第27話 妖精博士を目指す人


「こんなこと言いたくはないけど、あえて心を氷の神にして言うよ」


ついに迎えたお茶会当日。

きよらかな朝日が、うず高く積み上がったドレスと装飾品の山を照らす子供部屋。

可愛らしいシャンデリア付近でウィルがふわふわ浮きながら腕を組んで、私を厳しく見下ろした。


「ユレイアは、世間知らず!」


大きな鏡の前に腰かけていた私は、くるりと振り返って片眉をあげた。


「言いたくないなら、言わなければいいじゃない」


今、部屋には私だけしかいないので、声を低めつつ口を尖らせる。

多芸にして凝り性な侍女メアリは、直前になって私のドレスの裾が気に入らないと言って、隣の控え室に引っ込んでしまった。

彼女のことだから、小魚が布地で泳ぐように針を操り、最初からそのために作られたかのごとく自然にレースを付けてしまうのだろう。

お陰で私は、お茶会への緊張を先延ばしされながら部屋で一人、手持ち無沙汰に足を揺らしている。


「あまりにも危機感が足りないから言ってるんだよ! スペラード伯爵家が対策してるのはわかる。わかるよ? でもあまりにも武力に頼ってるんだもん! もっとこう、有力者に声をかけるとか意味ありげに花を贈るとかどちらとも取れる情報を同時に仲悪い家同士に流すとか、こう……こう……ね!」 


スペラード伯爵家、あまりにもまっすぐで不安なんだよ! と頭を抱えて芝居がかった仕草で嘆くウィルに、私は深くため息をついた。


ただでさえ、ここ一週間で

「ねえ、ユレイア。もうないよね、もう後出しなんてしないないよね? トーラス子爵領で、恐ろしいものを普段使いしてたりしないよね?」

「実家の名産は羊毛と白麦でした。最近はひまわり油が好調でした」

という会話を幾度も繰り返して辟易しているのだ。


そりゃあ、高度で優雅な王族同士の謀略仕草から見ればもどかしいかも知れない。

だけど、スペラード伯爵が大真面目に私を守ろうとしてくれてるのに、あれこれ足らないと文句つけられれば腹も立つ。


頭の中のヴィクトリアお姉様が「言われっぱなしなんてつまらないわ!」とまばゆい笑顔で言うので、私はウィルのお人形みたいに綺麗な顔をじとりと睨み返した。


「王宮から出たことのない王子様に言われたくないわ。からあげもウサギりんごも作ったことないくせに」

「から……?」


ウィルが、扇みたいに長いまつげできょとんとまばたきをするので、このふたつは前世の知識だったな、と思い返して私は頭を切り替えた。


「世間をよく知る王太子殿下は、地方貴族が毎年毎年社交シーズンに首都オーブまで出かける旅費を稼ぐのがどれだけ大変か知ってる?」

「旅費って……。大げさなこと言わないでよ。ちょっと馬車で移動するだけじゃないか!」

「大金持ちの王族は、自前の馬車を新調してあげるのも、職人に対する親切でしょうね。でも貧乏子爵は、手持ちの馬車なんかそう何台も何台も買えやしないわ。そもそも管理できないし。買えたとしても、手間がかかるの。高価な馬車は雨ざらしに出来ないし、季節ごとに手入れも必要なんだから。たとえ置き場所があっても、馬を何十頭もお世話する人を雇わなくっちゃいけないし。だから、貧乏貴族は、社交シーズンになると、領地で普段農耕馬やってる馬と荷馬車を借りて、オーブに着いたら帰ってもらうの。それで帰りはまたオーブで人を雇うのよ」

「いや、確かに王族は移動しないけど。でも、迎え入れる方だって色々準備もあるし……」

「そうでしょうね。でも、私達だってそっちと同じように、社交パーティーで着る人数分の新しいドレスと靴とアクセサリーと外套を工面してるわ。招待状の紙だってインクだって手紙に吹きかける香水だって、招かれた時に渡す手土産だって、いくつもあると馬鹿にできないんだから」

