第18話 取引成立

軽やかな足音がする。


「ほら、レイア起きて! もう朝よ。お父様に、泣き虫姫じゃなくって、お寝坊姫って呼ばれちゃうわ!」


明るい少女の声が降ってきて、暖かい手が私の肩を揺さぶった。


「おいで、起きてくださいお寝坊さん。今日はベリー摘みの日ですよ。お父様に、とっておきのベリーパイを作ってあげるって、張り切っていたじゃないですか」


柔らかな少年の声と共に、優しい仕草で頭を撫でられる。


「ほら、お父様の足音よ。ふふ、規則正しくて、一定で、すぐにわかるわ」


暖かな女性の声がして、指先でいたずらっぽく頬をつつかれる。

私は歓喜に叫びそうになりながら、眠いまぶたを懸命に持ち上げようとした。

こんなに私は起きたいのに、飛び起きて抱きつきに行きたいのに、身体はちっとも動かない。

むにゃむにゃと寝言を言う私に「おや、お寝坊姫ですね?」と少年の楽しげな声がした。


「そうだ、皆で一緒に寝たふりしましょうよ! きっとおはようのキスをしてくれるわ!」


陽射しのように明るい声が提案し、優しい女性が「素敵だわ」と同調した。

コツコツコツ、と規則的な靴音がする。

優しい誰かが近づいてくる足音だ。


よかったぁ!


私は泣きそうになりながら、心から安堵した。

ああ、全部悪い夢だったんだ。よかったぁ!


──そこで目が覚めた。


まだ真っ暗な部屋の中で身を起こすと、斜めになった低い天井に頭をぶつけた。

私は、額をおさえ、濡れた服のまま硬い木箱の上に丸まって、横に倒れる。

身体のあちこちが軋んだ。うたた寝をしていた木箱は硬く、部屋の隅には湿った嫌な臭いのする毛布が丸められている。

風は弱まっていたが、まだ嵐は窓の外にしつこく居座っていて、雨粒が曇った窓ガラスを叩いている。


「……さいあく」


一言、ぼんやりと呻いて私は木箱にまた頭を乗せた。


寝る前に、変な夢を見た気がする。

王太子を名乗る幽霊が、自分は回帰の王だとかでたらめを言って、復讐に誘う夢。

夢とは確かに都合のよい願望を映すものかも知れないが、頭の硬い私にしては随分と突飛な夢を見たものだ……。


「おはよう、ユレイア。身体は痛くなっていない?」


逆さまのウィルが、にゅうっと突然視界に入ってきて、私は勢いよく飛び起きた。

金髪の頭は重力にとらわれないらしく、ひっくり返ってもふわふわと短い巻き毛が襟足に向かって流れている。


「ゆ、ゆ……」

「うん、幽霊だよ?」

「夢じゃ、なかっ……?」

「あはは、夢じゃないよー」


ひらひらと手を振るウィルは、青ざめたままの私に「あ、レディーの寝顔は失礼だから見てないよ。泣き疲れて寝ちゃったのを木箱に乗せてから、すぐ出て行ったよ」と見当違いの気遣いを見せる。


