茜川の柿の木後日譚――姉の夢、僕の願い** 【バッドエンド】

永倉圭夏

第70話** 磯釣

 今日の釣果はまあまあだった。息子の博也も特に不満はなさそうな様子で釣り糸を垂れている。


 姉がその小さな肉体を病魔に蚕食されつつあった頃、僕たちは苦難の末画期的な治療法を編み出した。


 それを姉に適用すると、副作用に悶絶しながらも少しずつではあるが姉は着実に快復し、2年後にはほぼ完全にと言っていいほどの治癒に至った。僕たち医療スタッフはみんなで泣いた。教授も泣いていた。僕たちは遂に勝利したのだ。姉を蝕む病から姉を解放したのだ。


 梅雨が明けた翌日の蒸し暑い夏の日に姉が退院すると、僕は二人だけの退院祝いとしてささやかなホームパーティーを開いた。姉は喜んで食べ、飲み、そして僕らはまた添い寝をした。しっかりと抱き寄せた姉の心臓の音は今までになく力強く命のリズムを刻んでいた。


 この頃から僕と姉の関係は完全におかしくなっていった。


 姉が僕に対し単なる姉弟としての好意とは全く異なる感情を抱いているのはかなり以前から僕でも察しがついていた。が、その僕もまた姉弟としての感情とは別の想いをもって姉に心惹かれる自分を抑えきれなくなってきつつあった。もっともこれは昔から抱いていた感情に今更ながら気づいただけだったのかもしれない。


 そして気付いたのは姉に惹かれる気持ちだけではなかった。それは厳に慎むべき欲望。暗く忌まわしき渇きだった。それは姉の快復が更に進み、枯れた木の枝のようで折れそうな指と腕が瑞々しい肉と皮膚に覆われ始め、木の皮のように荒れ果てた肌が潤い滑らかに輝き、わら束のようにごわごわだった髪が本来の細く艶やかで滑るような髪質に戻って、病のせいで142センチまでしか成長できなかった姉の小さく細く薄い身体に少女のようなはつらつさが戻ってくるに従い、耐えがたくてつらくなるほどの疼きが僕を責め苛んでいった。


「クロソイ釣りたいなあ……」


 博也が呟く。この間偶然小さなクロソイが釣れたことが嬉しかったようだ。


「こないだのは小っちゃかったし、それに今は旬じゃないからなあ」


 僕が言うと博也は残念そうにうなずく。


「でもさ、あれお母さんと煮付けにしたら美味しかったよ」


「ああ、まあ確かに美味かった。お母さん料理上手だからなあ」


「ね! だよね! 春の運動会のお弁当めっちゃうまかったもん!」


 春の運動会で彼女は僕と丹精込めて弁当を作った。この寒村では運動会は昭和の昔ながらに家族の行事だった。皆漁の手を休めて学校へ集まった。僕たちも診療所を閉めてお弁当を持って博也の学校へ行く。僕たちも他の家族も子供たちの競技や出し物を見て歓声をあげ肩を寄せ合って笑った。僕がそっと彼女の手を握ると、彼女も上目遣いに僕を見つめて優しく握り返してくる。それは平穏なひと時だった。僕と彼女はようやく手に入れた、そして決して手にしてはならない背徳の幸せに浸っていた。


 夕暮れ時が訪れようとしていた。僕は腰をあげる。


「よし、今日はこれまで」


「えー」


 キャップを被った不服そうな博也の頭を少し乱暴に撫でる。


「夜は特に危ないからな。博也にはまだ無理だ」


「じゃあいつならいいの」


「中学……」


「あと二年も!」


「いや高校……」


「えー、いいじゃん。有雄や高野君なんか普通に行ってるし!」


「よそはよそ、うちはうち、だ」


「ちぇっ」


 博也はようやく立ち上がると二人で弱い潮風に吹かれて歩きだす。すると右手の遠くからセミロングの髪をなびかせ、自転車で走ってくる博也より小さな人影があった。


「おおーい!」


「あ、お母さん」


 あんな嬉しそうに大声をあげながら自転車を漕ぐのはこの島でも彼女しかいないだろう。


「そうみたいだな」


「今度は何をしでかしたのかな?」


 その博也のませた言葉に僕は思わず吹きだした。


「さあな」


 彼女は大声でこっちに向かって叫んでいる。よく聞こえない。


「ささ……ん……ら、……イ……らったー!」


「き、こ、え、なーい!」


 博也が叫ぶと、彼女は自転車を漕ぎながら前かごにある何かを掴む。それを僕たちの前に掲げた。


「鯛?」


 ああ、さっきの叫びは「笹谷さんからタイもらったー!」だったんだな。ついにやにやしてしまう。


「笹谷さんから鯛もらったんだな。今夜は鯛しゃぶにするか」


「うんっ!」


 僕たちは彼女に向かって笑顔で駆けだした。


「お母さーん! 鯛しゃぶ食べたーい!」


 僕も叫んだ。


愛未まなみーっ! 僕にも食べさせてくれー!」

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