「招待状……」


ウィルが、理解できない単語を聞いた顔をして黙った。

ああ王子様、招待状やインクは勝手に地面から生えては来ないんです。


「だから貧乏子爵一家はいかに領民に不安を与えずに稼ぐかでいつも主家と臣下で毎晩毎晩予算会議してるのよ。ひまわり畑から取れるオイルが当たる前は、羊の毛刈り大会で懸賞かけるとか、仔牛のかけっこレースで賭けをするとか、色々やってたんだから」


ちなみに、どちらもトーラス子爵領民からは日々の息抜きとして好評だったが、運営費が思いの他かかって稼ぎというには心許なかった。

とうとう黙り込んでしまったウィルに、いつの間にかぐっと握っていた拳を膝に落として、つまり、と私は締めくくった。


「私の常識はあなたの非常識。逆も一緒よ」

「ユレイア、一言ったら百返してくる……」


ウィルが、今更かわいこぶって上目遣いをしてくる。

造作が非常に整っているので、事実として本当に可愛いところが腹立たしい。


「優雅なレディに囲まれて育った王子様には、そう見えるかも知れないわね」


つーんと顔をそらしたら、ウィルがとうとう肩のあたりで両手をあげて、私の前に回り込んできた。


「……わかった、僕も世間知らずだってことは認めるよ」

「素直でよろしい」

「光栄です、レディ」


鷹揚に頷いて許してあげると、ウィルはふわりと胸に手を当てて、マナーに厳しい家庭教師十人が揃って拍手喝采真するような優雅さで一礼した。

そして、ついっと床に足をつけ、私の顔にちょうど視線を合わせる。


「でもねユレイア。子爵家の令嬢としてなら許されたことが、伯爵家の孫娘としては許されなくなっているんだよ」


私だって、なりたくてこの立場になった訳じゃない。

でも、三回も暗殺の憂き目に遭った王子様のまなざしが真剣だったから、私は黙った。


「君は、他人の運命を揺るがす立場の人間になってしまったんだ。それは、とても重たいことなんだよ」


しばらく考えて、私は胸の中でじたばたしている反発心を見つめ返した。

それがどうやら、言い負かされるのは悔しいという程度の、ちょっと格好悪い種類のものだということを認めて、私はすうっと息を吸って、吐いてから頷く。


「……わかった。私も世間知らずだってことを認めるわ」


頭の中のロビンハートお兄様が「ごめんなさいはどうしましたか?」と可愛らしくも凜々しい眉をつり上げたので、耳の近くの髪を指にからめてから、諦めてウィルを見返す。


「……あなたの育った環境では知り得ないことで偉ぶって、ごめんなさい」

「…………」


ウィルが、思いもかけないところに段差があったような顔をした。


「どうしたの?」


首をかしげたら、彼はしばらく腕を組んで、ふわっと身体を斜めに浮かせて悩んで、一度逆さまになって悩んで、それから一回転してから床に戻ってきた。

そして、実に複雑そうな、それでいて神妙な顔つきで、あのね、と呟く。


「多分、僕の立場では今しか言えない。だから、今だけ言うね」

「なに?」

「僕も自分の無知をよそに置いて偉そうなことを言って……。その、ごめんね」


私はぱちくりとまばたきした。


普段、ウィルが気軽に言っている「ごめんねー」とはまた別種の、柔らかいけれど重たい謝罪だった。

きっと、彼が王太子殿下という立場の時は、ひとつ謝るだけで多くの人が被害に遭うことになるのだろう。

地位があるって大変なんだな、と率直に思った。


「いいよ」


ウィルの頬がほんのり赤くなって、うん、と静かに頷く。

どちらもそこそこ生きているくせに、まるで本当に見た目通りの子供みたいだ。

彼とこんな風に、素朴な許しを口にしあっているのが不思議と照れくさかった。


照れ隠しに何か言おうかと思ったちょうどその時「ゴンゴン!」と高らかにノッカーが鳴ったので、私は慌てて口をつぐんだ。

手元に置いてあったベルを鳴らし返すと、控えの間に続く分厚い扉が開く。


「失礼します」


そう言って花柄の絨毯を踏んだのは、騎士バーナード家のご令嬢たるイヴリン。

