十六 その感情は…

 舜は呆然と自らの膝に縋り付く女を見下ろした。

 余裕で澄ました顔を見せていた流麗は何処にもいない。

 ただただ、死に向かおうとしている舜を引き止めるばかりの姿は弱々しい。小刻みに肩を振るわせ、心の底から舜の生を願っているようにも見える。

 まだ出会って、たった数日。


「……流麗、」


 舜は握られた手を労るように優しく握り返し、空いていたもう一方の手を隠れていた流麗の頬に添えた。掌とはまた違った、凍える冬を思わせる肌の冷たさ。

 その冷たさに紛れて、別の感触が舜の指に伝る。驚きのあまり流麗の頬に添えていた手に力を入れて、顔を上に向かせれば、流麗の頬には幾重にも涙が伝い流れていた。


「何故だ。何故、そなたは俺にそこまでする必要がある。姫家に仕えているだけだろう。亡き顓頊せんぎょく帝の言葉のままに生きているだけなのだろう? 姫家が消えれば、そなたは解放される筈だ」


 舜はそっと袖で流麗の涙を拭いながらも、これまでの疑問をぶつけた。

 現状、皇宮と道士や巫覡、寺院や道院は決裂している。先帝の行いとはいえ、当時皇宮に勤めていた道士と巫覡は理由もなく殺された。その状態で姚家からの返事は見込めないとすら隋徳は考えていた程だ。

 だのに、これまで殆ど関係が切れていたのにも関わらず、姚家は隋徳が送った手紙に颯爽と返事をした。

 いくら過去に繋がりがあったといっても、顓頊帝の時代から二百年。時の隔たりを忘れさせる程、流麗は舜の為にと、あっさりと道士や巫覡を呼び問題を解決した。


 その理由が、舜には判然としなかった。


「流麗」


 舜は囁くように呼びかける。

 一度は口籠るも、流麗は舜の柔らかい声に促され口を開く。ただ、己の事を話すのが得意ではないのか自然と目線が落ちた。


「私もこれまで、生涯姫家にお仕えすると教えられきました。それが、我らが姚家の勤めであると。例え、お呼びがかからなくとも、このえにしは絶やしてはならないのだと。けれど、儒帝陛下の時代は貧しい記憶しかありません。税は重く食べるものは無い。己の欲望のままに生き、民を苦しめるような人物が、自分の主人なのかと嘆いていました」


 流麗は糸寂しじゃく道院で育ったのだと言った。

 姚家として扱われるが、女に生まれると力の扱いを学ぶ為、道士として生きるのだと。親と呼べるのは、流麗と同じ禍祓まがはらいの叔母だけ。教えは厳しく、しかも道院も、食うに困る状況。

 皇帝陛下の為にと教えられるが、思慕の情には程遠い。道士や巫覡を意味もなく殺し、色欲に溺れた男だ。それでも叔母は、いつかは皇帝陛下からお呼びがかかるかもしれないと、流麗に厳しくあった。


『なんて、馬鹿げているのだろうか』


 聞けば、噂では皇帝の子は次々に病で倒れているという。いっそ、滅んで仕舞えば良いのに。修行を受ける傍で、流麗は姚家という存在を忘れていてくれとすら願っていた。


 だが、ある時。突如、儒帝は崩御した。


「先帝陛下が身罷られた頃、私は道院を出て、地方を巡っていました。禍祓いは数が少ないので、あちこちを旅して――なので、崩御も風の噂で知ったぐらいです。それから暫くは、皇都に戻る機会もなかったのですが――先帝陛下の崩御から三年経って、漸く皇都に戻って驚きました」


 貧しい物乞いで溢れて、荒れ果てていた皇都の姿が、少しづつではあったが様子が変わっていた。道ゆく人々の顔には笑みが溢れ、酒房に出向けば、剋帝陛下を讃える声がある。

 剋帝陛下が、貧しさに喘ぐ者たちの為に私財を投げ打ったという。それだけでなく税も軽くなり、街並みも明るくなった。たった数年で皇都は流麗にとっての見知らぬ地となったのだ。

 流麗はあまりの様変わりに言葉を失って、帰る場所を間違えたのかとすら思ったと、静かに笑った。


「それから、皇都が華やかな街並みへと代わり行くのに、そう時間はかかりませんでした。勿論、全ての人が貧しさから抜け出せたわけではないでしょう。でも、私は確かに陛下の功績を目にしたのです」


 流麗は目を輝かせ、当時を語る。まるで幼い子供が夢を抱くかのように。


「私よりもお若い方と聞いて、心弾ませました。聡明でいて、慈悲深いお方。それが、私がお仕えする方なんだと。例え、お目見えする機会が無くとも、私は陛下の為に生きようと決めました」


 流麗の瞳は、再び舜を見つめた。


「私にとって、陛下は光です。陛下が私に生きる目的を与えて下さったのです」


 勘違いしそうなまでの熱い眼差し。握られた手はいつの間にか移動した熱で、温もりに包まれる。

  

「私の言葉など、戯言でしょう。ですが、どうか。死ねば良かったなどと言わないで下さい」


 流麗は再び包み込んだ舜の手に願いをかける。

 どうか。どうか、と。




「流麗、立ってくれないか。顔を見せてくれ」


 流麗は零れる涙を拭い、ゆるりと立ち上がった。月光に照らされた表情は、昂った感情故か赤く染まって艶めかしい。

 己の為に涙を流した女。舜は流麗の手を取ると、徐に引っ張った。


 あまりに突然で、流麗は均衡を崩して舜の膝の上に乗り上げてしまった。


「申し訳ございません!」


 流麗は慌てて降りようとするも、腕は背に回され、頭は舜の肩へと押さえつけられる。舜に抱きしめられ身動きが取れなくなった。

 温もりに包まれて、流麗の心臓は今にも口から飛び出しそうなまでに、高鳴り悲鳴をあげる。


「へい……か……」


 ただ温もりを享受出来たなら、どれだけ良かったか。ぎこちなく身体を完全に預ける事もできず、流麗の手は宙に浮いたままだった。

 それでも、舜の手が緩む様子はない。

 緊張でどうにかなってしまいそう。流麗は、舜の顔を覗く事すらもままならなかった。

 そんな状況だったが、舜の口から囀るよりもか細い声が流麗の耳にも届いた。


「……名を呼んではくれないか」


 切実な声は今にも事切れてしまいそう。

 十四歳で即位し、その後八年を駆け抜けて政策に生きていた人物とは思えないほどに弱々しい。


 家族を失い、がむしゃらに生きるしかなかった。孤独の中で、必死に生きようとしている。そう感じた時に、流麗は漸く己を締め付ける腕の温もりを受け入れてそっと背中に腕を回した。


「舜……」


 流麗もまた、囁くように返した。

 意味もなく名を呼ぶその行為を、その温もりの意味するものを今は考えない。

 流麗は、ただの姫舜となった男にそっと寄り添う。


 静まり返った夜がゆっくりと過ぎてゆく。舜纏わりついていた蟲達は暗闇の中へ、邪気は霞の彼方へと消えていった。

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