第31話 過去の牢獄-2

 瞬間、重い破裂音と共に、風圧を伴った衝撃がわたしの耳のすぐ横をかすめていった。


「……まあ、外れるか」


 そう言うのは、わたしによく似た声。


 音のした方向を向くと、貫通路の前に片方の腕をこちらに向けた、彫像ようの乗客達の中で明らかに浮いている女が立っていた。

 わたしを狙っただろう大きな灰色の拳銃を構えた腕を、女は当然かと言わんばかりの陰気な口調と共に下ろすと、力なく垂れたままの右肩を眺めながら顔をしかめる。


「右が使えれば当てられたんだけどね」


 そう無感動に口角の端を上げるのは、間違いなくあの市獣――灯里ゾンビだ。


「でもあいつの言ったとおり、典子を狙ったら上手く行ったわ」


 だけど、今の奴の姿はあの時のブレザー姿の少女とは全然違っている。

 チビのわたしより一回り大きくて、服も濃紺色のブレザーでなく、淡い桜色のブラウスとニットのカーディガン。

 それに何より違うのは、死んだ目を隠すように掛けている金属フレームの眼鏡。

 まるでわたしを一回り年上にしたような姿を取った市獣は、ゆっくりとこちらに向かって歩き出す。

 頭と肩を揺らしながら一歩ずつ前に進める度、高架ホームで相対した時以上の悪意の籠もった昏い威圧感のようなものがひりひりと襲ってくる。

 リングバーンの駅で感じた気持ちの悪さと圧迫感を凝縮したような辛い感覚。

 きっとこれこそが、環状線の電車の中にいる時の、こいつの本当の力なんだ。


 わたしは市獣目掛けて銃を構える。

 しかし、さっきの練習の時と違って、定めた狙いは威圧と嫌悪にぶれてぐらぐらしている。

 車輪が線路の継ぎ目を叩く度に拳銃の先が揺れる。無理やり両手で抑えようとしても、手の震えは止まらない。


「なんで銃向けるかな。親孝行の手伝いしてあげてるのに」


「『心』を殺すののどこが親孝行なの!」


 精一杯吐き捨てると、わたしは人差し指に思いっきり力を込める。

 ぱん、と軽い音と共にわたしの拳銃の銃口が光り、手に反動が来る。

 市獣はそれを素早くかわす。

 そしてベージュのスカートを翻しておもむろに駆け出した。

 たんたんたんたん、と獣じみた動きと共に彼女の体が灰色の乗客をなぎ倒し、わたしの方に近づいてくる。

 わたしは震える手を押さえつけながら急速に迫る目標に向かって引き金を引き続ける。

 二発目をかわし、三発目も同様にやり過ごされ、四発目は胸に当たったがカーディガンに傷がついただけに終わって、遂に彼女はわたしの至近距離にまで接近した。


「はい、残念」


 わたしのお腹に、市獣の持つ拳銃の銃把じゅうはが横薙ぎに打ち付けられる。わたしの体は突き飛ばされたまま電車の床に落ちる。


 背中とお腹の鈍い痛みに悲鳴を上げるわたし。

 条件反射で上げた悲鳴すら痛みを増幅させ、さらにお腹が痛む。

 いんいんと耳の中で響く不快な音が聴覚を支配する。


 そんな時にブラウスの襟元を思いっきり掴まれて、わたしは無理やり起こされる。

 お腹と背中の痛みに加えて、市獣の発する圧迫感と嫌悪感、そして食い込んだブラウスの襟に気道が締め上げられ、息をするのが苦しい。

 痛みと苦しさに霞みがかってくる眼前に、市獣の口元だけの笑みが浮かんでいた。


「わからない? 典子は『心』の底ではこの電車に揺られて続けたいと願っているし、灯里は典子をリングバーンに『心』を食わせて現実で死ねば、本当に変われる。典子の心配やお節介から永遠に解放される。自分の自由なように振る舞える」


「そ、そんなの……違う」


 痛みの中で、抗うように声を出す。


「何が違うの?」


 わたしに似た顔が首をかしげる。


「灯里に関しては何も違わない。貴女自身『正しさ』の束縛や心配はうざったい。もうやめてほしいって思ってる。お母さんがいなくなればヒステリーな声を聞くことも、『正しさ』を押し付けられることも、何かの影響で門限や約束をさせられることもない。全部何の苦労もなく、願いが手っ取り早く叶うんだよ」


「そんなの、何にも変わったことにならない」


 わたしは圧迫された喉から声を絞り出す。

 彼女の言う変化は確かに簡単だ。だけど根本が変わるじゃない。

 わたし自身は何も変わらないまま。また『正しさ』を押し付けるような人と出逢えば、その人の『正しさ』を無理に押し付けられて、同じ様に束縛を受け入れるだけなのだ。


「わたしが変わるためには、お母さんがいなきゃいけない。お母さんに話を聞いてもらって、お母さんを説得できて、はじめてわたしは今のわたしから変われるんだ」


 ちっ、と舌を打つと、市獣は襟を掴んでいた左手を離した。わたしは落とされた床の上に横たわって、げほげほと咳き込む。

 眼鏡をかけた市獣はわたしを一瞥してから、お母さんの方に歩き出す。


 席に座ったままうなだれたお母さんに向き合うように市獣は立ち止まって、再び左手に鈍い灰銀色に光る大きな拳銃を出して、構える。

 二人の並んだ貌を見て、はたとわたしは市獣の意図に気がつかされた。

 こいつが似せているのはわたし――百瀬灯里じゃない。

 この市獣はお母さん――まだ苗字が百瀬になる前の、お母さんが怖がる『過去』――別府典子べふのりこの背格好を再現しているんだ。

 お母さんの過去の傷を広げて、『心』をより閉ざさせるために。


「灯里が変わろうとする度に、典子は過去に苦しめられる。残酷よね」


 市獣がぽつりと独り言つ。


「でももう心配いらない。環状線の上なら、この街の中なら、典子は何も心配しなくて、怖がらなくて良くなる。灯里、これは典子のためでもあるのよ」


 表情の無い別府典子の顔で、市獣はまだ床に横たわるわたしを見下ろした。電車が進む度にくすんだ夕陽とそれを遮る架線柱の影が、まだらにお母さんと別府典子の姿の獣にかかる。お母さんの頬の赤みはどんどん失せてゆく。


 わたしの時間を動かす金の弾丸は、お母さんの『心』に阻まれた。

 そして今わたしたちの前には、とても大きな拳銃を持って、わたしの銃が効かなくて、いざとなれば獣のように飛びかかる、とんでもなく厄介な市獣がいる。

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