第29話 魔法少女活動-2

 結局わたしが基本的な立ち回りの流れをなんとか習得して、切符を切ってリングバーンの外縁を後にできたのは午後五時半過ぎだった。

 例のごとくの山手線のホームを出て新宿駅構内のベンチに腰掛けると、何度動かし、何度ジャンプして、何度もつれたかわからない自分の足をさすってあげていた。

 この足が回復するまでは、もう歩く気すら起きない。


 疲れと一緒に重い吐息を何度か吐き出していると、千里さんが松葉杖を突き、捻挫した足を宙に浮かせながら戻ってきた。


「百瀬さん、はい」


 千里さんはわたしにペットボトル入りのミネラルウォーターを手渡す。

 わたしはすぐに封を切り、周囲の目を気にすることなく中身をごくごくと飲み干した。

 疲れて渇いた喉と、体の中に冷たい水が染みていく感覚がとても心地よい。


「ありがとうございます、千里さん」


「こちらこそ」


 千里さんはわたしの隣に腰掛けると、石鹸系の匂いがわたしの鼻をくすぐる。

 ジャギジャギザクザクに無造作に切られたように見える髪の毛も、よく見ればシャンプーが行き届いていて、ふわっと毛先もカールしている。


「ねえ、百瀬さんって昔スポーツしてた?」


 千里さんにそう言われて、急にわたしは現実に引き戻される。


「え、えっと、スポーツですか?」


 突然素っ頓狂な声を上げているわたし。

 あのですね、あのですね。と口ごもりつつ記憶を引っ張り上げて行った結果、ある記憶が網に引っかかる。


「小学生の時ミニバスをちょっとだけ……一年くらいやってました」


「ああ、やっぱり」


 千里さんが納得したような顔で頷く。


「何がやっぱりなんですか?」


「初めてにしては立ち回りが上手かったし、体幹もきっちりしてたから、前に球技かなにかやってたんじゃないかなって思って」


「そんなことないですよ。結構トチってましたし。ミニバスもみんなについていけなくて辞めちゃったわけですし」


 今日の訓練でもわたしは何回も足がもつれて転んだり、狙いを定めるまでに時間をかけてしまったりした。

 そもそもミニバスだって鈍くさすぎて、地区大会で役立たずっぷりを晒して一年で辞めたんだ。


 でも千里さんはわたしの内心を知っているのか知らないのか、ふう、と息を吐く。


「普段運動に慣れてない人がやったらトチるに決まってる。その上で上手いって言ったんだ。前も忠告したけどあまり真面目に考えすぎない方がいいよ」


「はい」とわたしは答える。


「なんなら、明日も訓練をしようか。百瀬さんの自信がつくまで」


 あ、はい。と言いかけるが、直前で返事が口から喉まで引っ込み、代わりに「あ、いえ……明日はちょっと……」という曖昧な否定の言葉をわたしは口にする。


「何かあるの?」


「眼鏡を、眼鏡を作りに行って……その後にカラオケに」


 カラオケの方は今夜香織に知らせるつもりなのだけど、不意にしてしまったら自分の中の決心とせっかく得た機会。

 それに自分自身の意思が揺らいでしまうようで、嫌だ。


 ふと、その時、わたしの頭はさっきまでの悲観も卑屈も全部振り切って、思いついてしまった考えを口にした。


「あの、千里さん。明日カラオケに付き合ってくれませんか? あともし良ければ眼鏡を作るのにも付き合ってくれません」


「……え?」


 千里さんは呆けたような顔をして、数秒ほどわたしの言葉を咀嚼しているようだった。


「嫌なら別に良いんですけど。ほら、わたし達友達みたいな感じじゃないですか。それなら友達らしいことしたいですし……」


「この前も言ったけど、友達かどうかは怪しいだろ、ぼく達は」


「舞さんが言うには、千里さんは普通の人の友達って感覚は通じないそうですから。わたしもそんな感じですし、もう友達ってことで良いんじゃないかなって」


 それを聞いて千里さんは俯いて唇を尖らせる。足が痛いからでなく、きっとお姉さんが放った余計な一言が腹立たしいのだろう。


「……確かに姉さんの言葉には一理あるけど、それはぼくの意思とは関係ないわけだし、ぼくはぼくで他人との関係を判断したいわけで……ああ、もう。なんて言えば良いのかな」