私のうっかりで運命をねじ曲げてしまったかわいそうな被害者で、新しい専属の侍女だ。


彼女は、私の話し相手であり、そしてバーナードが裏切って秘密をバラさないようにと脅すための、人質なのだ。


他所から見たら突然の大出世なのだろうが、まだお母様の元に居たかっただろうに、と思うと、何でも出来る歴戦の侍女アメリと違って、申し訳なさがつのる。


「アメリ様から、お話相手になるように言われてまいりました」


そう言うイヴリンの声は、淡々としているけれど高くていとけない。多分、年のころは、私のふたつかみっつ上だろう。

多分、ロビンハートお兄様と同じくらいだ。

茶色い髪も青い目も父親にそっくりだったが、顔立ちは母親に似たのか、雪の精のようにさえざえと知的だ。


「いらっしゃい、イヴリン」


私は、なるべく怖がらせないよう、機嫌良く見えるように笑って手招きした。

イヴリンは頷いて、ととと、と小さな足音を立て、アイスブルーのドレスの裾を揺らして寄ってくると、少し緊張した面持ちで私の後ろに立った。


「ユレイアお嬢様、髪をとかしてもいいですか?」

「もちろん。嬉しいわ。踏み台はそこのを柄ってね」


イヴリンはまた頷いて、小さな布張りの踏み台を、重たそうに持ってくる。

手伝いたいけど、そんなことをしたらイヴリンの仕事を取ってしまうので、ハラハラしながら鏡の前で座って待つ。

ようやく私の後ろに立って髪を梳きはじめた彼女に、私はそっと微笑んでたずねた。


「イヴリン。ここの生活はどう? 慣れた?」


侍女は、掃除や洗濯をする使用人達とは違う。

彼女だって騎士の家柄だし、品の良いドレスを身にまとい、刺繍やドレスの手直しはしても力仕事をする必要はないのだ。

けれど小さなヘアブラシと小瓶を持ち、たどたどしい手つきで髪を梳いてくれる姿は、慣れていない仕草と相まってひどくけなげだった。


「はい。アメリ様は、とてもやさしいです」


イヴリンは、いつこの質問をしてもまったく同じ返事が返ってくるので、本当にそうなのか心配だ。

手つきこそ幼いけれど、彼女は物静かで冷静で、もはやあの暑苦しくて熱血なバーナードの娘とは思えない落ち着きがあるけれど、一人で寂しく夜に声を殺して泣いていたらと思うと気が気でない。


「よかった。アメリもあなたの事を褒めていたわ。熱心にやってくれるって」

「まだまだ覚えることばかりです」

「心配なことがあったら、私にも言ってね」

「私はここに来られて嬉しいので、心配なことなんかありません」


気を遣えば遣うほど、こんなに小さい子にお世辞を言わせているみたいであまりにも申し訳ない。

仲良くなりたいのに距離を感じてもどかしくて、ついつい必要以上に明るくなってしまう。

必死に次の話題を探している私に、鏡の上部にすうっと逆さまに映ったウィルが、ちょっと意地悪な顔をして


「僕の気持ちがわかったでしょ」


と言うのが腹立たしい。

何とか打ち解けようと、私は方向性を変えてみることにした。


「今日のお茶会、私も緊張しているの。私が最初に話さなくてはいけないでしょう? イヴリンだったら、どんな話が聞きたい?」


イヴリンがちょっと考えるように黙り込んで手が止まる。ウィルが親切心で


「不安なら言っておけば、スペラード伯爵が無難な話題を選んでくれるよ」


と、おそらく王宮で普通に流通しているやり方を教えてくれる。

それはそうかも知れないけど、会話の内容まで決められてるなんて王宮って本当に大変だ。


「妖精の話が、聞きたいです」


ぽつりと雨だれのような声でイヴリンが言うので、一瞬上手に笑い損ねた。


私の常識は他人の非常識。

特に妖精にまつわる事に関してはどうしても感覚がずれる。

うっかりまた変なことをして誰かの人生を巻き込んでしまったら目も当てられない。

私は慎重に言葉を選んだ。


「春の窓辺にミルクを置くと、夜の内に妖精が飲みにきて次の日には減っているとか、そういう話でいいの?」

「聞きたいです。とても」


食い気味に返されて緊張すると共に期待してしまう。


あれ……これは結構いい手触りじゃない?


