさい」


誰が。


ふいに、冷たい怒りが猛烈に吹き上がり、頭が痺れたような気がした。


「神を信じられるような人生を歩んだ神官の方には、たった一人になった私の気持ちなどおわかりになれないと思います。いいえ、多分、誰にも」


レイモンド王子と、カエルレウム公爵令嬢が、驚いたような顔で私を見る。

けれど、テラ神官の方は、こんな風に言い返されるのは、慣れたものなのだろう。

ちらとも驚かずに、優しく言葉を重ねた。


「本当にあなたがたった一人、誰からも理解が得られないかどうかなど、神しか御存知でおられません。だからこそ、信じるのです。それこそが、あなたの真実になるのですから。なぜなら、誰かの幸福を祈ることは、あなたの心を守ることなのです。誰かに優しくすることは、等しく、あなたを守ることと同じなのです」


多分、ただ突然の不幸に悲しんでいるだけだったら、心に染みたのだろう。


でも、私は憎んでいた。

この理不尽に。私を傷つけた者に。そう仕組んだ誰かに。

悲しみ以上に、ずっとずっと、怒っていた。


「それは、テラ神官の経験ですか」

「ええ。多くを見てきました」


──そして、生き延びてきたんだ。


私は乾いた笑いが口元に浮かぶのを感じた。


悲しみを胸にとどめて許すこと、耐えること。

それが、長く時を生きた人が選びたがるのは、その人が生きているからだ。

従ったまま死ぬ人だって、前世の私みたいな人だっているのに、たまたま生き延びられたから、まるで自分が世界の真実をよく分かっているみたいに。


たった一人分の人生経験しかない癖に。たまたま長生きできた運の良いたった一人の意見でしかないのに!


「多くを見て、感じて、そして分かったのです。許すことこそが、救われる道なのだと」


変な笑いがこみ上げてきて、私はあまりに怒りが湧くと、一周回って面白くなるのだと知った。


だって、あの一夜はあまりにも理不尽だった。あの愛する人達は悪くなかった。私だって悪くなかった。

ひとつも、ひとつたりとて。


綺麗事を求めろと言うのならば、悪人が報いを受けるべきだと言う綺麗事を私が求めて、何が悪い。

その大切な綺麗事を説くべきは私ではなく、今ものうのうと暮らしている、犯人達だろう。

体中がざわめく。怒りという怒りが身体を巡っている。血のようだ。川のようだ。何かの強い流れが、私の中を渦巻いて暴れている。

まるで、魔術を使って風を起こした時のようだ。


「ふ……ふふふ……」


突然くすくすと笑い出した私を、レイモンド第一王子がぎょっとした顔で見た。カエルレウム公爵令嬢も、目を開いて絡めた手をほどく。

口元を引き結んだテラ神官に、私は囁く。


「私は、許しませんよ」


その時だ。


色んな事が同時に起きた。

どさりと湿った大きな音が、あちこちで同時にして、周囲に悲鳴が上がった。


目の前のテラ神官も、一瞬前の表情で横倒しに倒れる。

カエルレウム公爵令嬢の悲鳴が、高く響いた。

ぐるり、とテラ神官の首が私の方を向いた。


周囲を見回せば、倒れた人々は、誰も彼も白い神官服をまとっている。不思議とその顔は皆、私の方を向いていた。


その倒れた神官達の口から、歌声が、かすかに響いて広がってくる。


『かそけき声に、哀れみを ついえし命に言祝ぎを』


目も見開かれたまま、全ての倒れた神官の口から一律に同じ音が、ラジオのように響いてくるのだ。


『かなたにて冬に凍えて眠り こなたにて芽吹きて咲けり』


私は震えた。

この歌を、知っている。

どこで聞いたかなどもう覚えていない。

覚えていないけれども、絶対に知っていると魂が叫んでいる。


『新しき時を開く星の娘 妖精の青き血を継ぐ姫 回帰せし竜に冠を載せるもの』


それは子供の声のような、金属がこすれ合うような、不思議と耳に残る声だった。


『星はめぐり、めぐり、めぐり、今こそ満ち足りた』


虫の声が急に重なって増えるように、次々と同じ声が大きくなる。

猛烈な音に、崩れていく意識が、魂が絡めとられるようだ。


『そなたこそ』『そなたこそ』『そなたこそ』


全身が震える大合唱。意識が粉々に砕けそうな大音量が響き──ふいに、止んだ。

全てが無になったような静寂。

低いため息のような声がひとつ、響く。


『そなたこそ竜の王権の象徴レガリアなり』



──すべての神官の瞳が、私をまっすぐに見つめていた。

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