 早口で弁解の言葉を紡ぐ千里さん。

 先日の病院で見た痛々しいくらい決意に満ちた横顔と同一人物とは思えないほど、『友達』と言う単語を使うことを戸惑って、そして恥ずかしがって、言い訳を探す。

 その姿は、不可触アンタッチャブルでも輪上の乙女シャフレーンでもなんでもない、コミュニケーションの苦手な女の子の姿だった。

 そしてそんな姿を見せられると、わたしもさらに踏み込みたくなる。


「舞さんも同年代の友達が出来ることなんて奇跡って言ってましたし、千里さんだって言ったじゃないですか。心持ちは大事だって。人の『心』を強くするのは人間関係ですし」


 調子に乗っているとも自覚できていたが、わたしの口はどうにも止まらない。どんどん、どんどん突き進んでいってしまう。

 それに対して不機嫌と戸惑いと恥ずかしさで感情がハングアップ状態だった千里さんは、わたしの押しに最後には声を上げて

「わかったから。姉さんの言う通り君とぼくは友達で、日曜日のカラオケにも付き合う。これでいいだろ」

と投げやりに話を切り上げる。


 その言葉にわたしは千里さんの手を掴んで「うんうん」と頷く。


 半ば無理やり引き出したとはいえ、面と向かって友達と言ってくれて、そしてわたしの誘いに了承してくれたのはとても嬉しかった。

 手を取ってぶんぶんと振り続けるわたし。千里さんはまだ恥ずかしがって、ついでにちょっと後悔しているのか、赤くなった顔をわたしから背けていた。


「じゃあ下の名前で呼んでいいですか?」


「それはやめて欲しい」


 千里さんはばっさりと切り捨てる。


「なんで?」


「下の名前が嫌いだから」


 千里さんの口調は嫌悪感がこれ以上無いくらいに籠もっていた。

 そう言えば。と、わたしは茉莉伽さんの家の前で香織が怒りに任せて千里さんの名前をからかった時、ポーカーフェイスだったのが急に怒りを剥き出しにしたのを思い出す。

『アリス』という少女らしさを象徴するようなキラキラネームなら、多分今までに名前で嫌な思いをしてきたのかもしれない。

 小学校の頃に苗字絡みで「桃太郎」とからかわれた経験がある自分も、その気持ちはよくわかる。

 でも一方で、友達という言葉を引き出してから、わたしのヒートアップは止まらなくなっている。そんな共感程度で止まれるものでもない。


「苗字の呼び捨てじゃ失礼じゃないですか。せっかくの友達なんですし、良いでしょう」


「良くない」


「でも茉莉花さんや舞さんは下の名前で呼んでるじゃないですか」


「姉さんは家族だから仕方ないし、茉莉花さんも言って聞かない人だってわかるだろ」


「それならわたしも勝手に呼ばせてもらいます」


「……百瀬さん、段々松谷さんみたくなってきてる」


 千里さんはその後も暫く続いたわたしの攻勢に、辟易して額を抑えながらも、頑なに『アリス』と呼ばれるのを拒むのだった。


 だけどそんな問答も突然終わる。


「灯理、どうしたの? こんなとこで」


「……お母さん?」


 名前を呼ばれ振り返ると、新宿駅の雑踏の中に、余所行き着姿のお母さんが立っていた。

 そう言えば今日は土曜、お母さんはこの時間まで新宿駅のデパ地下のパートに出る日だ。


「友達と遊んでて、今帰るとこだったの」


「えっと、その子と……」


 お母さんは千里さんに怪しむ、じゃなければ不安げな視線を向ける。

 わたしは呼び出されてばかりだったので、お母さんは千里さんのことを知らないはずだ。

 それに千里さんのアンバランスな見た目もあって、怪しんでしまうのも当然かもしれない。


 そこに、わたしの脳内にある作戦が過り、それをすぐさま実行する。