真っ暗な小部屋の中で自慢げに微笑む半透明の姿は、紛れもなく寝る前に見た、王太子を自称する幽霊だった。


「ねえねえ、僕と取引する気になった?」

「申し訳ありませんが、私は……」

「あっ、やめてよ。僕ら公平な取引相手なんだから、もっと気楽に話して。敬語なんか使わずにさ」

「身に余るお言葉です」

「遠回しに迷惑って言うのやめてよ! 下手に身分あるとそういうの敏感になるんだから!」

「聡明なお言葉に感服するばかりでございます」

「こんなに嬉しくない大正解宣言、はじめてだよ。心折れそう」

「お心を嬉しく思います」

「折れた心が!?」


ひとつ叫んでから、幽霊はけらけらと笑い始めた。

心が強いにもほどがある……とひそかに思っていたが、幽霊は無邪気に微笑んで、満足そうにため息をついた。


「なんて生意気なんだろう。嬉しいな、こんなに遠慮なく話せるなんて」

「現世に未練のない身ですから」

「だったらなおさら、気楽に話して。もう今さらだろう? 僕、ちゃんとした同年代のお友達が欲しかったんだ」


どうやら、取引相手というのは建前で、本命の理由はこちららしい。

幽霊が、大きな金の瞳でじいっとこちらを見つめてくるので、私は迷った。

私も、前世ではチカちゃんにどれほど救われたことだろう。

何でも話せる訳ではなくても、自分の話を対等に聞いてくれる存在がいることは、本当に救いだった。


「ねえ、ユレイア。僕、今は幽霊なんだ。まわりに権威を見せつけなくちゃいけない相手なんかどこにも居ない。なのに、唯一お話できる君にもよそよそしい態度、取られたくない」

「それは……」


──コツ、コツ、コツ、コツ


その時、廊下から規則正しい足音が聞こえてきて、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。


「お父様……」

「ん?」

「お父様の足音……っ!」


ぱあっと目の前に光が差したようだった。

そうだ、どうして気付かなかったのだろう。


幽霊は実在する!

こうして目の前でふわふわと浮いている!


だったら、私の家族が来ない訳がない。

だってここはお父様のご実家なのだから。

すぐ私のところに現れなかったのは不満があるけれど、でも許してあげる。

だって、こうしてまた会いに来てくれたのだから!


