第39話 茫漠の部屋-1

 何も出来ない夕刻がこんなに憂鬱だとは、ぼくも思ってもいなかった。

 いつも寝て起きるだけぐらいにしか使わない自分の部屋は驚くほど静かで、音といえば壁の時計が立てる、こっ、こっ、という定期的な駆動音と、たまに外から聞こえる、車の走行音くらいなもの。


 ベッドから見える景色も、一面の白い壁紙とそこにかかったカレンダー、リュックの寄りかかった折りたたみの机とチェスト。

 そして壁際にハンガーに掛かって並ぶ、フィールドジャケットと制服くらいだ。

 脱ぎ散らかした服一つ落ちてない殺風景な部屋に、ぼくの眠る折りたたみベッドが、まるで海の上をぽつんと漂う救命艇のように取り残されている。


 せめてその憂鬱な海から脱出しようと思っても、全身を包む倦怠感はまだそれを赦してくれそうにない。


「くそ、なんでこんなことに」


 そうぼやいても、ぼくの言葉は布団に吸収されて終わってしまう。

 異変は朝起きたときからだった。風邪をこじらせた時のような酷い倦怠感に、ぼくはベッドから出るのも困難な状態になっていた。


 もっと言うならその前の日の夜も夜半に帰ってきたものの、気絶するほどの眠気にベッドに倒れ込んでからの記憶が定かでなくなっているのだ。


 姉さんはぼくの状況を見てすぐに「過労だ」と断言した。


「私も一回なったからわかるけど、あんたも私も疲れがどかっと来るタイプだから。一晩か二晩何もしないでゆっくし寝れば治るよ。学校には体調不良って言っとくから」


 そう言った姉さんが会社に出社していってから数時間。

 疲労感に身を任せて眠っていた間は良かったが、いざ目を覚ますと何も出来ないままベッドに縛り付けられている気分になる。


 昼を少し過ぎた頃、自分の部屋の虚無感に嫌になったぼくは、枕の脇に放り投げられた携帯電話の電源を入れて、早速検索エンジンに『過労』と検索をかけてみた。


 過労の原因は肉体的疲労と共に精神的な疲労も原因である。という文字列に、ああ……と納得の声が漏れた。

 焦ってたんだ。あいつのことを突然抉り出されて。

 殆ど偶然だったが、あいつを知る人が現れて、それで動揺して、さらに昨日の昼のやりとりもあって、不必要なストレスに晒されていたのだろう。

 その時上の枠に大量に並ぶラインの通知と、チカチカ点滅する通知ランプに気づき、通知欄の『百瀬灯理』の名前で来た大量の着信に携帯電話を手放すのだった。


 そして今、所在なく天井を眺めていると、ちん、と着信音が鳴る。

 もう一度それを拾って、画面を確認する。また百瀬灯理。


「本当に段々松谷さんに似てきてる気がするな」


 ぼくは再び携帯電話を手放すと、掛け布団の下で、布団に向かって話すように言う。

 百瀬さん。あの小さくておどおどして、どこか諦観を漂わせていた少女が、ぼくの名前を呼ぼうとしたり、ぼくに共闘を持ちかけてきたりと、あんなに積極的に自分に関わってくるなんて思ってもいなかった。

