第9話 波乱のピクニック


背の高い草が私の肩を半分隠して、色とりどりの花を咲かせている。

足を踏み出すたび、小さな虫と光る妖精がふわっと舞い上がり、私のドレスの裾をからかって揺らした。

子供の身体は、元気だけれど足が短くてちっとも進まない。

釣りをしている面々を呼ぼうと丘を下ったが、思ったよりも遠くて私は途中で息を整えた。


鉄の臭いがする 鉄の臭いがするよ

スペラードから鉄の臭いが飛んでくる

誰が女騎士様を殺したの?

私、と愛馬が言いました

足が痛くて 驚いて 落としてしまった 大切な主人を


ふいに私の周りを飛び交っていた妖精達が、さわさわと囁きあって、変な歌を歌い出した。

大きな雲が太陽にかかったのか、晴れているのに急にあたりが暗くなる。


皆が聞いた、鳴り出す鐘を

かわいそうな女騎士様のお葬式の鐘を


葬式だなんて、穏やかじゃない。

私は顔をしかめてまた歩き出した。

妖精達は、普段気まぐれにきゃあきゃあはしゃいだり、花にとまってくすくす笑っているだけなのに、たまにこうやって一斉に歌い出すのだ。

変なことではないけど、今日のは妙に不穏な歌詞だ。


お母様は気付いているのかなと思って、歩きながら振り返ったら、彼女はちょうど立ち上がって、丘の反対側に走って行くところだった。

ベリー組を迎えに行ったのかも知れないと思ったけれど、靴が置きっぱなしなのは妙だった。

お母様はトリアと違って、草の感触を感じたくて裸足になるタイプではないはずなのに。


──早く釣り組の人達を呼んでしまおう。


何となく不穏なものを感じて、私は足を速めた。

その途中で、足早に丘へと駆けていく侍女のシーラともすれ違う。

少し距離があったので、ほとんど草に埋もれて歩いている私には気付かなかったようだ。

彼女が走り去ったところは、木の枝が埋められて小道になっていた。

草をかき分けてそちらに移ると、またせっせと歩いて湖の畔へと降りていく。


「お祖母様、お兄様ー……」


湖のふちは、葦の生えた砂利の浜で、穏やかな波がちゃぷちゃぷ打ち寄せていた。

少し突き出た桟橋の上で釣り糸を垂らしていたお兄様が振り返り、驚いたように釣り竿を揺らす。


「ユレイア! こんなところに来るなんて、どうしたの?」


私が呼びに来ただけでこんなに嬉しそうな顔をする彼に、兄であるというだけで苦手意識を持っている罪悪感に胸がちくっとした。

ちょっとだけ腰が引けるのを隠しながら、おしとやかに笑ってみせる。


「お姉様達が帰ってきたので、呼びに来たんです」


トトトッと音を立てて桟橋を歩いて行くと、お兄様の隣で折りたたみの椅子に腰かけていたお祖母様が「おやおや」と言いながら立ち上がって寄ってきた。

まだ背筋のぴんと伸びて毅然としたところのあるお祖母様は、私の手を乾いた手で握り、私が来た丘の上を見る。私もつられて振り返った。

侍女のシーラが向こうに走って行ったはずだが、不用心に荷物だけ取り残されて、そこには誰の姿もない。


「そうね、行くのはいいんだけど。今はどうしましょう。妖精が騒がしくってね……」


お祖母様も、妖精が見えている人なのだ。

安堵と連帯感に近い感情が湧いてきて、私はお祖母様の手を握った。


「あの、お祖母様。実は私も……」


私が、さっき聞いた妖精の歌の話をしようとした時だった。


「うわあああ!」


大きな水音がして、お兄様の悲鳴が桟橋の先から聞こえてきた。

慌てて顔を上げると、ぐぐうっと深くたわんだ釣り竿の先で、お兄様が必死に身体を曲げて、歯を食いしばっていた。

大物がかかったらしく、右に左に腕を振り回され、かかとがずるずると湖の方へ引っ張られていく。


「手を離しなさい、ロビンハート!」


お祖母様の鋭い声は、一瞬遅かった。

ひときわ大きく引かれた釣り竿に、少年の小さな身体はつんのめって転び、湖の中へ頭から落下した。

お祖母様の悲鳴が響き、私も一気に血の気が引く。


「お兄様、お兄様!」


桟橋に膝をついて水面を覗き込んだが、泡が立ち上ってくるだけで、少年が浮き上がってくる気配はない。

冗談じゃない。彼は前世の兄と違って本当に良い子なのだ。

飛び込んで助けたかったが、子供の身体で年上の男の子を引っ張り上げることはできない。

おろおろしているうちに、ドレスを勢いよく脱いだお祖母様がその場で湖に飛び込んでぎょっとした。


「お、お祖母様ー!」


私の悲鳴じみた声は、盛大な水音にかき消された。


このあたり、足はつくだろうか。水が冷たくて心臓発作で死んだらどうしよう。

私は半泣きになりながらあたりを見回し、はっとした。

騒ぎを聞きつけたらしい人魚達が、歌うのをやめ、こちらを不思議そうに眺めているのだ。

私は岩場へ身体を向けて、喉の限りに叫んだ。


「助けて、人魚さん助けて! お兄様とお祖母様を助けて!」


きょとんとしていた人魚が、岩場から湖に滑りこみ、素晴らしい早さでこちらへ泳いでくる。

丸い顔が、桟橋のそばで、落としたボールみたいにぽこっと浮き上がった。

濃い緑の濡れ髪をした乙女は、どうしたの、といった風情でにこにこと無垢に小首をかしげている。


今、目の前で子供が溺れているのに!