私は寝台から転がり落ちるようにして降りて、三歩で扉の取っ手にすがりついた。

体当たりの勢いで扉を押し開け、浅い息と共に廊下へ飛び出す。


「お父様……!」


けれど、そこに居たのは、銀の髪を厳格になでつけた、いかめしい貴族の老人だった。


冷たい赤い目をして背が高く、姿勢よく立った姿は壁のようにそびえている。

私は、燃えさかる喜びが、しゅっと水をかけられたように消えていくのを感じた。


「……スぺラード伯爵、おはようございます」


凍り付いた顔のまま、私はぎこちない仕草で喪服の裾を持ち上げて、この屋敷の主人たる、スぺラード伯爵へ礼をする。

私の後をくっついてきたウィルがふわふわ隣に浮きながら、


「なんか、さっきから屋敷の中をうろうろして、客室を見て回ってたよ。眠れないのかな?」


と補足してきた。

岩のように厳格そうな老人は、頭を下げる私を、眉間に皺を寄せたまま黙って見下ろしている。


ずっと一緒に暮らして可愛がってくれた母方の祖父母と違って、父方の祖父はほとんど会ったことがない。

大人達は複雑な事情を五歳の娘にはまだ伝えてくれなかったので、お父様と喧嘩別れしたらしい、ということだけ何となく知っている。

この祖父こそが、私を子爵屋敷から助け出してくれたらしいのだが、呆然としていた私は、何と挨拶したかもはほとんど覚えていない。

ただ、お父様が納められた棺に向かって、


「この大馬鹿者が! 私との唯一の約束まで違えたか!」


と叫んだことだけが記憶に残っている。

外の嵐の雷鳴よりも鋭い、叩きつけるような声だった。


「……何故、間違えたのだ」


ようやく、低い低い声で訪ねられて、私は全身を縮こめながら顔をあげた。


お父様と間違えたことを咎められているのだ、ということはすぐに分かった。

当たり前だ。

この人はアウローラ王国でも十本の指に入る大貴族。伯爵家の当主なのだから。

私は震えながら「申し訳ありません」と囁いた。


「あ、足音が同じだったのです。お父様はいつも、家族みんなの部屋を回って、寝る前におやすみのキスをしに来てくださいました……。その時の足音と、同じだったから……」


言いながら、夢の残滓が胸に迫って、鼻がツンとした。

目の前に居る老人とお父様は、目の色も髪の色もまったく同じだ。

くっきりした鼻筋や目元がよく似ているのがますます悲しくて、懸命に涙をこらえて、声が震えそうになるのを抑えた。


「お、おとうさまが、幽霊になって、き、来てくれたんだと思って……」


スぺラード伯爵は、しばらく黙ってから、苦い物を食べたような声で呟いた。


「……幽霊などいない」


ウィルが私の肩の近くにふわふわと浮いて「いるよ! 失礼な!」と拳を振り上げ、不満いっぱいに抗議した。

だが、もちろんスぺラード伯爵には声どころか気配も全く通じないらしく、眉間の皺を深め、石に刻むようにして告げる。


「私は戦場で幾百の人間を斬り殺して来た。もしも幽霊がいるのならば、私はとっくに呪い殺されていただろう」


もしも、スぺラード伯爵の周りをくるくる妖精のように飛び回り、


「いや、ふつうにあなたが強いだけじゃないー? 僕も幽霊になったばっかりだから詳しくないけど」


と小首をかしげている幽霊がいなければ、私もその言葉に心から頷いていただろう。

そういえば、彼は幽霊なのだから、自分以外の幽霊も見えたりしないものなのだろうか?


