第25話 お母さんの怖がっているもの

「灯理」


 カウンターキッチン越しにお母さんがわたしの名を呼ぶ。


「今日鳥カシューよ」


「本当?」


 好物の名前を出されて、いきなり対決姿勢が揺らいだ。

 だけどすぐに頭を振って、再び心の中で構え、お気に入りのビーズクッションでなくソファに腰掛ける。

 お母さんが見てもないのに誰かと通信している素振りを見せるべく、スマートフォンのラインを起動し、画面を眺めた。

 じゅうじゅうとお母さんがわたしの好物を作る音を聞きながら、まだ見慣れず、そこにあるのが不思議な『橿家まりか』の文字と『千里アリス』の文字の並ぶ画面を注視した。

 そして、タイミングを見計らって口を開く。


「あのさ、お母さん。わたし、今度の日曜に眼鏡作ることにしたから……わたしの我が儘だから、わたしのお小遣いで作るね。それで帰りに香織とカラオケ行くから、遅くなる」


 もちろんそんな予定なんて香織にまだ話してない。今決めたんだから。

 暫し、二人の間に沈黙が訪れる。


「ねえ、灯理。本当に眼鏡にするの?」


 先に沈黙を破ったのは、お母さんの方だった。

 驚くほど違和感のある、だけどお母さんにしてみれば本気で心配するような口調で、わたしにそう訊ねてくる。


「するよ」


「本当に、大丈夫なの?」


「大丈夫だよ。眼鏡よりコンタクトの方が目に悪いって言うくらいだし」


「そうじゃなくてね……ほら、その……虐められたり、変な人に……」


 お母さんは本当に怯えた口調で、子供が泣きそうな理由を察して欲しい時のように、とぎれとぎれに言葉を紡ぐ。

 わたしはそんなお母さんの様子が自分と同年代の気弱な少女のように――少し前の、リングバーンに巻き込まれる前の自分のように見える。


 やっぱりそうだ。と、わたしはお母さんの理不尽な『正しさ』の正体に確信が持てた。

 お母さんは多分眼鏡や夜の街に纏わる『過去の何か』を心の底から怖がってる。

 茉莉伽さんがリングバーンを産んだ癒やしの魔法を恐怖していたように、お母さんはわたしに自分が重なって、『過去の何か』が再現されるのが怖いんだ。

 町田のおばさん――お母さんの実姉が太鼓判を押すくらいには、わたしは容姿も性格も昔のお母さんに似てるのだと言う。

 それ故に性別も性格も違う拓は大丈夫でも、わたしは過剰に自分とダブるから、怖くなるんだ。


 だから。お母さんを諭すように、わたしは言葉を返す。


「そっちも大丈夫だから。わたし意外と強いもん」


「そう……かしら……」


 わたしはまだ躊躇の混じっているお母さんの言葉に、「そうだって」と頷く。


「お母さんの心配してるような人達の話なんてわたし全然興味ないもん。お金も必要になったら普通の高校生にできるバイトするし、鈍くさいからアイドルなんて絶対無理だし、痩せるんなら香織と一緒に走り込むし……それでも変なことしようとしたら、みんな……お父さんとか拓とか香織とかも止めてくれるから」


 それから今なら千里さんも、多分きっと止めてくれるに違いない。

 ドライに見えて、困っている時に手を差し伸べる人のはずだから。


「それに昨日お父さんが言ってたみたいにさ、噂話とかお昼のワイドショーなんて大げさに言い過ぎだもん。お母さんが思ってるような悪い人なんてそうそう合わないよ」


 昨日の夜と違って、落ち着いた気持ちで、同い年の女の子とそうするみたいに話す。

 お母さんは沈黙の後に「うん」と小さな声で返してきた。


「……日曜日、好きにしていいわ」


 お母さんの声は、弱々しかったけど、違和感はちょっとだけ消えていた。

 わたしも「うん」と答える。


 その瞬間だった。

 ぶぶぶ、とスマートフォンが震え、画面が一瞬で切り替わってラインの無料通話画面がスマホの液晶を占拠する。

 発信者欄に浮かんだ名前は『千里アリス』となっている。

 絶対に大したことでは通話なんてしなさそうな千里さんが電話をかけてくるなんて、何の用だろう。わたしはそう考えながら電話を取る。


「はい、百瀬です」


『ぼくだ、千里』


 千里さんの声は電話口ということを差し引いてもくぐもって、いつもより低く唸るようだった。

 電話の向こうではごうごうと何かが背後でけたたましく轟音を立てており、そこに千里さんのふー、ふー、と荒い息の音が重なってくる。


『百瀬さん、ちょっと来てくれないか』



「一体何があったんですか?」


『説明が面倒だからとにかく来てほしい。今頼れそうなのは君ぐらいしかいないから』


「うん……」


 千里さんの言い方に引っかかりを感じた。

 だけど電話口から伝わる千里さんの様子からも緊急事態らしいことは確かだ。


 もし千里さんの緊急事態がリングバーン関連で、かなり重篤な事態に陥っていると言う内容だったら、引っかかり云々で躊躇している暇はない。


「どこにいるんですか? 千里さん」


 わたしは千里さんから居場所を聞き出すと、「ちょっと友達から連絡あったから、出かけてくる」とキッチンに立つお母さんに言い残して、パーカーと制服の中に入れていた銀の鋏を取りに自室に戻る。


 後から思えば、その時に気づくべきだったのだ。

 キッチンの蛍光灯が生み出していた陰影の中に、一際深い闇が紛れていたのを。

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