妖精には人の常識が通じないのだ。

姿が近い分、その恐ろしさに身震いをする。

だが、人魚は普段から水に住んでいるのだ、と思い出してはっとした。

もしかしたら、人間がただ遊んでいるだけのように見えているのかも知れない。

震える拳をぎゅっと握り、混乱する頭で何とか言い直した。


「今、湖に落ちた、お祖母様とお兄様を岸まで運んで、これからも地上で元気に暮らせるようにして。お礼はするから! 今日持ってきたレモネードもベーコンもパンも全部あげるから!」


妖精に何か願い事をしたことはなかったが、普段から窓辺に置いたミルクやクッキーをよく食べているので、お礼も付け足す。

人魚はふんわり微笑むと、ひとつ頷いてぽちゃんと音もなく湖に潜っていった。


──どうしよう、どうしよう。


私ははらはらした気持ちで水面を睨んでいたけれど、光が反射しているせいで、うまく水中が見えなかった。

その上、さっきまで浮いてきていた泡もない。


──頷いてたけど、わかってなかったらどうしよう。いたずらで溺れさせたらどうしよう。


不安で不安でカタカタ震えながら胸元を握りしめて、浅く短く呼吸をする。

永遠にも思えるような時間だったが、実際にはほんの数秒だったのかも知れない。


ざばっと水音がしたので首をひねると、桟橋から少し離れた砂利の岸に、お祖母様とお兄様が重なり合うようにして打ち上げられていた。

すぐそばで、人魚が居心地悪そうに砂利へ身体を乗せている。私は慌てて桟橋を駆け戻ると、丸い砂利の浜辺を走って二人の元へとたどり着いた。

人魚は、ひょいと顔を上げると私を見つけて、のんびり手を振ってくれる。


「あ……ありがとう! ありがとう!」


両手を組んで何度も何度もお礼を言うと、人魚は、ほのぼのと笑って私に何かを差し出した。


「え、これは……?」


思わず受け取ったそれは、海草と花の間のような、細い茎をした青い花だった。

星のような五枚の花びらは美しかったが、何に使えばいいかまったく分からない。

げほっ、げほっ、と咳き込む声がして振り返ると、結った髪がざんばらにほどけたお祖母様が、身体を起こしてこちらを見ていた。


「に、人魚の花だよ。ロビンに食べさせなさい」


水を飲んでいるかも知れない、と付け足されて私は半泣きで頷いた。

二人が岸に居たことで喜んでしまったが、駈け寄ってみれば、岸に仰向けになったロビンはかたく目を閉じ、気を失っている。

その青ざめた頬にぞっとして、私は無理矢理口をあけさせると、青い花びらをちぎって口に突っ込んだ。

怪しげな植物ではあったが、妖精がくれたものだ。きっと効果があると信じたい。


だが、意識のない人間に、何かを飲ませたことなどない。

なんとか飲みこんでくれないかと口を閉じさせ、心臓がばくばく言うのを感じながら、次の花びらを千切っていると、少年の細い喉がゆっくりと動いた。

とたんに一瞬、喉がふわっと青く光り、お腹や胸のあたりまで広がった。

腕や指先が、またたくようにチカチカっと光ったかと思うと、そのまま静かに消えていく。


息を飲んで見守る私の前で、ロビンはゆっくりと二枚貝のようなまぶたをひらくと、赤い瞳を不思議そうに動かした。


「……あれ? ぼく……」


一気に肩の力が抜けて、私はその場でうずくまった。

感情の揺れ幅に幼い身体がついていけず、ぼろぼろと涙をこぼして細く呻く。


「よ……よかったぁ……」

「ああ、よかったよ。本当によかった、ロビンハート。ユレイア、よくやったね」


お祖母様が、べそべそ泣く私と、まだぼんやりしているお兄様を一緒くたに抱きしめて、深く深くため息をついた。

そのそばで、どういう流れなのかよく分かっていなさそうな人魚が、それでもにこにこと私達を見守っている。

お祖母様が人魚をちらりと見て、こっそり私に耳打ちをした。


「お礼に何かあげるって言ったかい?」

「れ、レモネードと、パンと、ベーコンを全部、です」

「そりゃあいい。人魚は地上の料理が珍しいからね」


お祖母様は満足げに笑って、人魚を振り返ると、すいっと背筋を伸ばして告げた。


「今日の月が昇る前に、約束の品を桟橋から湖に捧げます。孫と私の命を救ってくれて、本当にありがとう」


人魚は、ひとつふたつまばたきをすると、にこりと頷き、手を振ってそのまま湖に帰っていった。


「これで大丈夫。後で私がやっておいてあげるよ」


そう言うとお祖母様は、コルセット姿で豪快にのびをした。

トリアとそっくりの赤毛を無造作に絞って水を切るのを見て、もしかしたらこの人は若い頃相当おてんばだったのかも知れない、とこっそり思う。