「どうして、この倉庫から出てきた」


私の疑問は、スぺラード伯爵の重々しい問いかけでさっと散った。

もちろん、見知らぬ親戚のおばさんに連れてこられたからだ。

放置していたから、暗黙のままに認めていたのかと思ったけれど、把握していなかっただけらしい。

葬式は急で、それでいて盛大だった。多くの人間が行き交って連絡があちこちで行違っていても不思議ではない。


私は、あのおばさんの仕返しのことを考えてうつむいたままちょっと悩み、でも結局正直に言うことにした。


「案内された部屋が、ここだったので……」


嘘をついても、この厳しそうな老人にはすぐばれると思ったのだ。

スぺラード伯爵は、苛立ちを飲み込む時の人間がよくやるように、ふーーっと深いため息をつく。

やられっぱなしの孫を情けないと思っているのだろうと思うと、恥ずかしさに耳が熱くなった。

ウィルが「え、そうだったの? ひどいねその侍女!」と目を丸くしているのが聞こえて、少しだけ気が楽になる。


「そうか」


スぺラード伯爵は、それだけ言うと、しばらく黙った。


「おまえを探していた。……着いてくるがいい」


部屋に戻れ、あるいは罰でも受けろと言われるのかと思っていたので、意外だった。

私の肩の近くにひょいと顔を近づけた幽霊が、


「え、どうしたんだろう、何だろうね?」


と小鳥のように首をかしげた。今日だけは、私もその疑問に同意しかない。


スぺラード伯爵の歩幅は広く早く、私は小走りになって、磨き込まれた黒い石床の廊下を追いかける。

スぺラード伯爵は速度を緩めず、振り返りもせずに言った。


「葬式に遅れてきた客がいる。面倒な身分の相手だ。疲れているだろうが、顔を出すのが貴族の務めだ」


           *


スぺラード伯爵の住む、スペラード伯爵領の領主屋敷は、生まれ育ったトーラス子爵領の領主屋敷より何もかも豪華で、大きく、冷え冷えとしていた。


「へえー。流石は初代王からの忠臣、スペラード伯爵家だよね。古くて格好良いー」


ウィルはそう言って物珍しそうに飛び回っていたが、懸命に早足でスぺラード伯爵の後を追っている私には、ちっとも魅力的に映らなかった。

トーラス子爵領の領主屋敷は、木製の廊下に緑の絨毯が敷かれていた。ここは黒くつやつやと磨かれた石床に、ところどころ赤い絨毯が敷いてあって威圧的だ。

天井は以前よりも倍くらい高く、それに合わせて飾られた絵画も四倍くらい大きくて圧迫感がある。

それに、飾られている絵も風景画ではなく先祖の人物画で、目元が動きそうで不気味だった。


「やっぱり先祖代々の絵画ってどこでも飾るんだね。おもしろーい」


貴族の家あるあるを楽しんでいたウィルは、しばらく天井付近まで飛んでご先祖の顔を腕組みして観察していた。

けれど、すぐに満足したのか戻ってきて、私の横にくっついて浮く。

これだけ大きい屋敷なのだから、使用人とすれ違っても良さそうなものなのに、住んでいる区画が違うのか、あるいは避けられているのか人の気配はなかった。


広さに相反して窓の数が少ないせいか、陰鬱に薄暗い廊下を長いこと歩き続け、二階分の階段を降りた後、ようやく人のざわめきが耳に届いてきた。

最後の階段は、一番大きく豪華な金飾りのついた階段だ。

廊下に対比して真っ白い階段は広く、降りる前から、一階の正面玄関が見下ろせた。


夜中にたたき起こされたのだろう幾人もの使用人が、ずらりと並んで壁際に控えている。

その列の真ん中に、ひときわ背の高い、黒髪の男が立っていた。


「あ、あれが遅刻した人だね」


ウィルがこっそり私に耳打ちする。

返事が出来ないので、私は耳に髪をかけてうつむくことで、うなずいたのを誤魔化した。

来客は、喪服だからではあろうが真っ黒で、遠くからでも妙に陰気な雰囲気だった。

すたすたと一定の速度で階段を降りた祖父を見つけて、遅れてきた来客は顔をあげる。


「ああ。スペラード『将軍』伯爵、お久しぶりです」


その声を聞き、その顔を見た瞬間、体中に寒気が走った。

階段の途中で足が止まり、吐き気と寒気が全身を這い回る。


来客の顔を見てウィルが「あっ」と声を上げている。

幽霊は、すうっとスぺラード伯爵の隣に降りていったが、すぐに後ろを振り返った。

階段の真ん中で、青ざめて硬直した私に気付くと、ふわふわと寄ってくる。


「ユレイア? どうしたの?」


何とか返事をしたかったが、喉が固まって動けなかった。

私の表情に気付かないスぺラード伯爵が、一階まで降りてから低い声で淡々と聞く。


「客室に案内させたつもりでしたが」

「断ったんです。お顔を見たら、すぐに帰るつもりでしたから」


そうでしたか、と頷いたスぺラード伯爵が、改めて胸に手を当てて略式の挨拶をした。


「リチャード王弟殿下。息災でしょうか」

「ご覧のとおりです、隊長」


リチャードと名乗った男が、顔につけた眼帯を指さす。スぺラード伯爵が、ちょっと意外そうな声を出した。


「目を、どうしました」

「狩りの時に、獲物にやられまして」


その、片方しかない目が一瞬だけ階段に投げられ、私を見る。


その顔が、閃光のように私の記憶を蘇らせた。