「そういう逸話でよければ、沢山知っているわ。森で丸い形にキノコが生えているのは妖精の輪フェアリー・サークルって言って、妖精が踊ったからだと言われている、とか」


ちなみに、単に偶然キノコの胞子が飛んだだけの妖精の輪もあるけれど、本当に月夜に踊った影響で出来ているものもある。

見分け方は妖精の靴跡や座った痕跡があるかどうかだけれど、見えない人にとっては難しいものだろう。


「知っています、図鑑に書いてありました」


意気込み強くイヴリンが頷くので、私はわくわくと緊張で胸が高鳴った。

ブラシを握る手にちょっと力がこもりすぎて髪が引っ張られて痛いのは気にしないことにする。


「ええと、他にはね。森の中で木のうろとかを見つけるでしょう?」


そういう物の中にはね、と言おうとしたちょうどその時、私の髪を梳いていたブラシがつるりと飛んでいった、

どうやら力を込めすぎて吹っ飛んでしまったらしい。

ああ、とため息をついたイヴリンは、謝りながら慌ててブラシを追っていった。


振り返ってその後ろ姿を目で追っていた私は、ふと、アイスブルーのドレスの裾にあしらわれた銀のレースが、一部千切れているのに気がついた。

ひっかけてしまったのだろうか。

もうお客様も来ているのに、大変だ。アメリに言えば直して貰えるだろう。


けれど、声をかける前に、困ったようにウィルが私の肩にふわふわと寄ってくる。


「これは僕が教えてあげなくちゃいけないみたいだね……」


何よ、と思っているうちに、イヴリンが戻ってきて私の髪に再び取りかかった。

ごくろうさま、と声をかけながらも、ちらりと横目でウィルを見れば、彼は私の耳にお人形みたいな顔を寄せて「あれは嫌がらせなんだよ」とひそひそと囁いてくる。


「本当に引っかけたなら、他の布地も一緒に裂かれたりしている筈だろう? なのに、まるでわざわざ切り取ったように綺麗に切れている。あのまま放っていたら、歩くたびにほどけて、ちょうどお茶会の時間に引きずるようになるよ」


なんでそんなことを、という顔をした私に、ウィルが悲しそうに眉を下げた。


「ユレイアは気付いてないみたいだけど、今、伯爵家の使用人は二分されてるんだよ」


それは初耳だ。

イヴリンに怪しまれないように「ええと、あとは何だったかな……」と悩むふりをしているうちに、ウィルは好き勝手に黒翼城を歩き回って手に入れたらしい情報を披露してきた。


「スペラード伯爵とその孫娘のユレイア派と、大叔父ショーン夫婦派だ。スペラード伯爵は絶対的な権威を持っているし、彼が生きている間は何が起きても安泰だろうけど、でも、跡継ぎ問題となったら話は別だ」


もしかしたら、アメリが買ったばかりの私のドレスを「気に入らない」と言って直しに行ってしまったのも、そうなのだろうか。

有能な侍女アメリが、大事なお茶会前にドレスを完璧に準備していないはずがないのだから。


「大叔父夫婦は十年以上も黒翼城に住んでいるし、あちこちの貴族と繋がっている。それに対してユレイアは、正統な孫だけど、一月前に来たばっかりで五歳の子供だ。当然、使用人達もどっちに付くかで別れるよね」


そして、その嫌がらせが、急に現れて大出世した新入りの侍女に向けられているらしい。


「ちなみに、今のところ、若くて新しい方は大叔父夫婦、古い使用人はユレイアだね」


つまり、どこかの若い使用人がこんなみっともない事をやったという事なのだ。


なにそれ、なにそれ!


私はむかむかと猛烈に腹が立ってきた。

いい大人がやるようなことじゃない。小さな女の子に対して、恥ずかしくならないのか。伯爵家に使えるような者の気品が知れる。


だいたい、スぺラード伯爵は何をしているのだろう。大叔父夫婦の勝手を、どうしてそのままにしているのだろう。

即断即決でイヴリンを私の侍女にしてしまったみたいに、打てる手段なんか色々ありそうなものなのに!