 そして彼女のお母さんはあいつを知っていた。


 だからぼくは、警戒しているのかもしれない。

 ハンプティ・ダンプティに対して百瀬さんが介入してくるのを。奴を殺すのを邪魔されるのを。


 ぼくは、奴を殺さなければ変われないというのに。


<アリス……アリス>


 まただ。ぼくは意味がないとわかっていながらも布団をかぶる。


<アリス、アリスは俺を裏切らないでくれ。こっちに来てくれ。アリス、アリス……>


「うるさい、黙れ」


<アリス、パパとアリスは一緒だったろう。なんでパパを拒むんだ? こっちに来てくれ、一緒にいよう……>


「うるさい、うるさいうるさい! 消えろハンプティ・ダンプティ!」


 こっ、こっ、と言う時計の音をかき消して、あいつの声はどんどん鮮明に届いてくる。

 ぼくは布団をより深く、頭までかぶる。

 薄暗くほの温かい世界で呼び声を振り切るように、思い切り目をつぶり、耳を押さえる。


 こいつの幻聴が聞こえ始めたのは何時からだろう。

 父が事故死し、慣れない街で慣れない人達と暮らし始めて。

 それから暫くしてから、ずっと幻聴は聞こえ続けている。ぼくをこの街へ――環状線の内側へと誘うために。


 この街に帰ってきてから、ハンプティ・ダンプティは実体――嫌味な高価なスーツを身に纏った父の姿――を持って、さらにしつこくぼくを呼びかけ続けてきた。

 じわじわと。あいつが父を食った時同様に、ぼくが折れて、リングバーンに取り込まれるか自分が食うのを待ち構えてるみたいに。


<アリス、冷たくしないでくれ。みんな俺から離れていってしまった。あとパパに残されてるのはお前だけなんだ>


「違う! 最初に突き放したのはお前だ! 母さんと姉さんを最初に捨てたのもお前だ!」


<だけどお前の母親は裏切ったんだ。パパも、アリスも>


「あいつのことを母親なんて呼ぶな! あんな女大嫌いだ!」


 声に導かれるまま、あの女の赤いルージュ、香水と鼻につくほど香るシャンプーの匂い、そして甘い声が脳裏に過る。ぼくは頭を振るってそれを退けようとする。

 だが、そうするとより深く記憶がぼくの中に蘇ってくる。


<アリスもそこには本当の居場所なんかないんだ。だからパパと一緒にこっちへ……>


「父さんはとっくに死んだんだ! 一二年前に首都高で! 消えろ、消えちまえ! ハンプティ・ダンプティ!」


 その時、布団がぼくの前から取り除かれた。

 布団の重みが消失し、自分を守る盾すら失われたと思ったぼくは、思わず怠い身体を動かして、身体を折り、縮こめようとする。


「アリス……どうしたの?」


 聞き慣れた声が、頭上から降ってくる。


 ぼくは恐る恐る眼を開け、頭上の片手に布団を握っている人影を見る。

 そいつは、制服姿の百瀬灯理だった。


「随分うなされてたみたいだけど、悪い夢でも見てた?」


「……なんで君がここにいるんだ」


 開口一番、ぼくはそう吐く。

 部屋の鍵は姉さんが出て行く時にかけていったはずだ。

 なのになぜ彼女はここに侵入できているのか。それが聞きたかった。


「舞さんが連絡くれて、鍵を渡してくれたの。アリスのこと看てほしいって」


「連絡先なんかいつ交換したんだ」


「前にアリスが怪我した時。アリスがまた何するかわからないから心配だって言われて」


 疑問が氷解して、すぐにぼくは姉さんを恨んだ。軽率に彼女を呼んでしまった自分も。

 彼女は布団を手放すと、ベッド脇にちょこんと座り込む。所謂女の子座りというやつで、背が低くて女の子らしい髪型の彼女がするとよく似合っていた。


「……それで、ぼくを看にわざわざ来たのか」


「うん」

 ぼくの不躾な物言いにも動じず、彼女は頷く。

「でも、本当に大丈夫?」


「弱ってたから普段無視できるものが出来なかっただけ。大したこと無い」


「あのさ、それなら……」


 彼女は自分の脇に置いていたスクールバッグをがさごそと漁って、スポーツドリンクのペットボトルと、ココアの缶を並べる。


「風邪じゃないとは聞いてたんだけど、やっぱスポドリは頼りになると思って。ココアはさ、わたしが熱出した時にいっつも飲んで元気になれるから持ってきたんだけど……甘いの苦手とかじゃない……よね?」


「苦手じゃない」


 むしろ甘いものは好きだ。特にココアやミルクチョコレート系の味は大好物だ。

 それを聞いて彼女の顔はぱあっと明るくなり、ぼくにココアの缶を差し出す。

 

 ぼくも上半身だけ起き上がってそれを受け取った。

 缶の口を開けて、ココアに口をつけて半分ほど飲んでしまう。

 苦味がほんのり混じった甘さが口に広がって、ずっと水分を取っていなかった喉が潤い、冷やされてゆく。

 喉を鳴らしてココアを飲み干すと、だいぶ気分も落ち着いてきた。


 深呼吸を一つして、ぼくは前を向く。

 夕刻の自室は、差し込む夕陽が生む陰影のせいで部屋全体が物寂しさに溢れていた。

 そしてその物寂しさは、あの環状線都市に似ていた。


「あのさ」

 彼女が思い切ったような様子で口を開く。

「うなされてた原因、聞いていい?」


「……どうして」


「ちょっと聞いちゃったから。お前が最初に、とか、お父さんは死んだんだ、とか……」


 きっと今のぼくは、酷い様相で彼女を睨んでいるのだろう。

 それでも彼女は臆することなく、じっとぼくを、真剣な目で見据えていた。


「ごめん、やっぱさっきの撤回する」


 彼女が口にする。その口調は、彼女のどこからそんな声が出せたのか不思議なくらい、芯の通った凛とした声だった。


「聞かせて。アリスが苦しいと思うものとか、一人で戦いたい理由とか。そうすればハンプティ・ダンプティを倒せるかもしれない」


 彼女の言葉にぼくは半ば気圧けおされてしまっていた。


 単純な威圧感ならリングバーンの市獣で慣れているはずだったが、彼女の圧は明確な強い意志が籠もっていて、ぼくは圧に耐えられなかった。


「……いいよ、言うよ」


 結局、ぼくは彼女に根負けしたのだった。

 一口でココアの缶の全てを一気に飲み干す。そうでもしないと先を次げなかった。

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