雪の中で見た、怖気が走るほど恐ろしい、黒い騎士。

お姉様に弾かれたかぶと。

その下にひそんでいた陰気な顔が、綺麗に重なる。


私の家族を襲った男が、のうのうとそこに立っていた。


記憶とただひとつ違うのは、片目が隠れていることだ。

私がつま先で蹴った眼球が、今は眼帯に包まれている。

スぺラード伯爵が、リチャードの視線に気付いて、階段の半ばで突っ立っている私を見た。

動かなければ、と痺れたように思ったが、胸を抉るような憎しみ打たれ、挨拶どころか叫び出さないだけで精一杯だった。


その時、ぱちん、とウィルの指先が鳴り、勝手にふわりと身体が動いた。

私の指先は、まるで大人の貴族のように黒いドレスの裾をつまみ、足は音も立てず階段を降り始める。

表情は青ざめていただろうに、身体は優雅に操られ、いつの間にか軽やかに一階の床に立っていた。

私は無言で胸に手を当て、品良く裾を持ち上げる淑女の礼をする。


「紹介が遅れました。私の孫です。ユレイア、こちらはリチャード王弟殿下だ」


スぺラード伯爵がそう説明し、ウィルが「僕の叔父さんだよ」と補足する。

ふうん、と低く品定めするような目が、私の顔をじっと見つめた。

叫び出したいような衝動と戦っている私に、ただごとではないと思ったのか、ひそっとウィルが小さく耳打ちした。


「黙ってた方がいいよ。下手な事を言ったら不敬罪で捕まるから」


リチャードは、黙って私を見下ろしていたが、ふいっと顔をスぺラード伯爵の方へ向けると、陰鬱に小さく呟いた。


「叔母に……。ジョセフィーヌに、よく似ていますね」

「ああ……。目も、髪の色も、妻と娘と同じですからな」


ゆっくりとまばたきするスぺラード伯爵に頷いてから、リチャードはちらりと後ろに視線をやった。

壁際に並んでいた使用人の一人が頷いて、豪華な箱をすっと捧げ持つ。

リチャードは、箱を開けて中から巻物を取り出すと、スぺラード伯爵に差し出した。


「こちらの書状をお受け取りください」

「これは?」

「今回、痛ましい事件があったトーラス子爵領ですが、国王陛下のご判断で、私が領地管理をすることとなりました。ご確認ください」


その言葉を聞いた途端、猛烈な憎しみが、腹の底から燃え上がった。

それは、私の中にこんな熱が本当にあったのか信じられないほどの、身を焼き焦がすような業火だった。


私の暮らした領地を! 

人魚の住む湖。金のひまわり畑。羊が草を食む丘に一面の麦畑。

あの美しい家族の領地を、この男が! 


とっさに飛びかかりそうになった足を、ウィルが指を鳴らして止める。

リチャードは、私のことを見もしない。

スぺラード伯爵と低い声で、二、三言葉を交わすと、陰気な顔のままに頷いてまた一礼をした。


まるで、私など存在しないかのように。

トーラス子爵領の生き残りなど、物の数にも入らないとでも言っているかのように、護衛騎士や使用人を数多く連れて、巨大な扉を開き、去って行く。

冷たい雨が一瞬吹き込み、扉の閉じる大きな音と共に途切れた。


彼が立ち去った直後に、スぺラード伯爵が私を見て、しばらく黙った。

強ばった顔のまま、王弟の去った扉を凝視している私に、彼が何を思ったのかはわからない。

ただ、


「……すぐ戻る。そこで少し待て」


そう言うと、残っていた使用人を呼び集めてどこかへ歩き去ってしまった。

どこか一階の部屋で、今もらった書状の話をするのだろう。


何人か、護衛らしき騎士が壁際に残ったけれど、広い屋敷のせいでその姿は遠い。

私はただ一人、放り投げられた人形のように、ぽつんと大階段の前に残された。


いいや、一人ではない。

私の身体を押さえていた幽霊が、浮くのをやめて足をつけて、隣でじっとたたずんでいる。

彼の視線を感じながら、私は低く、低くうめいた。


「殺してやる……」


ひそやかな声は、分厚い扉越しでもかき消せぬ、外の嵐の音に紛れた。

ウィルは隣に立って、共に扉を見つめながら、静かに聞く。


「彼、なんだね……?」


そう、と私は唇だけで囁く。


あいつだ。

あいつが私の屋敷を襲ったんだ。

私の家族を殺し、のうのうと生きて、今、あの美しい領地まで奪った!


「ウィル」


薄暗い玄関ホールの中、私は初めて幽霊の名を呼んだ。


「うん」


ウィルの静かな声がする。

彼は、だらんと垂れた私の手に触れたらしい。

冷たい空気が私の手に触れ、足の横まで包み込む。

その冷たさを胸に刻みながら、私はどろどろの黒い粘液を吐き出すように囁いた。


「どうかお願い、私と一緒に復讐して」


私は間違っていた。

こんなのじゃ、私は死ねない。


「あいつがこれから……家族の。使用人の。私の屍の上で甘い汁を吸うだなんて、死んでも死にきれない」


ぱちんと指が鳴って、私の指に小さな抵抗が起きる。

私は掌に全力で力を入れ、触れられない幽霊の手を、強く強く握り返す。

ウィルはふわりと私の耳元に寄り、何故だか妖しく囁いた。


「取引成立だね」


取引相手は、幽霊らしく謎めいて笑っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る