「ええと、お祖母様、ユレイア。そこに何かがいたんですか? 今、湖に帰っていった気がするんですが……」

「ああ、湖の善き隣人だよ。……ユレイア、今の人魚の髪は、何色だったかわかるかい?」

「えっと、緑です」


まだこぼれそうな涙を拭って答えると、そうかい、と頷いてお祖母様は額の髪をかき上げながら、ぶつぶつと小さく呟いた。


「そうか。トリケの指輪もなしに……そんなにはっきり見えるんだね……。これは、確かにマリーの言うとおりに……」


何か怒られるのだろうか、と不安に身を震わせている私の手を、ぎゅっとお兄様が掴んだ。

驚いて飛び上がったが、水に濡れて冷え切った手が可哀想で、振りほどくのはためらわれる。

お兄様は、何故だか緊張した顔で私の顔を覗き込み、真剣に問いかけた。


「もしかして、ユレイアが妖精に頼んでくれたんですか?」


私が答える前に、お祖母様が「そうだよ。人魚の花までもらってね」と口を挟んだ。


「人魚の花まで!」


目を見開いた少年は、私の手にまだ握られた、半分千切られた青い花を見て、わあっと歓声をあげる。


「ユレイアは、僕の命の恩人ですね」


とろりと蜂蜜がこぼれるように微笑まれて、私は必死に首を横に振った。


「わ、私、なにもしてない……です。全部、人魚が……」

「でも、頼んでくれていたのでしょう? 僕のことが恐いって思っていたのに」


ぎょっとして私はお兄様を見上げた。

彼は、ちょっとさみしそうに苦笑している。

確かに避けてはいたけれど、そこまであからさまな行動は取っていなかった。三歳の気まぐれ程度に受け取られる範囲内だと思ったのに。


子供だ、子供だと思っていたけれど、何もかもばれていた。

彼だって傷ついていたのに、ずっと指摘せずにいてくれた。

私よりずっと幼い子供から受けていた気遣いに、私は顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなった。


「あの、その……」


細い声を吐いてうつむく私に「はい」とお兄様が、優しい声で頷く。

こうなれば、もはや隠し通すことは出来そうにない。

私は全身が羞恥で焼け焦げそうになりながら、必死で声を絞り出した。


「こ、こわい夢を、みて」

「はい」

「そ、その。夢の中では、別の人が、兄で。とってもいじわるで……」

「はい」

「だから、ここにいるお兄様が、悪いことをしたんじゃありません……」


こんなことで言い訳になるだろうかと思ったけれど、お兄様はちょっと鼻をすすって、一言涙声で囁いただけだった。


「それなら、よかったです」


私は涙に濡れた目をあげた。

彼は、赤い瞳のふちぎりぎりにまで涙をいっぱいためて、ふふふ、と小さく微笑んでいる。


「大丈夫です、だって僕、ずっと嫌われていても、うんと優しくしてあげようって決めていたんですから」


幼くても大人びた、精一杯の虚勢で。

でも、年相応の舌っ足らずの口調で、彼は囁く。


「だって、僕のはじめての、ひとりだけの、妹なんですから……」


語尾が揺れて、微笑んだ口元が震える。

とうとうこらえきれなくなった涙が、ぼろっと真珠のように赤い瞳からこぼれおちた。

私の目からも、さっき止まったはずの涙があふれて落ちる。

ひっく、と肩でしゃくりあげながら、私は細い声を絞り出した。


「ごめんなさぁい……」


私はずっと、見くびっていたのかも知れない。

良い子だから愛されるって、勝手に思い込んでいたけれど、そんなの関係ない。

お母様は正しかった。


私がどんなに心を閉ざしても。

裏切りに怯えて愛想笑いをしていても。

眠りに逃げて拒絶をしても。

多分私は、雨の降るように愛される。


なんて理不尽なんだろう。

私がずっと愛情を求めていた時は、どんなに頑張っても手に入らなかったものが、ここでは惜しみなく降り注ぐ。

私が目を閉ざしても、首を横に振ってですらも、ただひたすらに、温かく。

何故だか、死ぬ前に聞いた言葉が耳によみがえった。


『あなたのせいじゃありません』


あの時、先生泣いていたな。

どうして私、聞いてなかったんだろう。


「お兄様。レイアのロビンハートお兄様。本当に、ぶじでよかった……」


私は泣きながらそう言うと、ずぶ濡れの幼い兄の膝によじのぼり、薄い胸にしがみついた。

けなげで優しいお兄様は、ちょっと信じられないように固まっていたけれど、やがてこわごわ、小さな妹のことをぎゅっと抱きしめてくれて。


「うん……うん……ありがとう……」


何度も何度も頷くと、やがて大声をあげて泣いた。


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