部下は魔法使い

綾部まと

第一話:不倫のリアル、書庫での情事

 私は理屈の上では、不倫は良くないと考えていた。

「黒川代理。今、大丈夫かな」

 五菱銀行目黒支社、法人営業フロアでキーボードを叩き、小さな嘘を並べた稟議書を作成していると、背後から声をかけられた。振り向かなくても、声で分かる。法人第一課の速水代理だ。三十五歳になる彼は依然として大変な美男で、彫の深い顔立ちに健康的焼けた肌、白髪まじりの黒髪はきちんとセットされている。

「書庫に、取りに行きたいものがあるんだ」

 私はうなずき、立ち上がった。いつもと違うヘアトニックの香りが鼻をつく。先月、イタリアへ夏季休暇で訪れた時に買ったのだろう。彼は髪をおろした方がセクシーだろうな、と思った。その姿を、ただの同僚の私が見たことがない。エゴにまみれた身勝手な好色男と結婚した代償に妻が得た、数少ない特権なのだ。

「じゃあ、開けようか」

 二人で書庫の入口に行員証をあてる。書庫には現金や手形などの現物も入っているため、ある程度の地位がある銀行員が二人揃わないと、開かない仕組みになっているのだ。扉が機械音を上げ、解錠された。この仕組みを考えた者は、考えが浅はかと言わざるを得ない。人間は一人で行う悪事よりも、二人で働ける悪事の方が圧倒的に多い。

 

 窓がない書庫の中はかび臭く、すえた匂いがした。その空気を吸い込む前に、速水代理は噛みつくように口付けてきた。隙と無駄のない動作は美しく、優雅な獣を思わせた。

「ここでするんですか、入口付近ですよ……」

 いきなりおっぱじめようとする彼に、機嫌を損ねないよう、丁寧に言った。欲望のスイッチが入ってしまった男性は厄介だ。遂行したい行為を阻止する者を、すべて敵とみなす。慶應幼稚舎卒の礼儀正しさも、元プロホッケー選手としての品行方正さの欠片もない。ただ、IQが3になるのだ。

「大丈夫だろ、防音は完璧だ。こんな昼間に、書庫に来る人間なんていねえよ」

「こんな昼間から、やる人間はいますけどね」

 彼は唇の端を歪めて笑い、私のシャツに手を掛けた。ジャケットを椅子にかけてきて良かったな、と思った。肌は合わせるくせに、衣類に残り香がつくのは耐えられなかった。独りで女子寮へ戻り、その匂いが鼻をつくと、死にたくなるからだ。

事を終えてデスクへ戻ると、河田課長から「黒川さん」と、声をかけられた。

「は、はい。何でしょうか」

「そんなに驚かなくても。やましいことでも、あるみたいじゃないか」

 課長は分厚いメガネの太った男性で、土気色のおぞましい顔色をしている。健康診断を受けて来た行員がいると、必ず呼び止める。コレステロール、高血圧、糖尿のどれも彼は経験済みなのだ。

 そんな彼よりもっと不健康な気がして、私は後ろめたさから立ち上がった。何か気分を変える行為が必要だった。彼の背後へ行き、立ったまま話を聞くことにした。私の忠誠的な態度に気を良くしたのか、彼は穏やかに笑いながら言った。

「実は黒川さんに、部下をつけることにしたんだ」

「は? いりませんよ」

 和やかな上司と部下の会話は、直ちに中断された。

「部下って、私の数字も彼につくわけでしょう。せっかく今期も表彰が見えてるのに……」

「営業力だけじゃなくて指導力もあるって証明できれば、出世も早いよ。人事にアピールできるし」

 私は一方的に会話を打ち切り、デスクに戻った。稟議の提出は来週末で、もう一度取り掛かる気になるには、コーヒーが必要だった。私はコーヒーを買う為に立ち上がり、難しい顔をしてパソコンを見つめている課長へ言った

「……雑用だけ、やらせます。取引先のところには行かせません」

「お!? そ、そうか。良かった。来週月曜に来るらしいから、席は黒川さんの真横にしようか」

 左隣は課長、右隣は山木くんの席だった。山木くんは私が配属される少し前から休職していて、見たことはない。横目で課長の画面を見ると、ネットニュースを見ていた。正しい選択、会社員としてあるべき姿だ。私たちは月極めで給料をもらっている。時間を捧げて対価をもらえるなら、楽な道を選ぶ方が良い。お気楽な生き方を推奨するバカみたいな自己啓発本は、年々増えるばかりで、そのコーナーは年々広がっている。日本人の知性は低下の一方を辿っているらしい。先程まで書庫でしていたことを思えば、人のことを言えないかもしれないが。この九月初旬の金曜日、件の部下が私の運命を大きく変えてしまうとは、まだ思いもしなかった。

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