そこまで考えて、何も知らずに妖精の話でわくわくしていた私自身に思い至って落ち込んだ。

私だって気付かなかったのに、スペラード伯爵にだけ完璧を求めるなんて、恥ずかしい。


それに、いくら嫌な人達だったとしても、私のために古い親戚を急に切り捨てるというのも、それはそれで嫌だ。

もしもいつか私がスペラード伯爵の気に入らないことをしたら、同じように切り捨てられてしまうのだろうから。


でも、今のイヴリンをこのままにしておく訳にもいかない。

彼女は私のせいでここに居るのだし、私が主人なら守ってあげなくちゃいけない。


私は、突然に思い出したみたいな顔をして、ちらっと鏡越しにイヴリンを見た。


「あの、イヴリン。あなた、裾のレースが切れているの。後でアメリに直してもらうわ」


ひっかけたんです、と言ってくれないかと思ったけれど、イヴリンは、ああ、と無感動に頷いただけだった。


「気にしないでください。アメリさんには、直前に直してもらう約束をしています」


ウィルの言った通りだったのだと証明されてしまって、私は細い声でうめいた。


「私のせいで、ごめんなさい……」

「いいえ。気にしていません」


淡々と静かな口調は、悲しみを押し隠しているからだろうか。

そう思えば、ますます申し訳なくて胸が痛い。


「イヴリン。しばらくは、年のいった侍従の近くでお仕事をしていてね。それから、なるべく私のそばでお話して欲しいわ」

「でも、お仕事があります。覚えることも、沢山」


うんと年下の女の子に諭されて、私はしゅんと肩を落とした。


「そう……そうよね……」


ウィルは「わかるわかる」と囁いて、慰めるように、私の肩付近をすかすかと指先で撫でた。


「それに、新入りの侍女をずっと側に置いていたら、余計に反発が強くなるよ。ユレイアについている古い使用人は権力があってね。そういうのが若い使用人達は気に入らないんだ。大叔父夫婦に同情してるっていうのもあるけど、古い体制に対する苛立ちも含めて反発しているんだ」


なにそれ。私は何も出来ないってこと? 私のせいなのに?