「この子、わたしの友達。アリスって言うの」


 奇襲プラス既成事実作戦。

 香織が優柔不断な態度を取る子(大体わたしだが)や真っ二つに別れた決まらない話をまとめるためによく仕掛けてくる作戦を、そのまま使わせてもらった。


 隣に立つ千里さん――アリスは本当に渋い顔をしていたが、彼女自身も奇襲作戦にどうにも抗議の声も上げられないらしく、「どうも」と軽くお母さんに向かって会釈だけする。

 お母さんも不安と遠慮の混じった様子で「娘がお世話になってます」と頭を下げた。


 そしてアリスは松葉杖を器用に使ってすっくと立ち上がった。


「お母さんも来たみたいだし、そろそろお互いに帰ろう」


 お母さんから見えないその表情は愉快とは程遠く、もうこれ以上わたしには振り回されていたくない、と言いたげな様子すらあった。

 わたしは別れの挨拶の後、京王線改札へ歩きだしたアリスの背にもう一度声をかけた。


「明日のこと、忘れないでね」


 アリスはゆっくりと、本当にゆっくりと空いている方の手を振って応えた。


「お母さん、わたし達も帰ろう」


 そう言ったあと、わたしとお母さんは丸ノ内線のホームに向かう。

 お母さんは丸ノ内線の方が好き、というよりJR中央線が苦手らしい。

 階段を下りている最中にお母さんが「灯理」と声をかけてきた。


「あの子……大丈夫なの? あんなに怪我してたけど」


 心配そうに尋ねるお母さん。その声色には例の『正しさ』の欠片が混じり始めてる。

 まあ仕方ないと言えば仕方ないかもしれない。あの風貌かつ、あんなにわかりやすい怪我までしてるんだ。


「駅で足引っかけて階段落ちたんだって。あんなカッコしてるけど、普通に良い子だよ。人付き合い苦手すぎてたまに強引だけど、凄いカッコいい子」


 わたしはまた嘘をつく。

 けれど唯一の嘘――説明できそうにない怪我の原因――以外は全部本音だから、罪悪感は何一つ無く、胸を張って口にできた。


「灯里がそう言うってことは、本当に良い子なのね」


 お母さんの声から、少しだけ怯えの色が消えていた気がした。


 丸ノ内線のホームは既に夕方ラッシュに賑わっていて、わたし達は人の波を掻き分けるように荻窪行きの列に並び、電車を待つ。

 わたしの前のお兄さんはパスタのはみ出た重そうなエコバッグを腕にぶら下げていて、きっとあれがあのお兄さんの夕食に変わるのかな。と勝手に思う。


「今日、ご飯何かな」


 わたしは隣のお母さんに訊いてみる。

 百瀬家は土曜日のお夕飯はパートのお母さんに替わって、在宅勤務のお父さんが作ることになっている。

 大学時代にイタリアンレストランのオープニングスタッフバイトだったのをやたら自慢するお父さんの料理は、悔しいけど結構美味しい。


「灯里か拓の好きなものじゃないかしら」


「そうかな。最近わたしの好きなの続いたし、大葉のジェノベーゼとか、お母さんの好きなメニュー勢ぞろいかもしれないよ」


 接近メロディのすぐあとに、ホームに赤色の真新しい電車がやってくる。ドアが開いて前のお兄さんに歩調を合わせながら、わたし達も一歩ずつ進んでゆく。


 そして電車に乗り込む瞬間、ごおぉ、と耳元で凄いい音を立てながら、目の前の世界が塗りつぶされていく。

 それは、最近わたしが何度も経験したあの、境界を越える感覚。


「リングバーン……?」


 わたしが気づいた時にはもう遅い。邪悪な街は今までわざと野放しにして、のこのこと罠にかかりにきた獲物を嘲笑うように今まさに、その口を開けたのだ。

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