あまりのもどかしさ、悲しさに泣きそうになって私は唇を噛みしめた。

ふいに、前世の友人の顔が脳裏に浮かんだ。

ルームシェアって楽しそうだよね、なんて冗談めかして探るように提案してくれた大切なお友達。

チカちゃんも、こんな気持ちだったのだろうか。

助けたい相手に優しくしようとすればするほど、相手の立場が悪くなると分かって、悔しかったのだろうか。


「そうだったんだ……」


思わず口に出して返事してしまって、さあっと背筋が冷えた。

気をつけていたのに、やってしまった。

真後ろにイヴリンがいるのに、幽霊に返事をしてしまった。


ただの独り言だと思ってくれないだろうか、と思ったのに、ブラシを動かす手がぴたりと止まっている。

ユレイアお嬢様、という声に肩が震える。


「妖精が、見えるんですか?」


静かに、いっそ冷え冷えと硬い口調で聞かれて私はひきつった笑いを浮かべた。


「ど、どうしたの。突然」

「私が意地悪されているのを知らなかったのに、おばあさんの方が私に優しいのを、急に知っているようになったので」

「まずい、この子頭がいいよユレイア!」


ウィルが両手で口元をおさえて叫ぶが、私だって叫びたい。好き勝手に騒げる幽霊が羨ましい。


「二回、お返事しましたよね」


鏡に映ったイヴリンが、澄んだ青い目をすうっと周囲にめぐらせて、ちょうどウィルから頭ひとつぶんずれた場所に視線をぴたりと遭わせて囁く。


「いるんですか?」


ウィルがひいぃと震え上がって私の背後に隠れた。


「こわいこわい何この子こわいよ! 本当にバーナード家の娘なの? 恐いよぉ!」


真剣に怖がる幽霊が、青ざめながら無意味に背中に隠れる。

そんなことしなくても見えてないよウィル、とは思うものの私の顔もしっかりひきつる。

可愛らしい少女が、妙に淡々とした幼い表情のまま、あらぬところを凝視している姿はちょっとしたホラーだ。


「ユレイアお嬢様、本当に見えるなら、言ってください。私、私……」


珍しく、イヴリンの声が震えている。

怯えているのだろうか。嫌われてしまっただろうか。小さな女の子に泣かれてしまったらどうしよう。罪悪感で心臓が縮み上がる。


「絶対に捕まえてみせますから」


へ、と私とウィルの声がかぶる。

顔を上げれば、イヴリンは青い目に静かなる情熱の炎をめらめらと燃やしていた。

ブラシを握る力に、また力がこもっているのがわかる。


「私、絶対にいると思っていたんです。妖精。見つけたら、絶対に捕まえてやろうと思っていて」

「つ、捕まえる……」

「ユレイアお嬢様は、捕まえたことはないんですか?」

「な、ない……」


いつでも気付けば傍にいたので、そういう発想にならなかった。

全然まったく珍しくないものをわざわざ捕まえようとは思わない。


「ええと……イヴリンは、妖精が好きなの?」


はじめて、ほんの少しだけイヴリンは口元をゆるめた。


「妖精博士が大好きなんです」

「妖精博士……?」

「マリアンネ様です」


お母様は、子爵家の傍らそんな異名も取っていたのか。知らなかった。

驚きと同時に、胸がじんわりと暖かくなる。

お母様を慕ってくれる人がこんなところにも居たのだと思うと、切なさと喜びが複雑に身体を渦巻いた。


「家に、妖精博士の図鑑があるんです。沢山。絵がかわいくて、何度も読みました。お父様が、ランドルフ隊長からもらってきてくれたんです」

「ああ、お母様が妖精の話をまとめて、絵描きを呼んで作っていた本のこと?」

「はい。お父様は、ランドルフ隊長が大好きみたいですけど、私は妖精博士の方が好きです」


その本の存在なら、私も知っている。

元々、難しい言葉でまとめていた妖精の話を、おとぎ話をねだる私のために絵本にしてくれたのだ。

せっかく作ったのだから、と私達用以外にもいくつか作って、子供の居る友人の家庭に配っていても不思議ではない。


「お母様は、本当には妖精なんていないんだよって言うんですけど、私は居ると思うんです。だから私、将来は妖精博士の弟子になるつもりだったんです」


だけどその夢は、血塗られた新年祭の一夜で儚く砕け散った。


あの本も、今は私の手の届かないトーラス子爵領の財産として、手作りの本棚の中にしまわれている。

そう思えば、腹の底でどろりと粘度の高い憎しみがうごめいた。

ぐっとドレスの膝を握った私に、イヴリンは強いまなざしで問いかけた。すがるように。


「ねえ、ユレイアお嬢様。妖精はいますよね」


私は、確信を込めて頷いた。


「いるわ」


イヴリンの、青い瞳が輝いた。


「やっぱりいるんだ……やっぱり、いるんだ……!」


小さく何度も囁き、頷く姿は喜びに満ちていた。

情熱に燃える瞳は、父親のバーナードによく似てる。


──私はここに来られて嬉しいので、心配なことなんかありません


私はイヴリンのあの言葉を、まるきりお世辞だと信じ切っていた。


でも、こんなに小さい女の子でも、自分自身の夢があって、自分の運命を彼女なりに受け止めて生きているのだ。

勝手に不幸だと決めつけて、私が守らなくっちゃと気負っていたけれど。

私はチカちゃんではなく、イヴリンは前世の私ではない。


「ねえ、イヴリン。あなたは今は、将来何になりたいの?」


私はまだ、彼女のことを何も知らない。


「沢山妖精をみつけて、沢山絵を描いて、沢山説明をします」


彼女は、表情の読み取りにくい顔できっぱりと、けれど強い熱意を込めて静かに言い切った。


「それで、王立図書館に、私の書いた図鑑を置いてもらうんです」


私は頷いて、心からの尊敬を込めて微笑んだ。


「とても素敵だわ。私、きっと協力する」


さっとイヴリンの顔が輝き、楽しみですレディ達、とウィルが嬉しそうに呟いた。




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